きみの目玉と僕の嘘

 僕は、嘘が嫌いだ。嘘をつけばかならずどこかで誰かを傷付ける。だから僕は、自分自身にすら嘘を付かないよう、正直に生きている。

「目玉が好きなんだ」

 木箸の先端を、皿の上に横たわる頭と骨だけになった鯵の小さな眼窩へと押し込みながら、僕は言った。恋人のなぎさは「そうなんだ」と特段驚いた様子も見せなかった。いつも通りの穏やかな微笑を浮かべながら、テーブルに二つ並んだ湯呑みに茶を注いだ。ふわりと湯気が立ち上り、爽やかな香りが鼻をくすぐる。

 鯵の目玉があった場所には、ぽっかりと丸い穴があいていた。右手で握った箸の先には、先程までそこに収まっていた白い球が挟まれている。僕はそれを口に放り込むと、舌の上でコロコロと転がして感触を楽しんだ。硬いゴムのような弾力があり、やや塩辛い。味付けがあまり上手くないのだ。けれどそれにも、随分と慣れてしまった。塩味が薄れてくる頃には注がれた茶は既にぬるくなり、僕はそれを一気に飲み干す。そして魚の目玉もその流れに乗って、僕の胃袋へとすっかり収まるのだった。

「ねえ」

 食後、ソファで横になっていた僕に、なぎさが声をかけてきた。足元に立つ彼女にちらと目をやる。ピンク色のパジャマを着て、濡れた長い黒髪をタオルで拭いていた。そして髪と同じく黒々とした瞳で僕を見ている。

 なぎさはできた女だった。面倒見が良く、誰にでも優しい。物腰も柔らかく、言動に嫌みのかけらも見せない。セックスの際にも、必死に僕を満足させようとしてくれる。(いやらしい雑誌を読んで勉強しているのだと、いつだったか彼女は言っていた)家事も一通りこなすが、料理だけがほんの少し苦手らしく、こればかりは付き合い始めて三年が経っても一向に上達の兆しを見せなかった。しかし付き合うといっても、どちらかの告白で始まった関係ではない。二人の距離が徐々に近付いて、自然と体を重ねるようになった。互いに成人した男と女なのだから、当然の流れなのかもしれない。今では彼女も僕の住むアパートでほぼ毎日寝起きしているため、殆ど同棲状態だった。

「ねえ、私のも、そうしたいと思ったこと、あるの?」

「なんだって? なにをどうするって?」

 要領を得ない彼女の問いに、眉根が寄る。視線を合わせないまま、僕は逆に聞き返した。

「目」

「目?」

「私の目玉。さっきの、魚みたいに」

「そんなこと」

 思うはずない。その一言は僕の口から出てこなかった。出せなかった。何故ならそれは、紛れもなく嘘だったからだ。なぎさの言うとおり、僕は彼女の目玉を、魚にしたようにくり抜き口腔内にふくみ舌で愛撫を施したいと確かに思った。だが――。

「いいよ」

「え?」

「私の目、さっきみたいにしても、いいよ」

 僕の心を見透かしたように、なぎさは言った。僕は思わず、彼女の目を見つめた。見つめてしまった。これまで極力見ないようにしてきた、輝く黒曜石にも似た美しい目。見てはいけなかったのだ。胸の奥底で息を潜めていた、非人道的かつ極めて文化的でおぞましい欲望に、再び火をつけてしまうことになるのは分かりきっていたというのに。ああ、僕は見てしまったのだ。彼女の目を。

「私の目、あなたにあげる。だから――」

 翌朝、僕が目を覚ました時には、なぎさの姿は部屋の中になかった。ただ食卓の上に、彼女のピンク色の携帯電話だけが人質のように置かれていた。それを横目に、冷蔵庫の奥から乾燥しきった食パンを引っ張り出す。それをトースターで焼き、インスタントコーヒーと共に朝食にしたが、あまり喉を通らず結局どちらも捨ててしまった。最初から何も食べなければ良かった。ゴミ箱の中で紙くずに埋もれた食パンを見て、僕は今更後悔した。

 こうして、なぎさがいないこと以外、普段と何も変わらない一日は始まり、そして何も特別なことは起こらないまま、普段通りに一日が終わった。なぎさはその日、僕の元には帰ってこなかった。所在を確認しようにも、可愛らしいピンク色の携帯電話はテーブルの上で大人しく横たわっているし、そもそもここは彼女の自宅ではないのだから、本来は帰ってこなくて当たり前だ。それ以前に、今なぎさがどこにいて何をしているのか、知りたいとは僕は思わなかった。

 ピンク色の人質を捨ててしまえば、なぎさ、君はこのまま僕の前から消えるだろうか。そんなことを考えながら、僕は屍のようにどろどろと、なぎさが戻るまでの二日間を生きた。

 そんな僕の元に彼女が再び姿を現したのは、三日目の夜のことだ。仕事が終わり帰宅した僕が、アパートの部屋の鍵を開けようとすると、既に開いていた。ああ、来たのか。僕は息を飲んで、そっとノブを回した。

「おかえりなさい」

 玄関には、やはり、なぎさが立っていた。その手には、置き去りにされていたピンク色の携帯電話が固く握られていた。

「私、おわかれをしてきたの」

 彼女はそう言った。言葉の意味にそぐわぬ満面の笑顔だった。

「おわかれって、誰に」

 見るからにアンバランスな彼女の言動に、僕は思わずそう尋ねてしまった。

「あなた以外の、この世界のすべてに」

 言いながら、彼女は僕の手をとった。そして妖精のように無邪気に、僕を室内へと誘う。逆らうことはできなかった。手を引かれた僕は、さながら光に誘われる羽虫のようだった。

 導かれた先は、食卓だった。卓上にはブルーシート被せられ、周辺の床にはタオルが敷き詰められていた。真新しい光沢を放つ青の海の上で、銀色のスプーンが一際異様に輝いている。僕には、それが何を意味しているのかすぐに分かった。恐らく彼女は言うだろう。

『これで私の目を――』

「私の目、これで取り出せると思うの」

 なぎさは振り返り、僕を見ながら言った。予想通りの言葉だった。細いその指で、青に浮かぶ銀を指し示しながらも、少し恥ずかしそうにしている彼女の姿に、もう戻れないのだ、と僕は感じた。

 立ち尽くす僕をよそに、彼女は迷いのない動きでスプーンを手に取り、そして自身の体を偽物の海の上へ横たえる。そして僕に「はい」とぎらぎら光るそれを差し出した。

「後ろに、ロープがあるから。それでしっかり私を縛ってね。舌を噛むのは嫌だから、ハンカチを噛ませてくれると嬉しいな」

 僕はスプーンを受け取り、言われるままに彼女を食卓に縛り付けた。何重にもぐるぐるに巻いた後、ポケットに入っていた黄色いハンカチを丸めて、なぎさの小さな口に詰め込む。少し苦しそうにしていたが、構うことなく押し込んだ。

 右手の中のスプーンをきつく握り直す。

 すぐに手のひらが汗ばんだ。

 は、は、と息が荒くなる。

 彼女の頭の横に、僕は立って、その表情をじっと見つめた。そこに恐怖はなかった。彼女はただ、小さく頷いた。それを合図にして、僕は左手の指先で彼女の上下瞼を広げた。周囲の筋肉が小刻みに痙攣する。ハンカチの詰まった口から、ふううと深い息がこぼれた。緊張しているのかもしれない。眼球がうろうろと動いていた。その中にある深い黒の瞳を見つめると、どこまでも吸い込まれていきそうだ。

 握ったスプーンを、僕は彼女の左目に近付けた。横たわったその体が強ばるのが分かる。

 眼球の下のほうに、ぴたりとスプーンのくぼみをあてがう。瞼がさらに激しく暴れる。彼女の息もより荒くなり、口の端からはハンカチが吸いきれなかった唾液がだらだらとこぼれている。顔面は、セックスの最中のように紅潮していた。

 僕は何も言わなかった。言えば、止めなければいけなくなると思った。止めてはいけないと感じた。なぜならこれは、彼女が望んだ行為だから。

『私の目、あなたにあげる。だから』

 彼女はあの時、僕に自らの目玉を捧げると言った。そして――。

『だから、あなたが私の目の代わりになって』

 引き換えに、僕を一生縛ることを望んだ。言いながら、彼女は泣いていた。笑いながら、泣いていた。僕はショックで彼女に声をかけることも出来なかった。なぎさとは共に暮らし、何度も体を重ねた仲だ。義理を感じていたわけではないが、別の女と遊んだことはないし、時折デートもしていた。求められれば、苦手な写真を二人で撮ったりもした。それでもなお、彼女は僕を束縛したいと感じていたのだ。僕は彼女に尽くしていたつもりだった。けれど、それでは足りないと、彼女は思っていたのだ。そのことが、僕はショックだった。

 眼球に当てたスプーンを、すっと内部へと差し入れる。スプーンはすぐに半分ほどが埋まった。眼球はあっという間に真っ赤に充血し、僕が触れていないほうの目は白目を剥いていた。縛られた手足はぶるぶると震え、もし口のハンカチを取り出せばすぐにでも泡を噴くだろうと容易に予想できた。

 スプーンを、眼窩の奥へとさらに進める。柄の部分近くまで差し入れたところで、眼球に沿わせてぐるりと一周スプーンで円を書く。途端、彼女の体が魚のように大きく跳ねたかと思うと、そのまま動かなくなった。つんと鼻につく匂いが漂う。ビニールシートの端から、金色の液体がぱたぱたと床にこぼれ落ちていた。失禁したのだ。それを僕は横目で確認し、再び手元に視線を移した。

 柄をてこの原理で動かし、僕は眼球を取り出そうとした。しかしなかなかに難しい。どうしても瞼が邪魔をするのだ。瞼とはこんなにゴムのように伸びるものだったのか。初めは感心してまじまじと見つめたが、目玉を思うように取り出せず、そのうちに苛立ちが募り始める。力点にさらに力を加える。みち、という音がして、瞼が裂けた。ぽん、と間抜けな音がして、太く束になった神経を命綱にした大きな目玉が、顔の横にぶら下がった。僕の口から思わず「ああ」と声が漏れた。感嘆とも落胆ともつかぬ声だった。

 やってしまった。もうひとつ目玉が残っているとはいえ、もう後戻りはできない。これで僕は一生、彼女の目となり生きなければならないのだ。彼女は、さぞ喜ぶことだろう。

「なぎさ、なぎさ」

 名前を呼び、頬を軽く叩く。しかし彼女はぴくりとも反応を示さない。

「なぎさ……?」

 少し強く、体を揺する。黒い闇をたたえた眼窩の縁から、どろりと濃い血液が溢れ出した。もともと白い彼女の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。手のひらに収まっていたスプーンが、するりと逃げだし床に落ちる。それがカタンと軽い音を立てて、そこで僕は気が付いた。――死んでいるのだ、彼女は。

「ああ……あああ……なぎ、なぎさあ……」

 情けない声が口からもれた。腰が抜けたのか、僕はへなへなとその場に座り込んでしまった。スラックスの裾が、テーブルからこぼれた彼女の尿で汚れたが、もはやそんなことはどうでもよかった。なにしろ、彼女が死んでしまったのだ。僕のせいで、彼女が死んでしまった。

 そう、僕のついた嘘のせいで、そして僕が嘘をつかなかったせいで、彼女は死んだのだ。

 僕は確かに、なぎさの目玉を抜き取って弄びたいと思ったことがあった。けれど、それは体を重ねる以前のことだ。彼女とのセックスを繰り返し、彼女と過ごす時間が長くなるほどに、彼女に対する僕のおぞましい欲求は薄れていった。何故かは、分かっていた。けれどそれを口に出すのが、僕は恐かった。それは彼女を縛り、僕自身をも縛ることになる言葉だからだ。しかしその言葉口にしないことで、彼女の目玉に対する欲求を、僕は完全に消し去れなかった。

「君の目玉をそんなふうにしたいなんて、思うはずがないだろう」

 それが僕の本心であり、そうありたいという望みでもあった。ただそれだけ、彼女に言えば済むはずだった。けれど言えなかった。あの時、彼女の瞳をまっすぐに見つめてしまったことで、僕の心が大きく揺らいだ。

 僕は、嘘をついたのだ。そして嘘をつかなかった。

 結果として、僕の嘘が原因で、彼女は死んでしまった。

「なぎさ……僕は、僕は……」

 僕の目の前に、彼女から溢れた血滴がぽたりぽたりと落ちた。すぐに床に血溜りができる。

 ふと、テーブルの下にピンク色の携帯電話が転がっていることに気付く。なぎさの携帯電話だ。手を伸ばし、二つ折のそれを開いた。待ち受け画面に光がともる。そこに設定されていたのは、僕となぎさのツーショット写真だった。いつだったかのデートで、彼女にせがまれて撮ったものだ。

 視界が歪む。目頭が熱い。僕は涙を流しながら、嗚咽した。手の内の思い出の中の彼女を抱き締めて。

 どれくらいそうしていただろうか。床の血溜りは少しずつ固まり始めていた。

 僕は袖口で涙を拭い、横たわる彼女を見上げた。その頬には、いまだ眼球がぶらりとぶら下がっている。濁り始めた黒い瞳と、自然と目が合った。

 僕は小さく頷くと、垂れ下がる果実にも似たそれを、手のひらで包み込んだ。そして、引く。ぷちぷちと神経が切れる音がして、腕全体にその感触が伝わってくる。やがて抵抗が無くなり、すとんと手のうちに収まった。首を傾げたように、目玉は僕を見ている。その様子がまるで本物のなぎさのようで、僕は思わず笑ってしまった。

「なぎさ」

 名を呼び、指先でそっと撫でる。ところどころ血が付着していたが、それすらも乾きかけていた。

「僕は、ずっと君のことが……嫌い、だったよ」

 目玉に唇を寄せ、僕はそう囁いた。

 そして吸い込むように、彼女の目玉を口に含んだ。それは意外に大きく、魚の目玉なんて当然比べものにならないほどの質量だった。セックスの時、彼女もこんな苦しさを味わっていたのだろうかと、僕はぼんやりとした頭で思った。

 スペースの少ない口腔内で、舌を使って目玉を転がす。鉄錆臭い味の中に、僅かに涙の味がした。悲しみの涙だろうか、それとも――。

 僕は彼女に告げた最期の嘘と共に、彼女の目玉を、ゆっくりと嚥下した。

(了)

       
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