夢中の男

 夢を見た。私はその夢の中でだけは、私という人間ではなかった。本来の私の姿形ではなく、私ではない別の男の皮を被っていた。私ではないこの男は、しかし夢の中に於いては、確かに私であった。

 酷くややこしい話である。けれどこれこそが、私が見た夢の、不可思議で予感めいた部分なのだ。

 深い水の奥底のような、ゆらゆらと闇が漂う場所に、私は(繰り返すが、この私は確かに私だが、同時に私ではない男だ)立っていた。グレイの背広上下を身に付け、清潔な白シャツの胸元には、紺と赤の縞柄ネクタイが下がっている。

 夢の中で私はおもむろに、何もない、目の前の揺らぐ闇へと手を伸ばした。

 その奥に何かがあるようになど、私には見えなかったのだが、それはあくまで夢を見ている現実の私にとっての見解であって、しかし夢の中にいる私に関しては、どうやらそうではないらしい。私には見えない闇の中が、夢の私には見えていて、或いは既にその闇の中に潜むただならぬ秘密を知っていて、それゆえにそこへと手を伸ばしているようなのだ。

 私の目は、獲物を狙う獣のような鋭さを湛え、そうかと思えばどこかじっとりとしていて、腐敗しきって粘つき、糸をひくような気色悪さがあった。

 そうっと伸ばした指先に、何かが触れた感じがした。夢というのに、それには温度がある。温かいというよりは、むしろ熱い。そしてそれは、ほんの少しだけ、ぴょんと跳ね上がった。

「ミウラくん」

 私が、本来の私のものではない、野太く低い声で、闇の中めがけて呼んだ。

 すると指に触れていた熱塊から、ぞわりと引き潮のように闇が後退していくではないか。

 そうして闇のヴェールを暴かれたそこから現れたのは、女のように線の細い男だ。杏仁型の目には闇より深い漆黒の潤んだ瞳が揺れ、鼻筋はすっと通っていて、顎は細く、唇は口紅でも塗ったように色艶が良く、それが白磁のような肌に映えていた。

 男だと思ったのは、ミウラが私と同じように、背広を身にまとっていたからだ。やや濃い色味の明らかに男物のそれが、その女性めいた華奢な体を包んでいる様は、夢を見ている私ですら、くらくらと目眩がするほどに倒錯的であった。

 しかし夢の中の私はというと、夢を見ている私とは違い、ミウラの姿を目にしても特別動揺した素振りも見せない。けれどその目の内の輝きだけは、ぎらぎらと増しているように思えた。

 私が指先で触れていたのは、私よりも頭ひとつ分ほども背の低い、ミウラという人物の肩のあたりだ。私と対面するように立つミウラのその左肩を、私は改めて、ぽんぽんと二度軽く叩いた。整った男の顔に、わずかに怯えの色が浮かぶのを、私は(恐らく夢の中の私も)見逃さなかった。

「ミウラくん、きみは変態なんだね」

 まるで挨拶をするように自然に、私の口からそんな言葉がこぼれた。

「ああ、きみは、本当にとんでもない変態だったんだ」

 立て続けに、私は言っていた。演劇の中の、悲劇の運命を嘆く主人公のように、それはやたら芝居めいた口調だった。

 ミウラは、益々その表情に怯えを強くして、白い肌は青く、ばらのように赤かった唇も、もうすっかり血の気が失せてしまっている。そして全身を、小刻みに震わせていた。そしてその様が、あろうことか、夢を見ている私の、腹の奥底のほうを、どうにも刺激してやまないのだ。ほろほろと、燻るような火を腹底で焚かれているような気分であった。くすぐったいようで、じっとしていられず、しかし溢れる熱を止めることができないのである。寝床の上に転がる現実の私は、きっとこの時、右へ左へとせわしなく寝返りをうって、無意識の内にもこのおかしな感覚を拭おうと必死になっていたに違いない。それほどに、もどかしいような、切ないような感覚であったのだ。

 さて、現実の私のことはともかく、夢の中の私にとっても、ミウラの挙動は堪らなく魅力的であったらしい。ミウラには伝わらなかったであろうが、私は喉を鳴らして唾をひとつ飲み込んだのだ。夢の中の私にとって、ミウラは餌であった。なぜかは知らないが、確かに餌だと感じたのだ。その時の私はさしずめ、その餌を前におあずけを食らう、犬のようであった。けれど夢の中の私が、犬と明らかに違っていた部分は、冷たく尖った氷柱のような理性を持ち合わせていたという点だ。

 私はそしらぬ顔で、しかし口だけをにいと三日月型に歪めてみせた。それを目にしたミウラの口から「ひぃ」と力ない悲鳴が上がる。その声もまた、容姿に相応の、鳥のように高いものであった。私の耳管を這うように、ミウラという小鳥のさえずりが、脳へと流れ込んでいく。そして脳から、ぞわぞわと快楽を伴う痺れとなって、それは脊髄を走り抜けるのである。

 ああ、何という甘美な痺れであろうか。これには夢の中の私も、そして夢を見ている私も、同じように情欲を奮い立たされずにはいられなかった。いや、きっと私だけではなく、もし私たち以外に、この姿を見た者があったなら、また同様に、彼に欲情したに違いないのだ。それほどまでに、このミウラという男の一挙一動は、他者の征服欲を的確に煽るのである。

「冗談だよ」

 夢の中の私は、三日月型の唇を崩し、ねっとりとした吐息混じりの声で、ミウラの耳許に口を寄せ、そう囁いた。その瞬間、ミウラの体は力を失い、その場にへたり込んでしまった。そして上目に、より一層揺れる深い黒の瞳で、私をじっと見るのである。ミウラの表情に安堵の色はない。すっかり怯えきっていて、そこには既に餌となる覚悟を決めたように、諦念さえ浮かんでみえた。

 しかし、夢が醒める瞬間、私は見たのだ。紫色になってしまったその唇の上を、血よりも赤い淫猥な舌先が、愛撫するように這っていったのを。

 さて、現実世界の私の力など到底及ばぬ夢幻の中に於いても、このミウラという人物は、間違いなく変態なのであろう。でなければ、夢中の私からあのように言われただけで、顔を青くするはずもないし、極寒に身を置いたがごとく全身が震えることもないのだ。

 私は眠りから醒めるなり、寝床の中に体を横たえたまま、まぶただけを開き、そう確信した。私以外の誰に解かるはずもないだろうが、夢の中のミウラという人物が変態であり、そして夢の中の私がそれを知っていたということが、私に非常に重要な決心をさせる材料になり得たのである。

 ここで私の簡単な身の上を説明しておく。

 私は今は訳あって無職で、築年数のかさんだアパートの六畳ほどの部屋に住んでいる。勤めていた頃の貯蓄がそれなりにあり、今は金には困ることもなく、また誰にも縛られずに、自由気ままな生活を送っているのだ。

 そんな無職の私は、毎日、会社勤めしていた時と同じ電車に乗って街へと出て、ふらふらと何をする訳でもなく彷徨ってから、また朝と同じように乗り慣れた電車に乗り込むのを、唯一の楽しみにしていた。

 何故そんなことが楽しいのかというと、これは私以外の人間にも理解してもらえると思うのだが、例えば学生が学校を休んだ時に、普段であれば授業を受けている時間帯に放送している教育番組や情報番組などがやけに楽しく感じられるような、解り易く言えばつまりはそういうことなのである。これまで同じ電車に乗り、同じように通勤していた乗客たちに、私はかつてない優越を感じていたのだ。しかし、たったそれだけのことが楽しいわけではない。私はいつも、体にある仕掛けをして、さらに必要もないのに背広を着込んで電車に乗っているのだ。身に着けた背広の下にある秘密の仕掛けが、誰かにばれやしないかと、いつだって気を張らねばならず、けれどその背徳感が、私の中で燻る欲求をさらにエスカレートさせていくのである。また、電車を降り、誰にも気付かれないままに駅の構内から出た瞬間に味わう感覚は、まさに快楽であり、これがまた私を何度もこのような奇行に(私は少しも奇行だなんて思ってはいなかったが)走らせる一因となっていた。

 そして今日も私は、同じように身支度をし、寝床の役割だけを果たすアパートの部屋を、そそくさと後にする。最寄駅に、周囲には何の違和感も与えないまま滑り込む。決まった時間、決まった顔ぶれを横目に、決まったホームへと辿り着き、いつもと同じく足元に『5』と記された場所に並ぶ。すぐに電車がやって来る。ぷしゅうと気が抜けるような音までも、すべて何の狂いもなく普段通りだ。私は電車へと乗り込んだ。

 車内では、車両の接続部分に近い辺りに陣取る。ドアが閉まり、電車が動き始める。規則的な揺れ。誰も握っていないいくつかの吊革がぶらぶらと暇を持て余している。

 私は周囲に目を走らせるとすぐに、いつもと同じ場所に立つその男を見つけた。背が高く、混んだ車内でも他より頭ひとつ分ほど抜き出ている。彼は吊革を握り、ぼうっとした目つきで中吊り広告の辺りを眺めていた。私とは違うがっちりとした肩、厚い胸板。グレイの背広に、白いシャツ。そして胸元には、紺と赤の縞柄のネクタイ。そう、この男の姿こそ、夢の中で私が被っていた皮なのである。

 私は、夢の中の私、つまりは今同じ電車に乗り合わせているこの男のことを、よくよく知っていた。野太く低いあの声も、それは決して私の妄想の産物などではなく、彼の口からその音が発せられるのを間近で聞いたことさえあるのだ 彼はかつて、私と同僚という間柄であった。通勤の電車も同じということで、仲も良かったのだが、あるできごとがきっかけで私が会社を辞めてからは、連絡をとることもしていない。それが原因で、きっと彼は、私を軽蔑しているだろうと思っていた。私は以前から彼にある期待をかけていただけに、会社を辞める際に、そのことだけが残念でならなかったのである。

 しかしながら、昨晩の夢で、私はまた彼に、以前と同じ期待を抱くことになった。しかもこの度は、不思議とそれがうまく叶うような予感がするのである。その予感を覚えるに至った要因が、先ほど述べた夢の中のできごとなのだ。たかが夢に、と思われるかもしれないが、もはや私のような人間にとっては、夢も現実も、さして変わらないようなものだ。だから私は今日、夢で得たその予感を確かめんとして、いつもと同じ行動の中で、ひとつの違った動きをしてみることにした。

 普段なれば、この電車内ではどこを見るでもなく、しかし車両全体を満遍なく見渡すように視線を走らせている。乗客は俯いているか、或いは携帯電話の画面を見つめていたり、新聞や雑誌を読むばかりで、誰ひとりとして私の視線になど気付きはしないのだが、今日はこの視線を、ただの一箇所にだけ向けてみるつもりだった。そしてその一箇所というのが、夢の中の私であり、現実では元同僚というその男なのだ。

 揺れる車内で吊革に掴まり、私は早速、彼へと視線を送った。文字どおりの熱視線である。きっと彼と私以外の誰が見ても、私が彼に送る視線が確かな姿をもってその目に映ったことであろう。それほどに、私は彼をじっと見つめたのだ。

 もし、彼が気付かなければ、私の胸に湧いた期待は、ただの恥ずかしい勘違いということになり、今後一切私が同じような気持ちを彼に対して抱くことはないだろう。けれど、あの男が私の視線を受け取るようなことがあれば、私にはこのささやかな計画を、次の段階に進める準備ができていた。

(私を見て。私を、私を見て)

 心の中でそう繰り返し、彼に視線を送る私は、一種の怨念じみた存在に成り下がっていたに違いない。その念が彼に伝わったのかどうかは分からないが、彼は少し離れた場所でふるりと背中を震わせると、ふと視線を下げた。そして「あ」と声にこそ出さなかったが、そのように口を大きくぽかんと開けて、ついに彼は私を見たのである。

 しめた、と私は思った。彼は私の存在に気付いたのだ。私はそれでもなお、目を逸したりはしなかった。会釈をして元同僚に挨拶をしたりもしなかった。ただ、視線を送りつづけた。彼もまた、私から目を離さなかった。

『次は――、――、お降りの方は――』

 停車駅が近付いてくる。彼の職場の最寄駅まではまだ数駅ある。彼がここで降りることはない。

 速度を落し、駅のホームに電車が入っていく。

「――、――――」

 私は彼と視線を合わせたまま、何事かを言っているかのように、唇を動かした。何か言いたいことがあったわけではない。ただ、何かを言ったように演じてみせたのだ。それを見て、彼ははっとした様子を見せる。それを確認すると、私は口元に微笑を浮かべてみせた。

 きっと、私の狙いどおりに、彼は私の唇の動きを、彼の都合のいいように解釈したことだろう。

 電車がホームに停車する。ぷしゅう。気の抜けたような音。ドアが開く。降車する人の動きは、いつもとなんら変わりない。私はその流れに紛れて、するりと車外へと抜け出した。

 足早にホームを歩いていく。

 背後は確認しない。もはや、せずともよい。

 心臓が、期待に激しく脈打っていた。

 人の流れに逆らって、ホームの端へ。

 人気のないそこに設置された施設に私は入っていく。

 タイル張りの床。そこは手洗い所だ。

 私は迷うことなく、男性用の入口をくぐり、最奥の個室の扉に手をかける。

「ミウラくん」

 扉にかけられた私の手に、私のものではない手が重なっていた。

 低く野太い声が、その内に地を這うような響きを孕ませ、夢の中と同じ名を呼んだ。

 私が振り返らないうちに、彼は私を後ろから抱き込めるようにして、私たちはふたりして目の前の個室へと滑り込み、そして彼は後ろ手に扉に施錠した。

 私の予感が的中し、そしてこの計画の成功を確信した瞬間だった。

 私は、夢の中の本当の私がしたように、自分自身の唇を、舌でねっとりと舐め上げてみせる。目の前の男の口から「ああ」と感嘆の吐息が漏れた。

 夢の中だけではなく、彼は現実に於いても、私の妖しげな容姿に、かねてから興味があったに違いない。そうあればいいと私は期待していたが、なかなかに確信が得られないものだから、彼が私に淫らな目的をもって触れてくる前に、どうにも我慢ができなくなって、私は気の弱そうな上司を今のように会社内で誘惑したのだ。私の欲求は一時的には満たされたものの、結局それが周囲にばれてしまい、会社を辞めることになってしまったので、結果的には失敗だったと今では思っている。何しろ会社勤めをしていれば、あれほど刺激的な場所で、極めて背徳的な快楽に浸れるのであるから、それを惜しいという他はない。けれど、そのことをきっかけに、彼をこのような罠にかけ、その隠された本性を暴くことができたのだから、その失敗すらもよしとすることにした。

 青いタイルが張られた壁に、私は乱暴に押し付けられた。背中に伝わる冷たさが、体内に宿る熱を際立たせる。彼は荒い呼吸を繰り返しながら、私のネクタイを外し、シャツのボタンを外していく。

「ああ、ああ、ミウラくん、きみは、きみは本当に」

 恐らくその指先に触れたであろう、本来であればそこにあるまじき感触に、彼は唇をわななかせた。

 私の素肌は、細く荒い縄で、規則的な模様を描かれ、まるで飾り付けられているように、きつく縛られているのである。

 私は、夢の中で彼の皮を被った私自身に罵られたように、夢の中だけでなく、現実に於いても変態であった。そしてそれを自覚すれば自覚するほど、体の芯が痺れていき、下腹で淫猥な熱が高まっていく。本当にどうしようもない、生まれついての変態なのだ。

「とんでもない、変態だったんだね、ミウラくん」

 彼の絡みつくような吐息が、そんな私の顔や、首筋や、胸元にかかっても、少しも嫌な気分になどもちろんなるはずもなく、むしろそのわずかな空気の振動すらも、官能に堕ちたこの脳は、性的な快楽へと変えてしまうのである。

 私は、売女のような赤い唇を、もう一度、ぺろりと舐めた。唇から覗いた舌先を、彼の指先が捕える。

「きみは、変態だ」

 舌先を摘んだまま私を罵る彼の声に、目に、確かに欲情の色がちらついている。

 現実の彼は、夢の中の彼の皮を被った私のように「冗談だよ」などと、口にするはずなんてない。なにせ彼もまた、間違いなく、私と同じ性質をもった人間なのだから。

 遠い雑踏。去っていく電車の音。壁に囲まれた狭い空間。冷たいタイル。

 圧倒的な現実感を帯びたこの場所で、私たちはただ、淫らな夢へと堕ちていく。

(了)

       
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