霧雨の夜

 昨日の明け方から、雨は降りだした。今日の日暮れになっても、まだ止んではいなかったが、夜が更けた今でも、それはどうやら続いているらしい。

「外はすごい霧だ」

 玄関に入るなり、彼は濡れたその広い肩を手で払いながら、渋い顔でそうこぼした。彼の言葉に、私は苦笑する。

「霧ではなくて、雨だよ」

 微小な水の粒が空中を漂っているような雨だから、彼が勘違いするのも無理はない。私は昨日の朝、ずっと部屋の窓辺にいたから、霧によく似た雨の降り始めを知っている。さらり、さらりと、微細な雨粒は音もなく、しかし確かに天から降り注いでいるのだ。

「こんな静かな雨があるか。雨ってのは、もっとジャージャー降るもんなんだ。ここは高い木ばっかりに囲まれた山奥だから、霧が雨のように見えたんだろう」

「相変わらず、無粋だなあ」

 雨の降る様を大袈裟な手振りで表現するその姿に可笑しくなる。彼に背を向けて、どうにか笑いを堪えた。ほっとけ、と、心底不満そうな声が、彼から漏れる。

「タオルを取ってくるよ。上がっておいて」

 私は振り返らずに、そのままバスルームへと足を向ける。背後で小さな舌打ちが聞こえた。

 二年前に、私は仕事を辞めた。何が不満というわけでもなかった。ただ、当時やりたかったことに対して、就いていた職が不都合になっただけだ。

 彼は、その職場で私と同僚という間柄だった。彼の方がいくつか歳が上だったが、プライベートでは年齢の差など関係無しに、私たちは親密であった。

 愛想のない男だが、一方で義理堅く、しかも純情だ。私はそんな彼が、決して嫌いではなかった。

 私が退職した後、都心から離れた山奥にあるこの小さなロッジで暮らし始めても、彼は度々顔を見せてくれた。最初の頃は週に一度ほどと頻繁に。しかしある時を境に、彼は雨の日の晩にだけ、このロッジを訪れるようになった。

「風邪をひくよ、脱いだらどう」

 タオルを手に戻ると、彼はリビングの窓辺に立っていた。ブルゾンの肩から背にかけて、雨が染みてすっかり色が濃くなってしまっている。彼がまた軽く舌を打つ。そして、乱雑にそれを床に脱ぎ捨てた。

「硬そうだなあ」

 黒い半袖のシャツから露出した腕、そして首元。職業柄、鍛えに鍛え抜かれ、時間をかけて厚く太くなった筋肉に、衰えはまだ見られない。それどころか、益々その迫力が増している気さえした。

「歯がたたなそう」

 言って、彼の肩にタオルをかける。

「洒落にもならん」

「洒落のつもりもないけどね」

 ため息混じりの言葉に、冗談めかして返す。そうだろうよ、と彼は憎々しげに吐き出して、タオルで髪をがしがしとかき混ぜた。

 窓の外で、微かな水音がする。木々の葉が、限界まで蓄えた霧雨の雫を、はらり、はらりと、零したのだろう。

 このロッジは、元々誰かの別荘であったらしい。恐らく、既にはじけて霧散した、この国における黄金期の残滓なのだろう。家具、調理用品、薪を割るための斧、発電機までもが、ここには初めから揃っていた。水道は通っていないが、井戸や沢もある。

 山奥とはいえど、一応近くまで林道が走っているから、交通もさほど不便ではない。ただ、最近では間伐も殆ど行われていないような状況で、林道を通る車を見ることは自分の他にはまずなかった。道路脇からは、衰退した人間の勢いに代って栄華を誇る植物たちが、自在に枝を伸ばしている。

 そういえば彼は、この林道を通ることを非常に嫌がっていたはずだった。初めの頃などは、車に傷がつく、などとぼやいていたものだ。雨の日などは、木々が葉や枝先にたっぷりと雨水を蓄えて、それらがみな揃って柳にでも化けたようにだらりと垂れ下がるから、きっと通行には普段以上に気を遣うだろう。彼の愛車はオフロード向きのジープだから、その車高が、雨の林道では却って仇となるのだ。

「ここに来るまで、大変だったんじゃない」

 私はひとりソファに掛け、彼の背中にそう問いかけた。彼にも着席を促しはしたが、頭からタオルを垂らしたまま、窓辺から動こうとしないので、敢えてそれを強いることもないだろうと思っていた。

「……どういうことだ」

 彼は半歩ほど振り向き、細めた横目で私に視線を寄越した。刃のように鋭い眼光は、長年従事したその職によってもたらされたものではなく、彼が元より持ち合わせたものであるらしい。これが、屈強な肉体と相まって、周囲に他人を寄せ付けさせず、結果彼の精神に少女じみた純情さを残すことになった、最もたる要因だった。そしてその事実を偶然知ったことで、私にとって彼は、非常に価値のある存在となったのである。

「車だよ。今日もここに来るまで、随分やられたんじゃないかと思って」

 ソファに深く背を埋める。合皮が擦れ、ぎゅう、と鳴く。ロッジを形成する木材の、じっとりとして密度のある、眉間を横に貫く爽やかな香りに、鼻腔の奥に張り付くような黴臭さが混じり、部屋を包んでいた。

 ――乱れ、絡み付く頭髪を伝う雨水。高揚し、上昇した体温とすっかり馴染んだその生温な液体は、濡れ髪の迷路を彷徨うが如く、流れ落ちていく。

 湿度によって極限まで膨張した、冷たい土の、柔らかな枯葉の、苔むした樹皮の、そして甘い水の中を流れていく芳しき死の匂い。それらが鼻腔を満たし、喉から胃へと下り、同時に脳で混ぜ合わせられる――

 沈黙と、部屋に漂う匂いとが重なり、記憶をたぐりよせる。目に見えぬ僅かな罪悪感が、両手のひらにまとわりついていた。

 外に出たかった。雨が、すべての汚れを祓ってくれる気がした。今晩のような霧雨は、まさにお誂え向きのようにも思える。細やかで柔らかな水の粒子が肌に触れるその様は、まるで恥じらう乙女の所業のよう。その清浄さに身を委ねることで、私は自分自身の心に、安寧と癒しを与えることができるだろう。

「……さっきも言っただろうが。これは雨じゃない、霧だ」

 彼はようやく口を開いた。タオルが再びその太い首にかけられる。すっかり湿り気を帯びているであろう白いそれと、動脈の走る上に貼り付いている、薄らと日に焼けた皮膚とが、やけに目についた。

「話が分からないひとだなあ、あなたは」

 彼の言葉に、私は思わず鼻で笑った。

「じゃあ、一体どうして、今晩ここへ来たの」

 彼は、雨が降らなければ、私の元を訪れることはない。だが、その彼自身が、雨など降っていない、と言う。これは大いなる矛盾だ。

「やっぱり、雨は降っているんだよ」

 私は勝ち誇ったように言い放って、ソファの上に身体を倒した。仰ぎ見る形で、彼を見やると、逆さまの顔が、悲痛に歪んでいた。

 雨は降っている。昨日の朝から、ずっと降り続いている。だからこそ、私は昨晩――

「お前は……っ」

 瞬きをする間の出来事だった。彼が叫びに近い声を上げた。気付けば私の頭の上に彼が立っていて、私を見下ろしていた。

「……また、やったんだろう」

 叫びから一転、絞り出すような声。

「さあ、どうだったかなあ」

 茶化して曖昧に答える。逆光でうっすらと影を湛えた顔、苦しげに細められた目、瞳のその奥。彼にとっての正義と悪をあますことなく映し出す網膜を、灼きつくすほどに私は見つめた。

「誤魔化すな。雨は確かに降ってねえ。だが、お前が降ってると言うなら、間違いなくお前はやったんだ。この手で――」

 右腕を掴まれ、引かれる。ごつごつとした硬い指が、皮膚を食む。太いそれは、もしかすれば、彼の正義を実行するための重大な妨げになるのではないかと、ふと考えた。

 言葉を詰まらせる彼の目から、私は視線を逸らさない。耐えかねた彼のほうが、僅かに視線を外した。くそったれ、彼が呟いて、私の腕を掴む指先に、更に力がこめられる。

「……お前の車が沢のそばにあった」

「ふうん」

「昨日の夜、街でお前を見た」

「そう」

 彼は、私の腕に顔を寄せた。指先から肘の辺りまでを、すん、と犬のように嗅ぐ。

「……くすぐったいなあ」

 小さく身を捩るが、彼は私の様子になど構わない。きっと彼は、探しているのだろう。そして私は、彼の探し物の正体を知っている。それは、私の手にこびりついた罪悪の香りだ。

「血生臭ぇ」

 彼が呟いて、掴んでいた腕を乱雑に解放した。重力に従って、それは体の横に落ちる。

「あーあ。本当に呆れるほど、何もかもが無粋だよ。あなたってひとは。もっと気の利いた言い方、あるでしょうに」

 だが、彼にそういった歪曲的な言動などできないことは、私自身がよく知っている。誰よりも、自分の感情に素直な男なのだ、彼は。

 それを如実に表すように、彼は、自身が持つ正義や悪の観念と、それとを天秤にかけている。彼の、そしてかつての私のような立場にある者は、それらを同じ天秤にかけることなど、決して許されないというのに。

「……食ったのか」

 すると、私を見下ろしながら彼がぽつりと問うた。あまりに直接的なその言葉に、小さく肩を竦める。

「まだだよ。ちゃんと綺麗にしないと、美味しくないもの。何なら一緒に食べる?」

「馬鹿言え」

 吐き捨てるような返答。それに対して、

「そうだね。あなたが食べたいのは、柔らかくって綺麗な女の子じゃなくって、筋ばった上に汚れた私だからね。大丈夫。ちゃんと分かってるよ」

 揶揄うように笑ってみせる。彼は今日何度目かの舌打ちをした。

 きっと、私の中の天秤は、最初から壊れていたのだと思う。そしてその原因は、一般的にその責任を押し付けられがちな、家庭環境や教育の中には存在していなかった。しかしこれはあくまでも、私が持つ天秤についてであって、私以外のものが同様であるかはまた別の問題だ。ともかく、私の持つ善悪を計る天秤は、この世に生まれ落ちた時には既に機能していなかったのだろう。

 ただ、私はずっとそのことには気付かずに生きてきた。だから表面上は、私は全く善良な人間そのものであったし、一般的な倫理観や、悪を憎み正義を尊ぶ心も、それなりに持ち合わせていた。その証拠に、私は以前、警察官という職についていたのである。

 当時は、悪を取り締まるこの職業に誇りすら感じていた。だが、奇しくもその職務上立ち会うことになった凶悪事件の現場が、私に天秤の不良を気付かせてしまった。

 川底に打ち付けられた杭に両手を縄で縛り付けられ、藻のように長い黒髪を散らし、水の流れに身をまかせる、女性の裸体。細い首が左右、大きく切られている。腹部も大きく裂かれていたが、内蔵は全て抜かれていて、内部はすっかり空だった。切り口から露出する筋組織、内壁、流水にさらされたそれらは、うっすらと桜色をしているように私の目には映った。血が抜かれたせいか、顔、乳房、下腹、手足、そのどれもが、この世の何よりも純粋な白をしていた。

 女性は紛れもなく死んでいた。何者かによって、無惨に殺されていた。それにも関わらず、私の中に警察官としての、犯罪に対する嫌悪や憎悪などといった感情は、一切沸き上がってこなかった。

 もし、その死体から赤黒い血が流れていたら。或いは、周辺に臓物が撒き散らされ、糞尿で汚れていたら、私はそれをどう感じただろう。その醜悪さを嫌悪しただろうか。犯人を憎悪しただろうか。だが、想像の中で私がどういった感情を抱こうが、それは所詮想像でしかなく、ただ空虚な死体を綺麗だと思ったことこそが確かな現実だ。

 倫理的な欠陥を自覚した私は、事件が解決するのを待たずに、正義を全うする警察官という職を辞した。犯人は、今も捕まっていない。

 欠陥の塊のような私に対して、彼の天秤は全く正常である。雨の日にだけ私の元を訪れるようになったのが、その証明だった。彼はただ、天秤に載せるものを誤っているだけなのだ。彼は眼前の悪に対して、正義と私情とを秤にかけた。結局どちらか一方だけを選ぶことはできず、彼は悪から目を背けた。それは純粋であるが故の哀しき過ちだ。

 しかし、それらを天秤にかけるよう仕向けたのは、他でもない私である。私は彼の純粋さにつけこんだのだ。そのせいだろう。私が自身の行為に、かけらほどに感じている罪悪を、ずっと拭えずにいるのは。

「……俺はお前を食いたいなんて、思っちゃいねえ」

「それは嘘だね」

 彼が絞り出した言葉を、私ははっきりと否定した。彼は血がたぎったような顔色をしていた。

 私はずっと彼の感情を理解し、利用してきたつもりだった。しかしはたして、本当に私は彼の心をしっかりと解剖できていたのだろうか。こうやって彼の顔色の変化を目の当たりにしても、それが怒りからくるものなのか、それとも悲しみからか、或いは憎しみに因るのか、私にはまるで判らなかった。しかし、それは却って幸福なことだとも思われた。

「食べるのは、人間としてごく当たり前に持ち合わせた所有欲・征服欲を満たすのと同じことだよ。私が彼女たちを食べることと、恋人同士のセックスと、一体が違うっていうの? あなたが、私を、」

 途中、彼が震える拳を振り上げた。私はそれに構わない。

「……犯したいと――或いは私に犯されたいと――思ってることも。同じだよ、全部ね」

 言い切っても、振り下ろされなかったその拳に、私はふと一抹の愛しさを感じた。

 沸き上がった感情の赴くままに、彼のシャツの胸の辺りを、摘まむようにして引いた。彼はそれに逆らわず、ゆっくりと腰を折る。逆さまに降ってくる真っ赤な顔が形作る表情は、まさに処女のそれだった。私が手にかけた女性の幾人かが、私に触れられる際、今の彼と同様の表情を浮かべていたのを思い出す。

 彼の睫毛や唇は小刻みに震え、滲んだ瞳はうろうろと所在無さげにさ迷い、そういったことから厚く重なったその筋肉すら今や少女の如く細く華奢に錯覚でき、しかもその儚げな身体を私の方へ寄せてくる。極めつけに、彼は女性らとは違い、私の本性を認めていた。何より、今しがたの私の言葉によって、彼の純情は傷つけられてしまったに違いないのだ。にもかかわらず、倫理観の欠如した私を(それこそ、彼が尊守すべき倫理に従って示すところの悪徳たる存在すら)突き放すことができない。女よりも純粋かつ盲目的な彼の私に対する情念は、予てよりひしひしと感じはしていたが、しかしこうやって確かな挙動として目の当たりにすると、私自身、もしかすると彼に恋をしているのではないかと思わされるのだ。

 唇が触れた。そこは彼の一部にしては柔らかく、穏やかな温かさが感じられた。ふっくらとしていて、私がこれまでに唇で甘く食んだ、女性たちの肉の感触に似ている。私は瞼を閉じなかった。彼の、太い首を覆う、薄く日に焼けた皮膚が、視界一杯に映っている。その左右、皮膚の下に、対照的に走る血管の青黒さをじっと見つめれば、その早まった脈動が、手に取るように感じられた。血管の狭間で、喉仏が、大きくひとつ、上下に動いた。

 唇が離れていくと、彼のぼうっと焦点の定まらぬ瞳が、はっと我を取り戻した。そうして身を引くように二三歩後退ると、手の甲を擦り付けて自身の唇を拭った。

 執拗なほどに純粋な彼の感情は、その純情を通じて、どうやら伝播するらしかった。私も彼と同様にして唇を拭う。彼の温度が、唇の上に僅かに残っている。

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