耳を塞ぐ

 純白のシーツの上に桜の花弁が散りばめられていた。ガラス越しに差し込む陽射しが暖かく、また、僅かに開けた窓から吹き込む穏やかな南風が、遠くから柔らかい新緑の香りを伴って、私の頬を擽る。満開の桜が立ち並ぶ丘陵にいるような心地だった。

「綺麗な桜だ」

 空色の布地に描かれた満開の桜を見上げるようにしながら、私は言った。乱れた裾から、彼女の血色の良い肌が露になっている。膝頭から脛へ、そのすべらかさを確かめるように、ゆっくりと撫でた。厚みのある足袋の生地に、指先が触れる。着衣を淫らに拓かれながらも、足袋を着けた踝より先が、いかにも清純なふうに見え、その落差が余計にも私を昂ぶらせた。

「せっかくの桜も、あなたの所為で散ってしまうかしら」

 彼女は白いシーツを背に、首だけを持ち上げ私を見下ろした。丁寧に結い上げられていた髪は今ではすっかり崩れ、肩や首元にまとわりつくように落ちている。

 彼女は大きな動作で両足を擦り寄せた。柔らかな太股、そしてその奥の秘密の場所までもが、私の前に惜しげもなく晒された。

「散らすことができるのかしら?」

 彼女はどこか含みのある目で、じっと私を見た。紅い唇を、彼女はわざとらしく舌で舐めた。唾液に塗れたその舌が、彼女とは別の一個の生き物のように思えた。それは私へ向けた明らかな誘惑であった。

 不意に、私の耳道を伝うように蜜が流し込まれる甘美な錯覚があった。否、それは錯覚というより、幼き日に体験した忘れがたき記憶の断片であり、決して幻想などではなく、私にとっては紛うことなき現実なのである。そしてそれを呼び覚ましたのが、着物を纏った彼女の舌であったことは、私にとって非常に重要な意味を持つ事実であった。

 突如、風が強く吹いて、カーテンを大きく揺らした。かたかたと窓が音を立て。暖かな風が、私と彼女に吹き付けた。ひゅぉう、と耳介が風を切った。同時に耳道の入口を風が舐める。「あぁ……」ささやかなその愛撫に私は喘いだ。思わず目を閉じた。背筋がぶるりと大きく震える。

 頭の中がじんと痺れていた。突風が収まってもなお私は陶然とした心地であった。再び風が強く吹かぬものかと期待したが、しかし窓の外はすっかり静かで、子供をあやすような微かな春風がそよぐばかりだ。

 目を開ける。変わらず目の前には彼女の秘部があり、乱れた着物を束ねている帯の向こう側から、彼女はじっとこちらを見ている。僅かに蔑みを含んで見えるその微笑を向けられると、まるで自慰を観察されているかのような気分になって、さらに興奮が高まった。体が火照っていた。私の体だけが、夏の陽射しの下に放り出されたようだった。首筋を流れ落ちた汗が、衿に浸みていく音が聞こえた気がした。着物の合わせの隙間から漂う濃密な汗のにおいは、再び私に過去の記憶を思い出させる。

「熱い」

 私は呟いた。

「着物を脱いだらどう」

 彼女が言った。

「ああ、脱ぐ」

 私は短く答えた。そしてベッドの上に膝立ちになると、ぞんざいな手つきで袴の帯を解く。その場に袴を落とすと、それを完全に脱いでしまうのも面倒になり、私は袴を膝の回りにまとわりつかせた無様な格好のまま、倒れ込むように彼女の胸の中に顔を埋めた。

 私は左の耳を手で覆い、右の耳を彼女の胸に押し当てた。地鳴りに似た音と脈動が混じる。

「あの日の再来だ」

 外音の遮断により、骨導によって脳を刺激する自身の声音は妙な具合に低く、輪郭も不鮮明だ。灰色の絵の具を水面に落とすと、このような広がりをみせるだろうかと考える。そしてこの極めて微細な骨の振動は、私の下腹をじわりと甘く痺れさせた。私は耳から手を離し、代わりに彼女の体をきつく抱きしめた。

「あの日って?」

 私の頭を、彼女の手が撫でた。その感触までも、あの日と同じだと私は思った。着物のはだけた彼女の胸元から、女特有の甘く仄かに酸いにおいが、むせ返るほどに強く立ちのぼっていた。そのにおいに意識を埋めながら、私は遠い夏の日に感じた甘美で純粋な熱を夢想した。

    * * * *

 幼い頃から、私は酷く気弱な質であった。クラスメイトに苛められては泣いてばかりいた。彼らは私のことを「きもちわるい」と言っては、時折顔を殴り、腹を蹴った。何故私が「きもちわるい」と言われなくてはならないのか、私にはまるで分からなかったから、どうすることもできずに、ただただ悲しいばかりだった。悔しいとは思わなかった。仕返しをしたいなどとは考えたことすらなかった。ただ、台風がいつかは過ぎ去るように、クラスメイトらの行為はいずれ終わるものだと信じていた。そして暴力を受けながらもせめて心だけは守るために、いつしか耳を塞ぐようになっていた。体に受ける痛みならば、時が経てば引いていくものだと私は思っていた。

 だから私はいつもボロボロの格好をしていて、それを見れば誰の目にも苛めを受けているのだと見当がついたろうと思う。しかし、大人は誰ひとりとしてそんな私の異常に触れなかった。触れなければ存在しないのと同義だからであろう。そんな大人たちに、私もあえて助けを求めることはしなかった。大人とはそういうものであるという諦念が、その頃から既に私の中にはあったのだ。

 身近な大人の筆頭である両親はといえば、他の大人と同様かそれ以上に、私に対して酷く無関心であった。当時ふたりの仲はあまり芳しくなく、私という存在はふたりの関係を辛うじて夫婦として繋ぎ止めている糊のようなもので、ねばつき、なかなか剥すことのできない忌々しいものであったのだと思う。両親も当然私が苛められていることに気付いていたが、だからといって体を抱き締めて慰め、庇護してくれるようなことはなく、傷だらけで帰宅しても、虫けらでも見るような目で私を一瞥するだけであった。

 そういうこともあり、自分自身を守るものは唯ひとり自分より他にはないのだと、幼い私ははっきりと確信していたのである。

 あの夏の日も、私は耳を塞いで泣いていた。小学四年の夏休みが始まってすぐのことだった。

 校区内にはとっくに廃社となった今にも崩れ落ちそうな神社があって、苛めっこの中心メンバーたちは、私をこの場所へとよく呼び出しては暴力を振るったものだった。

 この日は、リーダー格の男子がどうやら虫の居所が悪かったようで、私は社殿の縁の上に押し付けられ、いつもよりうんと酷く殴られた。殴られるだけでは済まされず、私は身に着けていたお気に入りの青いTシャツを無理矢理剥ぎ取られてしまった。子供の力でも、呆気なくシャツは破られた。ぼろ布のようになってしまった青い残骸を見せられるのは何とも言えず悲しかったが、しかしそれ以上に私は耳を塞ぎたい一心で必死だった。だがそれは許されなかった。押さえつけられた手足を必死にばたつかせたが、複数人で制圧された体は、ちっぽけな私ひとりの力では、自由を取り戻せるはずもない。私はただただ泣き叫び、それをもって彼らの声を打ち消そうとすることしかできなかったのである。

 しかしその叫びも、口を塞がれてしまえば虚しく消え去るのみだ。塞ぐことのできなかった耳からは、今思い返すことすらおぞましい、悪意に満ち満ちた、否悪意そのものと言っていい無数の言葉が流れ込んだ。そして未完成な頭と心を凌辱した。それは生まれて初めて味わう恥辱であった。

 そうやって私をひとしきり弄んだクラスメイトたちは、六時のサイレンが鳴ると急に良い子の顔を作って、私をごみくずのようにその場に置き捨てて、去っていった。

 私はといえば、涙も渇れ果て、しかしそれでも泣きながら、上半身に身に着けるものを失ったまま、縁の上に体を横たえ、両手で耳を塞いでいた。ひとりになってもなお、私の頭の奥でクラスメイトたちの悪意が渦巻いていた。それはどれだけ強く耳を塞いでも消えなかった。肉体は麻痺したように、痛みを感じなかった。

 日が暮れ始めると、木々に囲まれた廃社殿の周囲では、カラスがクァクァとしきりに鳴いていた。巣に戻ってきたのだろうと思われた。私は焦点の合わない目でぼうっと社殿の庇あたりを眺めながら、掠れた声でクァクァとカラスの真似をした。耳を塞いでいたため、その声は自分の中で低く大きく曖昧に響いた。渇れたはずの涙がこぼれた。

 不意に、床につけた後頭部から肩にかけてに、ぎぎぃと木の軋む感触が伝わった。私は思わず視線を頭の上へと移した。心臓が大きく跳ねた。私の頭の方から、女の顔がぬうと覗いていたのだ。白い顔に――今思えば、化粧のせいでそう見えたのだろう――真っ赤な唇。この捨ておかれた神社に私以外にひとがいたことに私は驚いて、反射的に体を起こし反転させ、犬のように四つんばいになって女と対峙した。

――思えばこの時、何故咄嗟に逃げようとしなかったのか。こればかりは今となっても不思議なのだが、もしかすると私は自分が思っているより酷く傷付いていて、突然現れた女がひとならざるものであれば私を連れ去ってくれて構わないし、ひとであればあったで私にはもはや先程以上の恥辱などありはしないのだから、どうにでもなればよいという、投げやりな気持ちがあったのかもしれない――

 女は紺色の着物を身に着けていた。その紺の地の上には、風に靡く夏草が描かれていた。そして細くなった緑色の草草の先端や周辺には、数匹の蛍が、淡い光を放ちながら飛んでいた。景色が夕暮れ色に染まる中、その着物の柄だけは、確かにはっきりと見えたのだ。それを目にした途端、私の注意は、突然女が現れたことから着物の柄の美しさにすっかり移っていた。夕暮れの廃社殿にいるはずが、水流の音涼やかな河原にいるかのように錯覚された。

「きみはどうして耳を塞いでいたの?」

「え?」

 女の問いは、幼い私にとっても奇妙だと思えるものであった。廃神社で上半身裸の子供が泣いているという状況で、その中の異常性をどれひとつとして指摘せず、私が耳を塞いでいたことにのみ言及したことは、それだけで彼女自身が異質なものであるということを表していた。

「どうして?」

 女は小さく首を傾げた。善悪の区別も付かない乳飲み子を思わせる、汚れを知らぬ目だった。髪はしっかりと結い上げられていたが、首元には柔らかげな後れ毛が幾筋か流れていた。

 ゆっくりと日が暮れていく。夏とはいえ、さすがに少し肌寒かった。

「聞きたくなかったから」

 私は俯いた。左手で右の肩から二の腕にかけてを擦った。そうすることで、僅かに温もりを得た。そして首を傾け、肩口に右耳を押し付けた。そこから微かに地鳴りのような音が聞こえてくる。

「きみが聞きたくなかったのは、何?」

 左耳から明瞭な女の声。見ず知らずの者に、これまで誰にも告げたことのない本心を打ち明ける道理はなかった。しかし何故だか、この問いには正直に答えなくてはいけない気がした。

「いやなこと、全部」

 口にした途端、細い指に顎を掬われた。顔を上げさせられ、女と目が合った。瞬間、私はこの女が別の人物に変わってしまったのではないかと思った。女は口元では笑いながらも、その目にははっきりと憂いを浮かべていたのだ。不自然なその表情は奇妙で恐ろしくも思えたが、しかし私はそんな女に、少なからず親近感を覚えていたのだった。

「では、私があなたの代わりに、耳を塞いであげる」

 言って女は私の腕をひくと、社殿の階段へと座らせた。女は私の脇に立つと、徐に帯を解いた。幅広の帯がはさはさと落ちていく。それを追うように細い帯紐が上に重なった。そしてはだけた紺色の長着が翻り、風を孕んだかと思うと、私を包み込んだ。体にまとわりつくように蛍が淡い光を放ちながら舞い、夏草が涼しげに揺れていた。私はこの時、美しい夏の夜を身に纏っていた。

 私は女を見た。薄い襦袢姿の女は、既に右隣に腰を降ろしていた。首筋に流れる後れ毛が、やけに目についた。

 女は腕を伸ばし、私を抱きすくめた。自然、私の鼻先が女の胸元に寄った。そこはむっと湿り気を帯びていて、濃い汗のにおいがした。しかしそれが不快であるとは感じられなかった。酸い中に微かに混じる不思議な甘さは、どこか懐かしく、私の胸を切なく締め付けた。

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