ひとを殺した小説

 彼は、私の小説の最初の読者である。私が小説を書き始めたのは大学に入ってからと遅かった。きっかけは、何だったか。新聞の連載小説を見たことだったかもしれないし、たまたま読んだ探偵小説だったような気もする。しかしそれはさしたる問題ではない。ともかく、小説を書くことに対しては、この歳になって今更、という感もあり、私は大学の図書館で、ひとりこっそりと執筆にあたっていた。

 すっかり内緒にしていたはずなのに、一体どこから嗅ぎつけたのか。彼はある日突然、普段は足を運びもしない(本人が言っていたのだからそうなのだろうと思う)この場所へとやって来て、私と面向かって「それは何だ、見せてみろ」と、無表情で、さらに抑揚ない、棒きれのような声で言い放ったのだった。明らさまな彼の不機嫌さに触れるなり、私は友人の彼に隠しだてをしていたという罪悪感に苛まれ、渋々原稿用紙を差し出した。

 書きかけだったそれは、怪奇小説であった。勤め先の後輩を殺してしまったことを皮切りに、現実と妄想の入り混じる世界をあてもなく逃亡する、歪曲した主人公の精神を描いたものだ。今考えれば、何の目新しさもない内容である。文章も、酷く精細さに欠けていたように思う。ただ、勢いだけはあったと自負はしている。人死にを扱った内容であったのに、執筆途中の小説の端々からは、生への渇望がありありと溢れていた。

 それにざっと目を通して、彼は何も言わず無造作に、私に付き返した。受け取りながら、自然に私の肩が落ちる。脱力していた。ちっとも表情を変えず読みきった彼の姿に、やはり、この歳から小説を書くなど無謀であったのだと痛感した。ましてや、ろくに小説を読んだことすらないこの私が。

 私は虚ろな目で彼を見た。彼は黙って、しかしじっと私に視線を返していた。彼の細い目の奥に、小さな丸い闇が在る。いっそそこへ飛び込んで、この世から消えてしまいたい気分だった。陰鬱に揺らぐ心に操られるように、私の両手が原稿用紙の上部を掴んだ。右手を彼の方へ、左手を私の方へ。そう動かせば、彼に隠れて稚拙な創作活動をしていたことに対し私が感じた罪悪が、少しは紛れるだろうと思ったのだ。

「何をする」

 彼は静かに尋ねた。

「破るんだよ。小説を書こうなんて、無理だったんだ」

 言いながら、自分の口から乾いた笑いがこぼれるのを、私は止められなかった。原稿用紙にかけた手が震えていた。

「お前はこういうものが好きなのか」

 しかし私の様子など気に止めた様子もなく、彼は淡々と言って、私の隣の席にかけた。

「え」

「好きなのか。どうなんだ」

 テーブルの上に、彼は右肘を置いた。整髪料で整えた前髪が一束垂れ、額にかかっている。

「好きかと聞かれても、分からない。……実はあまり小説は読まないんだ」

 意気消沈しながらも、何とか答える。彼の目を見るのが辛かったが、かといって視線を逸すこともできなかった。そうしてはいけないような気がしていた。

「それじゃあ、何故こういうものを書いたんだ」

「それは――」

 一度、言葉を飲む。けれどすぐにまた、私は口を開いた。

「書きたいから、書いたんだ」

 私の答えに、彼は口端を片方だけ吊り上げた。そして原稿用紙を掴んだ私の手に、左手をそっと重ねた。随分と冷たい手だった。

「それを好きというんだ」

 満足そうな色を浮かべた声で、彼は言った。

 結局、原稿用紙は破らなかった。そのまま小説を書き上げ、彼の薦めで出版社に投稿したが、結果は散々であった。けれど私は、それからも何編か小説を書いた。その度に彼に読ませてから、投稿を繰り返した。それは社会人になってからも続き、三十歳も目前になった頃、小さな賞を取った。その小説は出版もされ、売り上げもそう悪くはなく、すぐに出版社から次作の打診があった。それを受け、私は執筆業業に専念するため、勤めていた会社を辞め、現在暮らしているアパートに移り住んだのであった。

 机に落ちる細長い陽光が、ややその色を濃くした気がした。世界はこうやって毎日、終末の彩りを帯びていく。それを私は、決まってこの部屋から見る。簾の向こうで、変わらず行き交う鉄塊。人を殺す鉄塊。陸を蹂躙するそれらでも、海や空まで侵せまい。私は改めて、海へ行きたいと思った。

 椅子にかけた私の足元に、愛犬のまるが小さな体を預けて眠っている。

 その姿を視界の端でちらと確認し、新聞記事の貼り付けを再開する。

 ひと際大きな記事を摘む。その中の一文の概要。

――『住宅街で男性絞殺される』○月×日未明、T県A市在住の男性宅から一一〇番通報。駆けつけた警官により、居間で男性の弟が倒れているのが発見される。首にはロープで締められた痕があり、その場で死亡が確認された。通報したとみられる、兄で家主の男性は現在行方が分かっておらず――

 すう、と吸い付けられるように、空白のページに記事が貼りつく。続けて次の記事にのりづけする。手を休めてはいけない。

「――そうだ。君がここへ来ない間にも、いくつか小説を書いたよ」

 私は作業をしながら、思い出したように言う。「ああ」と彼。陶製のコップがテーブルを叩く。

「知ってる。買って読んだ」

「どうだった」

「間違いなく、お前の小説だったさ」

 私の問いに彼が答える。「だが」と言葉が続く。

「俺は印刷はどうにも好かん。温度がまるで感じられない」

 紙片にのりを。それをノートに。そして新たな紙片を手に。問答の最中にも、私は繰り返す。

「だろうね。君はもうずっと手書きのものを読んでいたから」

「……それと、どうも印字だと目が疲れる」

 うんざりといった心地で彼が漏らしたその言葉に、私は思わず吹き出してしまう。伺わずとも、その表情が苦々しく歪んでいるのが想像できたからだ。同時に少し嬉しくなる。彼も私と同じ人間なのだと、久しぶりに実感することができたからだ。人間ならば、誰しも必ず歳をとる。彼も、そして私も、それを身に染みて感じ入る年齢に達していた。

「そりゃあ、君、老眼だよ。私だってもう一年も前から、老眼鏡をかけないと、手元を見るのに具合が悪くてね。君もひとつ、誂えたらいい。今度、良い店を紹介しよう」

 大げさに、戯けたように、私は言ってやった。その調子に彼もおかしくなったのか、くつくつと喉で笑った。そうして一言、

「そうだな」

 それだけ返してきた。了承とも拒否ともつかぬ曖昧なその返事に安堵する。

 訪れた沈黙。互いが意図していたわけではないが、そうなるであろうという予感はあった。恐らく、彼にも。

 足元で眠る、まるの、微かな寝息が聞こえる。まるが、ころりと体の向きを変えると、柔らかなその毛が、足に触れた。人より高い温度。まるは人間ではない。けれど、今は私の唯一の家族だった。

 両親は共に既に他界している。交通事故だった。もう十年以上前のことだ。彼らには何の落ち度はなく、相手が居眠りをして車線をはみ出しての正面衝突。事故の相手もその時死んでしまった。運転していたのは若い女性で、酷い残業続きで疲弊しきっていたことが居眠りの原因らしい。女性には、結婚を間近にした婚約者もいたと後で聞いた。私は誰も、何も、責めることができず、途方にくれた。そしてその事故以来、車には一切乗ることが出来なくなってしまった。それどころか、目にするのも不快だった。恐いだとか、そういった感情からではない。『あんな醜い鉄の塊如きに、人が殺されてなるものか』と思ったのである。

 とはいえ、私も人だ。それに、両親が死んだ当時は当然ながら今より幾分か若かった。感情というものの扱い方を知らぬ年頃だった。人によって利用される単なる道具によって、両親が死んだことに、私は悔しさを露にした。作家になってすぐのことで、この部屋に越したばかりの頃だ。

 葬式や、諸々の手続きを済ませてこの部屋に戻るなり、ホームセンターで買ってきた簾で窓を覆い、恐らく怨み言を(何を言っていたかは自分でもよく分からない)ぶつぶつと呟きながら、机上に広げた原稿用紙に向かった。飲まず食わずで眠ることすらせず、二日間小説を書き続けた。三日目の朝になって、友人である彼が訪ねて来た。ここへ引っ越してからというもの、一日とあけずここへやって来ていた彼とは、葬式で会ったきりだった。きっと私に気を遣っていたのだろうと思う。普段は素っ気ない言動が多いというのに、やはり彼も人なのだと、私はあの時も、安堵したのだった。

「やあ、来たのかい」

 私は振り返らずに、彼に言った。

「ああ。……その、もう、いいのか」

 彼にしては随分と抽象的な物言いだった。

「どうだろうね」

 伝わりもしないのに、私は軽薄な笑みを浮かべてみせた。

「そうだ。君、大学の頃、私にこう言ったね」

 私は椅子を降りた。この部屋は朝は陽光が入らず、随分と暗い。それにより薄灰色にさえ映る原稿用紙の束を手にする。静かに振り返る。二日の徹夜明けにもかかわらず、体が軽かった。

 彼はそこにいた。口を噤み、佇んでいた。グレーのスーツを身に纏い、濃紺のネクタイを締め、右手に黒いビジネスバッグを持っていた。出勤前なのだろう。

 そういえば、今は一体何時なのだろう。この部屋には、時計がなかった。引っ越してきてからは、机に落ちる僅かな陽光でしか、時間を意識しないことにしていた。

「『お前はこういうものが好きなのか』って」

 私は彼に原稿用紙を差し出した。百枚ほどある分厚い束だ。紙同士が触れ合い、鳥の羽ばたきに似た音がした。新作の小説だ。人が、人を、殺す。端的にいってしまえば、たったそれだけの内容だった。勿論それに付随するストーリーはある。しかし、私が書きたかったのは、人を殺すに至る理由であるとか、そういうものではなかった。

「私は、好きだよ。君に言われた通り『こういうもの』が、好きなんだ。なにせ、好きだという以外に、この感情を表す言葉がないんだからね。きっと――、うん、好きなんだと……思う」

 自分自身に言い聞かせるように、私は同じ言葉を繰り返した。原稿を握る手が震えていた。笑顔を作った口元が引き攣る。乾いた笑いがこぼれた。

「滑稽だろう。小説家のくせに、自分のこととなると、まるでだめだ。言いたいことも満足に伝えられない」

 そこで初めて彼が僅かに表情を歪めた。

 彼に向けて差し出した手が、力なく落ちる。指先から力が抜けた。拘束を解かれた物語が、床に散乱する。

「なあ、人は死ぬんだ。いつか必ず、死ぬんだよ……」

 散らばる原稿用紙の上に、私は膝をついた。何を口走っているか、自分でも理解ができなかった。気持ちがまとまらず、酷く混乱していた。

 私は、これまで小説の中で散々に人を殺してきたというのに、『死』そのものに感情移入することは、この時が初めてだった。悪戯をしたこどもが、それが発覚した後に両親から無意識的な蔑みの視線を浴びせられた時のように、心臓が縮こまり、呼吸が詰まった。

 彼が数歩、私に歩み寄り、そしてしゃがみこむ。はたと目が合う。彼の目は、これ以上ないほどに、優しげに細められていた。

「大丈夫、……分かってるさ」

 何を、とは、彼は示さなかった。けれど、当時の私は、この一言にどれほど救われたことか。私も、何が、とは、あえて尋ねることはしなかった。胸が少し、軽くなったように感じた。

「海に行こう」

 ふたりで、床に散らばった原稿用紙を一枚ずつ拾い上げていると、不意に彼からそう提案があった。

「これから?」

 私は首を捻った。

「ああ」

「でも、君、仕事じゃないのかい」

「仮病でも装うさ。電話を借してくれるか」

 軽く言って、彼は微笑を浮かべた。

 私はその日、彼と何年かぶりに、海を、そして広い空を観た。シーズンオフの砂浜には、ふたりの他に人影はなかった。私たちはそこに腰を下ろし、一日中、ただじっと空と海だけを視界に映し、時折互いの顔を覗いては『私たちがふたりであること』を確認し合った。私たちは、友人であり、同時に家族であり、場合によっては――男同士でこの例えは可笑しいかもしれないが――恋人よりも深く繋がっていた。空の青が、海の青に混ざる。丁度、そんな関係だったかもしれない。

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