耳を塞ぐ

 女の手が、私の頭を優しくひと撫でしてから、左耳をそっと塞いだ。そこから聞こえてきたのは、いつもとは違う響きだった。ぐずぐずと何かが溶け崩れていくような音は酷く心地よく、私はうっとりとしてそれに耳を傾けた。これは彼女の肉体から放たれる音なのだ。そう思うと、途端に体の芯がじんと疼く熱を持った。

「いやなことなんて、聞かなくてもいいの。だからこうして――」

「っあ」

 耳朶に感じたねっとりと生温かい温度に、私は思わず身を硬くして声をあげた。彼女の舌が、擽るようにそこをひと舐めしたのだ。

「――塞いであげる」

 吐息に近い囁き。舌は、外耳の複雑な凹凸の上を緩慢な動きで這っていく。所々の窪みを舌先で丁寧に詰られる度に、私の体は小さく跳ねた。しかし同時にむず痒いような何とも表し難い物足りなさを覚え、私はそれを堪えるように、半ズボンから剥き出しになった両の内股を擦り合わせた。

 女が、くすくすと笑ったような気がした。それは本当に気のせいだったのかもしれない。今になって考えてみれば、あれは私が羽織った長着と彼女が身に着けた襦袢とが触れ合う音だったようにも思える。だが、当時の私は、彼女が私の心のうちを見透かして笑ったのだと思った。それが酷く恥ずかしく、しかし余計に焦れったいような気持ちになった。私はわざとらしく大きな動作で太股を擦り寄せ、本能で切望する刺激の来訪を、両手の拳を固く結んで待った。両脚の付け根のその中心が、じっとりと湿る気配がはっきりと分かった。

 ぐじゅん、と湿潤な音とともに密閉感があった。彼女の舌先が、とうとう私の暗く狭い耳道に差し入れられたのだ。

「ああ――っ」

 思いもよらぬような大きな声が自分の口から溢れ出したことに、私は驚いた。両耳を塞がれていることによって、声は妙な具合にくぐもっていて、まるで私ではない誰か別の人間が、私になりかわっているのではないかという気さえした。そのことが恐ろしくて、私は慌てて握った拳を唇に押し付け、それを封じたのだった。

 しかしその恐怖はすぐに払拭された。彼女は差し入れたぬめる舌先を巧みに上下左右と動かし、耳道の内壁を刺激した。その合間に、耳の奥をさらに侵していく素振りをしてみせる。私の全身は痺れたようになって、まるで言うことをきかなくなっていた。けれど私はそれがいやではなかった。もっと深く強くして欲しいと思っていた。そのうちに、固く握っていた手を解き、代わりに彼女の細い腰に両手を回して抱き付いた。階段に腰掛けながら、さらにそんな状態では、両脚の間で熱を持ち湿り気を増すその部分をどうすることもできず、やり場のない欲を持て余していた。

 私の頭の中は、すっかりぐずぐずに蕩けていた。水よりも粘度のある、例えばうんと甘い蜜の中にでも沈んでいるような心地であった。

 その蜜が、耳の奥へと流れ込んでくる。私はきつく目を瞑った。視界が激しく明滅した。私は唇を彼女の胸元に乱暴に押し付けた。薄い襦袢の生地の上からでも柔らかな感触と、濃厚な彼女のにおいがあった。私は気を失った。生まれて初めて感覚を極めた瞬間だった。

 彼女が何者だったのか、それは今でも分からない。あの出来事の後、目を覚ました時には、私は既に自宅のベッドの中にいた。私が羽織らされていたはずの夏草と蛍の柄が描かれた着物、そして唯一身に着けていた半ズボンも、部屋の中には見当たらなかった。代わりに身に着けていたのはパジャマだった。もしかすると、あれは夢なのではないかとも思えた。

 ベッドの上で上半身を起こし、記憶を辿って幻想と現実の境目を探していると、耳の中から何かがじわりと溢れる感触がして、私は背筋を震わせた。指で触れると、そこにとろりと生温かく透明な液体が付着した。それを確認すると、全身が急速に熱を持つのを感じた。内股を擦り合わせながら、私はその出来事が、やはり現実のものであったのだと確信するに至ったのだった。

 その夏休みの間に、私の両親は離婚した。私は父にも母にも引き取られなかった。私はふたりにとって、乾いた糊と同然になったのだろう。施設に預けられることとなった私は、転校を余儀なくされた。そんな私を、施設の職員は憐れみの目で見た。だが、それらのことは、私の心に一点の曇りすら残すことはなかった。

 それから私は、施設の世話になりながら小・中・高校と通い、無事卒業した。施設の斡旋で、市内にある別の福祉施設に就職することもできた。給料は決して多いとはいえなかったが、それでも手取りの中から少しずつ貯金をして、一年で百万ほど貯めた。

 私はその金で、中古の着物と袴をふた揃え買った。そして社会人になって二年目の春から、茶道教室に通い始めた。それは単に自己啓発という理由からではなく、私という人間の根幹部分に関わる、極めて純粋な目的を達成するためであった。

 廃神社での体験の後、私は自分が着物姿の女性ばかりに惹かれるようになっていたことを認識した。――例えば、小学校の卒業式で付け下げを身に着けた担任教師であったり、また一年に一度成人式の日に街中で見かける振袖姿の女性であったり、修学旅行先の旅館の仲居であったり――そして、そういった女性たちの中に、私は夏草と蛍の着物を着たあの女性の姿を幻視しようとした。だが、それは一度として叶わなかった。確かに、着物姿の女性には等しく惹かれる。しかし、私が求めているものと、実際目にするものとの間には、目には見えぬ、しかし大きな相異があるように思えた。そのことを認識すると、酷く憂鬱な気分になった。あの女性には、もはや二度と会うことはできない。その面影を重ねる相手すら、きっと見付からないのであろう。私の心は徐々にそんな諦念に支配されつつあった。それが高校二年生の時だ。思春期のただ中に立ちながら、私は特異な性的嗜好を自覚し、さらにそれが叶うことのない精神的苦痛に曝されていた。

 そんな私に新たな希望を植え付けた出来事があった。高校を卒業するひと月程前のある日、私は些細な用で学校に遅くまで残っていた。私は部活動をしていなかったため、ホームルームが終わっても長く学校に留まっているということはそれまで一度としてなかった。だから、私が知るはずもなかったのだ。自分が通っていた高校の茶道部が、講師を外部から招いているなどと。ましてその講師が着物姿であるなど、どうして私に想像できようか。

 私以外に生徒の姿のない廊下で見かけた茶道講師の女性に、私はすぐに心を奪われた。しずしずと歩くその後ろ姿。高く結いまとめられた髪。後れ毛の残るうなじ。背中で結ばれた上品な赤紫色の帯。落ち着きのある緑色の長着には、柔らかく綻んだ水仙が描かれていた。清浄さと気品を持ち合わせた甘い香りが、辺りに漂っているかのような錯覚。さながら早春の野にでも立ち尽くしている気分だった。私は春に抱かれたのだ。あの日、夏を身に纏ったように。

 私は直感した。この女性にこそ、あの夏の思い出を重ねることができると。

 その背に向かって声をかけ、呼び止める勇気は、さすがに私にはなかった。代わりに、帰宅するために昇降口へ向かおうとしていたその足で、私は職員室に向かった。そして担任から、廊下で見かけた着物姿の女性について聞き出したのだった。

    * * * *

「それが、私なのね」

 過去のあらましを掻い摘んで説明すると、彼女はくすくすと笑ってから、私の脊椎の上を指で撫でた。思わず背を反らせる。くじられるのではと思うほど強く与えられた刺激は、皮膚と着物との間で過度の摩擦を生んだが、しかし決して不愉快な刺激ではなかった。「ああ……」自分でも肯定の返事か喘ぎか分からぬような吐息混じりの声がこぼれた。

 彼女が言うように、彼女は私が高校の廊下で見た女性で、さらに私が通う茶道教室の講師である。そしてこれから、私はそんな彼女と、深い関係を結ぼうとしている。幼き夏の夕暮れに出会った女性の影を、彼女に重ねながら。

 だが過去を告白した今になって、急に彼女に対して酷く申し訳ないような気持ちが湧いていた。私は極めて純粋な動機をもって、不純な行いに手を染めようとしているのだ。それを彼女に拒否されることなど、これまで一度として想定したことがなかった。何故なら、私の中で彼女はすっかり『廃神社で出会った女性』へと置き換わっていたからだ。私はそこから『ならば彼女は私の誘いを必ず受け入れるはずだ』という飛躍的かつ傲慢な錯覚を生みだし、挙句それがさも確定的な事実であるかのように思い込んでいた。私は、今更になって自身の過ちを理解して、恐ろしくなった。私の持つ特異性がすべて明らかになったとき、彼女の口から私に向けて「きもちわるい」という一言が発せられるのではないかと思った。寒くもないのに、体が震えた。窓のすき間からゆるりと吹き込む春の風が頬に触れた。それは微かに鈍い痛みを伴った。

 頭の中に、ぼんやりとした灰色が広がっていく。無意識のうちに、私は左耳を塞いでいた。右耳は、彼女の胸元に押し付けていた。筋繊維、体液、そういったものが途切れず行う生命活動が、ぐずぐずと崩壊を思わせる音になって、私の耳を、脳を侵していく。

「あなたは、どうして耳を塞いでいるの?」

 彼女が言った。その言葉は、振動する空気を介することなく、彼女と私の骨と肉を通じて伝わった。

「恐いんだ、私は恐い」

「何が、恐いの?」

 尋ねられ、言葉に窮する。

「言って。言いなさい」

 だが、強い口調で彼女は私を急き立てた。しかし同時に、彼女の掌が、耳を塞ぐ私の手に重ねられた。

「……きみの心を聞くことが」

意を決して、私は答えた。言い終えてから唾を飲み込む。すっかり乾ききった口腔内からは、空気だけが嚥下され、胃へと落ちていった。

「そんなこと」

 彼女が軽く鼻で笑う。

「――では、訊くけれど」

 続けてそう口にした。

「何を」

「あなたが〈そんな格好〉をしているのも、その女性の影を追っているせいかしら?」

 彼女は空いた手を、私が身に着けはだけさせた、縹色の長着の内に差し入れた。その下に着込んだ長襦袢の胸元を、細い指先が円を描くようになぞる。右にひとつ、左にひとつ。その動作に、私自らが真実を打ち明けずとも、私の本質を彼女はすっかり見透かしていたのだと気付かされる。そのことに対して、驚愕よりも安堵が勝った。

「……彼女は、あの時の私がまるで少年のようだったから、あんな風なことを私にしたのだと思ったんだ。だから、私は少年のまま歳を重ねなくてはならなかった。再びあのひとに、この耳を塞いでもらうために」

 私はついにすべてを白状した。自分自身の最後の告白が、骨を伝って全身に染み広がっていく。体が僅かに軽くなったような感じがした。私の内には、もはや隠しだてするような事柄はひとつとしてなかった。

「あなたは、私の外見にその女性を重ねているのかしら。それとも、内に?」

 私は返答に窮した。内とも外とも答えることは出来なかった。敢えて返答するならば『内であるようで、内でななく、外であるようで、外ではない』とでも言うしかないのだが、しかしそれも私が求めるものの本質ではない気がした。

 黙っているその間に、耳を塞ぐ私の手に重ねられた彼女の手指が、五指の谷をこじ開ける。谷底を指先で軽く掻かれ、腕から力が抜けた。するりと腕が落ち、耳介が露になる。暖かい春の空気がそこに触れた。彼女の指が、すかさず私の耳道の入口を縁どるようにゆるりと撫でる。私は自然、両太股を擦り合わせていた。

「言えないのね。でも、いいわ。私、あなたみたいな素直な女の子って、好きよ」

 彼女に肩を押され、体が転がる。私は無抵抗のままベッドの上に仰向けになった。私の体を跨ぐように、彼女が馬乗りになる。彼女の長着は帯の締め付けをもって辛うじて落下を免れていた。結った髪が酷く乱れている。そしてその乱れた髪が張り付く首元に私の視線が釘付けになるのは、もはや必然といえた。

 また強い風が吹いた。春の香りがした。私のすぐ目の前で、空色を背景に桜の花弁が優雅に舞っている。

 彼女が帯の結び目に手をかけた。その場にはらりはらりと、幅広の帯が落ちる。細い帯紐がそれに追従する。彼女は長着を脱いで、私の胸元にかけた。

「綺麗な桜ね」

 襦袢姿になった彼女は、舞う桜を身に纏った私を見下ろしながらそう言った。私は子供がするように、こくんと小さく頷いた。彼女はそれを見て、満足そうに微笑する。

「私が、塞いであげる。あなたの耳を」

 紅く塗られた唇で、彼女は言葉を紡いだ。その白い長襦袢の上に、私は夏草と蛍の幻影を見た。

(了)

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