君はフェンスの向こう側

 吹き上げてくる風が鉛のように重い。深く息を吸えば、どろりとした陰気な空気が肺を満たす。元より気怠かった体が、一層重鈍に感じられた。けれどそれとは裏腹に、膝から下は羽のように軽い。それだけが、今の私にとっての救いだった。何故ならそれは、これからの行動に伴う不安など、私がまるで持ち合わせていないという証明であるからだ。

 それでは、この上半身に感じるものは何か?

「ホントやめときなって。けったいな顔してるよ、あんた」

 私の横に立っている若い男が、からからと笑いながら私に言った。

 彼はくたびれたスーツを身に着け、その背をフェンスに向けて立っている。私も彼とほぼ同様の格好をしていた。ふたりが並ぶと、まるでここが屋台のカウンターであるかのように錯覚しそうになる。しかし、古ぼけた赤い提灯も、ちゃちな木製のカウンターも、水割りを出してくれる店主もここにはいない。

 私は重鈍な上体をフェンスに預けて、彼をちらと横目で見た。もはや何に対しても不安のない私を唯一支配する気怠さは、彼との遭遇によって湧き上がってきたものである。

 日も暮れ、灯りがないビルの屋上は暗い。暗闇に目の慣れぬうちに、周囲の高いビルから漏れる無数の星のような微かな光だけを頼りに私がこのフェンスの前に立ったのは、一時間ほど前のことだ。誰もいない、と思った。今考えれば、その時よくよく周囲を確認をしておけばよかったのだ。そうすれば、フェンスに背を預けて、タバコに火をつけた途端「どうも、奇遇ですね」なんて横から声をかけられて跳び上がるほど驚くこともなかったというのに。

「君には関係ないだろう。それに、君こそ。そんな風に笑えるなら、ここになんて来ないほうがいい」

 やめろ。いやそちらこそ。そんなやりとりが、もうずっと続いていた。

 具体的な言葉を交わさずとも、同じ場所に立つ私たちが同志であることは明らからだった。否、そんな間抜けな問答など、それこそ無粋だ。しかし私は、彼は同志であるべきではないと思っていた。

 ふと、空を見上げた。雲間から月が顔を出している。雲のすき間を埋めるように星がひしめきあい、瞬いていた。

「ああ、満月だ」

 私は呟いた。もう春だというのに、ビルの上だからか少し寒い。言葉とともに吐き出された呼気が、僅かに白く目に映った。

「名残惜しいんでしょ」

「馬鹿言え」

 男に、くつくつと喉で笑われ、私はビルの谷間に吐き捨てるように言い放つ。そして胸ポケットにしまっていたタバコを指先で摘む――はずだった。しかしそこには、タバコはもう一本も残っていなかった。足元に目をやる。コンクリートの上に、タバコの吸殻がいくつも転がっていた。無意識に舌打ちをする。

「ほらね、タバコ。吸いたいんでしょ。もっともっと、ってね」

「誰のせいで――」

 揶揄するような彼の物言いに、カッとなって口にしかけた言葉を、慌てて飲み込む。

 彼に責任を押し付けてどうするのだ。たとえ、タバコに指を伸ばす衝動が、彼とのやりとりを面倒と思うが故の苛立ちからきているとしても、それを今、露にすることに意味などないのではないか。私は去る者だが、彼は去ってはいけない者だ。そんな彼に、みすみす苦い思いをさせる必要はないのだ。

「ねえ、やっぱり止めた方がいいよ」

 風がやんだ。鳴く虫もいない、都心の夜。遠く眼下で行き交う車のテールランプ。滲んだ音のクラクション。大きな月の光によって、きっと私たちの背後には、ふたつの影が伸びているのだろう

「……君はどうしてそう、必死に私を止めるんだ」

 私は片手でフェンスを掴んで、そして身を捩ってまで彼を見た。そんな私を見て、彼は口端を上げてにっと笑った。

「あんたが、僕に興味を持ったから」

「……どういう」

「理屈かって? ほら、分かんないでしょ? 覚悟が決まってないから、分かんないんだよ。覚悟してここに立ってる人間は、もうどうでもいいの。自分を含めたこの世のすべてがどうでもいいんだよ。それに、楽しくてしかたないんだ。何たって、もう何の心配もいらないんだから。こういうの、達観ていうのかな。執着を捨てたが故の達観。あ、これちょっとかっこいいかも。あんたさ、僕がいなくなったら、この言葉、使ってよ。ああでも、僕みたいな意味では使わないでよね。あんた、僕みたいになるの、ホント向いてないと思うからさ。だって、今ここで、僕と同じ顔できる? できないでしょ? タバコ、もっと吸いたいでしょ? 僕がここに立ってたら、気になるでしょ? 僕みたいなのに色々言われて、腹が立つでしょ? ねえ、そういうことなんだよ。ここまで言ったら……もう、分かるよね?」

 ……――もう分かるよね? もう分かるよね? 分かるよね? 分かるよね? ――……

 コンクリートの渓谷に、男の声がこだまする。右から、左から、下から、反射して幾重にもなったそれが、私の耳に波のように押し寄せる。目眩がした。足元がふらつき、慌ててもう片方の手でも、フェンスを掴む。心臓の鼓動が早かった。一切の不安を掻き捨てたはずの私の心臓が、この場所から落下しそうになったことで、不安に高鳴ったのである。それは決して拭いさることのできない、愕然たる事実であった。

「ほらね。あんた、自殺に向いてないよ」

 男は腹を抱えて笑っている。フェンスを背に、ビルの端までたった一メートルそこらしかない場所で。

「はー、可笑しい。人生で一番笑ったかも」

 男は、呆然とする私を尻目にひとしきり笑った後、

「覚えといて。死ぬってのは、こういうことだよ」

 何の脈絡もなく、宙に身を踊らせた。

 たった今まで私と会話し、たった今まで私を笑っていた彼は、余韻をかけらも感じさせないまま、ビルの谷間を落下していく。私は驚きながらも少し体を乗り出して、その様を見た。

 数秒の後、破裂とも衝突ともつかぬ音が、地上の方から聞こえた。

 私は再び、フェンスに背を預けた。金網が、かちかちと音を立てる。私の体は、小さく震えていた。ぞう、と勢いよく吹き上げてきたビル風に、どきりとする。これが落下する彼の体を撫でた風かと思うと、私は急に恐ろしくなった。

 ふと振り返る。フェンスの内側にはひとつ、月の光が生み出した細い影が静かに伸びている。

 金網にしっかりと両手をかけた私の頭の中に、彼の最期の言葉がいつまでも繰り返し響いていた。

(了)

       
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