ひとを殺した小説

「まだ、独り身なんだな」

 机上に落ちる陽光が、形を変えた気がした。

「毎日、小説を書いてばかりだったからね」

 答えながら、ノートのページを捲る。全体の半分ほど埋まったノートからは、のり独特の、眉間の奥をゆるく抉られるような、しかしそれにしては清涼感のある匂いがした。作業は概ね順調である。切り抜きの残りは数枚ほどだ。

「そうか……そう、だな」

「そうさ」

 私は後押しするようにきっぱりと言った。

「君の方こそ、どうなんだい。奥さんは元気かな。結婚式で会ったっきりだが」

 私は窓の外を、簾越しに見た。コンクリートの肌。まるで温度がない建造物。きっとどこかで人を殺す、鉄の塊。表情のない人々は、もはや無機物と同じではないだろうか。そこに漂うのは、ただただ、荒涼とした空気だけだ。彼と出会った頃、世界はこんなにも汚らしい様相を示していたか? それとも、単に私が気付けなかっただけだろうか?

 彼がひとつ、深い溜息をこぼした。

「……あれは、酷い女だった。嫉妬深くて、その上ヒステリー持ちときてる。この部屋に来ることすら、浮気じゃないかと疑う始末だ」

 呆れの色濃い、しかし強めの語気で彼は語った。

「それは、また」

 声を潜めて言い、私は肩をすくめる。

 彼の結婚式には、私も出席した。友人代表として、挨拶もした。私がスピーチ台に立ち、慣れないながらもぎこちなく笑顔を作り、作文通りの祝辞を述べると、新郎新婦、両家の親戚、彼の職場の同僚や上司、新婦の友人ら、会場中の笑顔と暖かな拍手が私に向けられた。しかし、私は確かに見ていた。司会によって私の名が告げられたその瞬間、厚く化粧を塗りたくられた新婦の顔が、鬼のように歪んだのを。

 彼の妻は、私のことが最初から憎くてたまらなかったのだろう。他ならぬ女の勘で、円卓を立った私と、高砂に座る彼の間で交わされた、ごくささやかな視線を察知し、本能的に、私のことを敵視していたに違いないのだ。

 きっとそのことには、彼は気付いていない。勿論、気付かせるつもりも、毛頭なかった。

「しかも、浮気だなんだと騒いだ上に、俺の母親に言いつけるもんだから、余計にたちが悪い。母親も母親さ。それをすっかり信じちまう。そのせいで、ここに来ることができなくなってな……まったく、参ったよ。とんだ時間の無駄だった。親の顔を立てるための見合い結婚なんてするもんじゃないな」

 口早に言葉を紡ぎ、また、溜息。背中で感じる彼の様子に、すぐにでも振り向きたい衝動に駆られる。しかしそれをぐっと堪え、

「別れたのか」

 短く尋ねた。

「……昨日な。だからまた、ここに来られるようになった」

 穏やかな声音。どうやら落ち着きを取り戻したらしい。取り乱した彼は、一体どんな顔をしていただろう。眉根を険しく顰めていただろうか。目を吊り上げていた? 怒りに頬を紅潮させていたか? 私の知らない彼が、今しがたまで私の背後にいた。彼にこんな顔をさせたあの女を、私は初めて憎いと思った。

「そうか。それなら、安心だな」

 ――安心? 誰がそう思うって? 彼が? 心底安堵したのは、他ならぬ私ではないのか?

 絡まった黒い毛糸で、胸の中が埋めつくされたような心地がした。いや、私はもう長い間、このようなわだかまりを、胸に抱いて生きてきたのだ。十年もの間、ずっと。その感覚に耐えかねて、誤魔化すように犬を飼っても、それは決して消えなかった。今この時まで。

 それが何なのか、私には分からない。私の代わりに、彼が答えを出してくれるような気がしていた。そう、きっと絡まった毛糸は、彼でなければ解くことはできない。

 私は、彼がここへ来なくなってからの十年間、ずっと旅に出たいと思っていた。彼と、また青い海と空、ふたつの青が交わるのを観たかったのだ。

「そうでもないさ」

 彼が言う。そうだろう。彼がそういうと、私は思っていた。知っている。彼のことなら、私は何でも知っているはずなのだ。

 新聞の切り抜きに、のりを塗る。ボトルの腹を押えすぎ、紙の端から机までのりがはみ出す。薄っぺらな紙切れが僅かに浮く。慌ててひっくり返すが、既に表面にまでもそれは付着していた。インクが、じわ、と滲んでいる。のりの海に飲まれた文字は、こう伝える。

――『心中か? 浜辺に男女の遺体』C県のK浜に若い男女が打ち揚げられているのが発見される。すぐに救急隊が駆けつけたが、既に息はなかった。互いの手足がロープで括られていることから、警察はふたりが心中をはかったものとして捜査している――

「――待たせて、すまないね」

 残り少なくなった新聞記事をノートに貼り付けながら、私は小さな声で彼に謝罪した。

「いいさ」

 彼が微かに笑う気配。

「暗くなった方が、都合がいい」

 彼がここへ来てどれほど時間が経っただろう。陽は随分傾き、机の上にこぼれ落ちる光も橙色が濃くなっていた。まるが、伸びをした。すぐに私の足にじゃれついてくる。

「そうかい……うん、そうだね」

 私は、まるに構わず、ただ彼に同調して、頷いた。

「本当に、申し訳ありません」

 向かいのソファに腰掛けた男が、深々と頭を下げた。彼は出版社の編集者だった。私が作家としてデビューして以来十数年、ずっと私を担当してくれていた人物だった。

「いいんです。あなたのせいじゃない。もとより決まっていたお上の方針だ。これも仕方ないでしょう」

 先日、出版社から私の新作小説が発表された。ひと月ほど前の話である。売り上げはまずまず。元より小さい出版社であり、私の作家としての名も広く知れ渡っているとは言い難い。しかし一部のコアなファンがいてくれるおかげで、私は何とかこれまで、この仕事で飯を食えていた。

 しかしそれも、この日で終わり。私の小説は、今日をもって全て発禁処分となった。私の小説だけではない。他の、私の小説と同様の描写を含んだ小説は、ことごとく処分を食らっている。

「僕は、先生の小説、好きです。発禁なんて、あんまりだ。何がいけないのか、僕には……僕にはわからない!」

 声を荒げた彼は、ソファから立ち上がる。怯えたまるが、跳び上がって玄関の方へと逃げてしまった。

「ありがとう。そういってくれる人がいるだけで、私は満足ですよ」

 私は穏やかに言って、それに合う微笑を作ってみせた。

 ――人は自然死以外をもって、死してはならない――誰が得をするのか分からない、そんな法律が制定されたのは、半年ほど前だ。殺人は当然のこと、自殺すらも禁じられた法律である。これにより、この国の人は、自分すら殺すことができなくなってしまった。また、同時に刑法が改定、死刑も廃止された。犯罪被害者は、身内を殺された怨みの唯一の捌け口を奪われてしまったのである。

 さらに、この法律の余波は、徐々に様々な分野へと広がりを見せる。真っ先に規制を設けられたのが出版業界だ。文部科学省から出た通達は『殺人・自殺を誘発するような表現のある全ての書籍の発行禁止』――。これ以前にも、青少年健全育成条令の強化などで、性的表現、暴力表現を僅かでも含む漫画が既に規制を受けており、それによって出版業界は疲弊していた。そこへ、さらにこの度の規制である。今回は漫画だけでなく、文章作品も対象となり、この件で何とか残っていた出版社の多くが廃業に追い込まれるであろうとみられていた。私が寄稿していた出版社も、この発禁処分を受けて書籍を回収した後、従業員を全員解雇し、廃業することになっていた。

「それより、あなたも大変でしょう。次の働き口は決まっているんですか?」

 彼はおずおずと再びソファにかけた。

「いえ……」

 暗い顔で、首を左右に振る。

「先生、僕は……、こんな世の中、間違っていると思うんです。小説の中ですら、感情のやり場を奪われるなんて、こんなのって……ないです」

 うつむいて、怒りにか、はたまた悲しみのためにか、彼は肩を震わせた。私はそんな彼の肩に手をかけた。はっとした表情で、彼は私を見た。

「あなたがそう思うなら、きっとそうなのでしょう。自分の信じる道を行くといい。――さあ、時間ですよ。あなたは、次に行くべき場所があるでしょう。最期にあなたに原稿を渡せないことだけが、少し心残りですが」

 二度、彼の肩を叩く。途端に彼は、顔をくしゃりと歪めて、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。彼の様子を不思議がってか、先程は逃げ出したまるが、ぽとぽとと彼の足元に近付いてくる。彼は、まるを抱き上げて、さらに声を上げて泣いた。

 ひとしきり泣いた後、彼は静かにこの部屋を去っていった。私には、その背中に、彼の誇りが見えた気がした。

 そして昨日をもって、私の著書は全て、書店から撤去された。

 人が人を殺すのは罪だという。それでも人は人を殺す。何故なら人が人であるからだ。きっと誰しも、どこかで人を殺している。しかし多くの人は安堵する。自らが人を殺したのが、大抵は空想の中のできごとであるからだ。しかし空想の中で人を殺せねば、人はどこで人を殺せばいいのだろう。

「なあ、お前は今まで、何人殺した?」

 彼の問いに、手が止まる。切り抜いた新聞記事は、残り一枚。

「さあ、どうだったろう。取引先の部長に、会社の後輩、恋人、弟に……ああ、親父は二回殺したかな。それに、主人公を、十回は殺したね。何人かと言われると、少し困るな」

 苦笑する。しかし視線は、新聞記事に。そこに書かれた一節。

――『編集者自殺か』G県の山中で、男性が首を吊って死亡しているのを近所の住民が発見した。警察の調べによると、所持品から都内出版社に編集者として勤めていた男性と特定。現場に遺書はなかった――

 記事の中に、日付がある。それは、ほんの数日前のできごとだった。

「……それに、今回は、妻と母親を殺した」

 声を低くして、彼が言った。「ああ」と私は小さく答え、頷いた。

 先日発表されたばかりの、そして既に発禁処分となった最新作の中で、私は、妻と、同居する実母を殺していた。それは衝動的な殺人だった。作品の中で主人公は、酷い心の病を患っていた。しかし妻も母親も、彼のことをまるで理解しなかったのである。ふたりから罵倒され、時には無視をされ、暴力を振るわれ、しかし彼は何も言えなかった。感情を外に出す手段を、彼は持っていなかったのだ。そうして積もっていった怨みや怒りが、ついに彼にナイフを手に取らせ、妻と母親に向かって何度も降り下ろされた。――しかしそれは、物語のほんの一部である。悲劇でも、惨劇でも、何でもない。むしろこれは現実なのだ。

「あれは、君のことを考えて書いたんだよ。君が、君の母親と同居するって言っていたのを思い出したんだ。僕はこの通り、今はもう、家族といえるのは、まる――犬だけだからね。内心、君のことが、羨ましかったのかもしれない」

「酷い奴だよ、お前は。おまけに皮肉屋ときてる。最悪だな。友人の風下にも置けない」

 淡々として、表情のない声だ。しかしそこに潜む、僅かに冗談めかしたその色を、私は決して逃しはしなかった。

「それでも、君はここへ来た」

 私はきっぱりとそう言った。自分でも驚くほどに、はりのある声が発せられた。

途端に恐ろしくなる。本当に彼はまだ、私の知っている彼なのだろうか。彼が二十年前から何ひとつ変わらないというのは、もしかすると、私の思い違いではなかったか? 背筋を突き上げるような震えが走る。恐れを払拭するように、私は最後の新聞記事の裏にのりを塗る。が、うまく塗り広げられない。腕が動かない。息苦しい。胸に詰まった黒い毛糸が、ますます質量を増していくのを感じた。この一瞬こそが、永遠であるような、不穏な錯覚さえおきる。

「そうだ。俺は……ここへ来た」

 彼の一言で、私の胸に宿った偽りの永遠が消えうせる。私の唇から、大きく深い、心底からの安堵の溜息が漏れた。それはきっと、彼にも聞こえたことであろう。

 ノートに引かれた罫線の、薄い橙色。その端と端。対極なそれら。決して結ばれることのない存在。海の青。空の青。ふたつが織りなす、青の終着点。私が欲した世界。これらの、なんと美しきことか。

 ようやく震えから解放された私は、最後の切り抜きに丁寧にのりづけをし、ノートに貼り付けた。そして閉じる。机上のペンたてから、油性ペンを手に取る。そうして表紙に、こう記した。

『私が殺したひとびと』

 そのノートを、一番上の引き出しに、液体のりを、二番目の引き出しに片付ける。簾の隙間をすり抜けて机上に映る光は、既に夜との境界を示す色をしていた。

 私は、簾の端を指先で摘み、捲り上げた。この世の支配者であるかのように、毅然と建ち並ぶコンクリート造りのビル。ゆるゆると転がっていく鉄の塊。道の隅を歩いているであろう、人を殺すことを許されない人々。はっきりと私の目に映るそれら全てが、橙色から群青へ、そしてやがては黒へと変わっていく、終末を思わせるそんな色彩に染め上げられていた。

 背後で、ぎゅう、とソファが沈み込み、スプリングが軋む音がした。

「――俺も、殺したよ」

 彼が呟いた。床に敷き詰められたコルクマットの上を、滑るような足音。

 私の足元にいたまるが、跳び上がるように体を起こした。そして私の背中の方に向かって、威嚇するように一吠えする。

「何人殺したんだい」

 私が尋ねる。老眼鏡を外し、丁寧に畳んでから、机の上に置いた。彼は短く「ふたり」と答えた。

 窓枠の向こうの世界は、私たちとはまるで無関係を装って進行していく。

「……妻と、母を。ふたり」

 指を離すと、簾がすとんと落ちた。『犬』が唸り声をあげている。もはや私に、この小さな家族は必要なかった。

 私は、椅子に腰をかけたまま、体を捩り、ゆっくりと後ろを振り返る。

「殺したんだよ。俺は、人を殺したんだ……」

 彼は立っていた。身に着けた白いワイシャツは、簾から漏れた終末の色を、僅かに映している。しかしそれだけでない、赤黒い染みが、そのところどころを汚していた。それは、体の横で握り締められた両の拳にも見てとれる。

 今にも泣きそうな、しかし笑い出しそうな、しかし苦痛に歪んだとも思える、彼の複雑な表情は、私の胸の中に長年つかえていた黒い毛糸を、あっという間に溶かしていく。

 ソファのそばのローテーブルの上に、彼が使ったカップが見えた。その滑らかな鈍色の肌には、赤い斑点の模様がある。

「大丈夫。分かっていたよ」

 何を、とは言わなかった。彼は、ただ無言で小さく頷いた。

「これからふたりで、旅に出よう。久しぶりに、君と海が見たいんだ」

 私は彼に、手を差し出した。彼はまた何も言わずただ頷いて、私の手を取った。

 やがて闇に沈むこの部屋の扉は開け放したまま、私たちは旅に出ることにした。犬はいつまでも吠えていた。けれど決して、私たちの後を追ってくることはないだろう。

 私は、人を殺した。そして彼も、人を殺した。

 けれど私の心は凪いだ海のように穏やかで、晴れた空のように澄みきっていた。

 彼の心も、やがて私の心と同じ色に染まることだろう。そんな確信を胸に秘めながら、私は彼とふたり、共に愛し、そして欲した、青の終着点を目指した。

(了)

1頁 2頁 3頁

       
« »

サイトトップ > 小説 > 生と死 > 単発/読切 > ひとを殺した小説