或る少年の追想―彼が如何にバランを愛したか―

 高校に入って初めての昼休み。母親がこしらえた弁当を彼が食べるのは、高校受験の日以来のことであった。

 バランとの悲願の再会。

 好男は心踊らせながら、弁当箱の蓋を開けた。瞬間、きつく胸を締め付けられるような感覚が、彼を襲った。それは、これまで彼が味わったことのないものだった。

 四方八方から胸を強く押さえられるような圧迫感。けれどそれは、決して不快ではない。

 圧迫感と同時に、内側からは泉のように渾々と何かが湧き出す錯覚。

 四肢に細い電極を埋め込まれ、微弱な電流を流されている気がした。

 全身が、中からじりじりと痺れている。

 激しい動悸は、不安から来るものではない。

 視界の中心には、緑色のライン。

 彼はそこから指で、一枚、バランを摘み上げた。

 ぬるり、付着した油で指が滑る。バランは、弁当に入っている時はいつだって白飯と揚げ物に挟まれ、その片面を油で濡らしていた。それを、好男は当然ながら知っていた。知っていてなお、油を纏って艶かしくてらてらと光るその緑色の姿が、彼には急に、許されざるものであるように感じられた。

 ――油、油、これは油だ。バランはべとつくその液体によって汚されているのだ。僕を救ってくれた美しき緑色が、このような姿であるべきではない。薄く、ざらつくその体は加熱によって劣化したサラダ油などに汚されるべきではなく、代わりに緑色の肢体を包みこむべきなのは――

「僕だ」

 彼は弁当箱の中に並べられたバランを全て指で取り出し、手の中に納めると、食事には手を付けずに、また弁当箱も開けたままに、足早に教室を抜け出した。

 廊下には、ちらほら生徒の姿がある。

 どこか、人が来ないところへ。

 そのうちに好男は実習教室棟のトイレへと辿り着いた。

 彼はそこで、バランを洗った。泡だらけにして、念入りに。

 頭の芯がぼうっとしていた。

 汚れを落とされたバランが彼の手の中にある。

「バラン……ああ……」

 うっとりと呟く。

「あ……」

 それは彼自身でも驚くほど、全く意図していなかった、明確な無意識の行動だった。

 左手が、ズボンの上から性器に触れていた。そこは既に硬く張りつめている。油にまみれたバランを清めるその過程で、彼は自分でも気付かぬうちに性的な興奮を覚えていたのだ。

 そして彼は奥の個室に入り、施錠の確認もそこそこに、ジッパーを下ろした。

 手のひらに置いた、水に濡れたバランを押し当てるように、硬くなった性器を握る。ざらり、バランの表面の細かな凹凸が、これまで味わったことのない快感を、彼に与えた。

 好男は個室の壁に背を預けたまま、夢中でバランの感触を貪った。

 これまで行ってきた性欲処理が、いかに孤独で、そしていかに作業的であったかを、彼は痛感した。

 これは単なる性欲処理――自慰行為とは明らかに違う。身の底から湧き上がる快楽は、精神の溶解であり、そして自分以外の存在との確かなる融合である。つまりは性交だ。

 彼の息が詰まり、小さく声が漏れた。

 その肩が、大きく、ゆっくりと上下する。

 性器から離した手を、蕩けた目で、彼は見た。

 手のひらに、自身の放った精がこびりついている。

 そして、その白濁を、手の中の数枚のバランが纏っていた。

 濃縮された青臭さが、鼻をつく。

 汚れた手のひらを握る。

 ぬちゃ、粘着質な音と共に、プラスチック製のそれが、ぴち、と折れる微かな音がした。

 ぎざぎざと草のように切られた部分の先端が、指の腹をくすぐる感触が心地よい。目を閉じ、そのくすぐったさにしばし浸る。

 吐精直後に襲いくる、どこか冷めたような感覚は、この時は不思議となかった。代わりに、手の中にある存在のことだけが、ただただ、頭の中にあるばかりだった。

   △△△

下腹に溜まりつつあった熱が治まるのを見計らって、好男はトイレを出た。綺麗に洗ったバランは、新しいティッシュにくるんでまた胸ポケットにしまってある。そのまま、肌身離さず、家に持ち帰るのだ。

「好男くん」

 背後からの思わぬ呼びかけに、彼は体を硬くした。女の声だ。トイレを使用する者はおろか、周辺にさえ誰もいないと思い込んでいただけに、完全に予想していなかったその呼び声は、一瞬にして好男の不安を駆り立てた。

 自分が手洗い場で何をしていたのか、知られてしまったのではないか? そんな考えが頭を過ぎる。

 動揺した様子を見せてはならないと、彼は不安でひきつる顔を何とか整えて、振り返った。

 廊下に立っていたのは、小柄で、髪をふたくくりにした女生徒。

 彼は、彼女を知っている。それも、十年以上前からだ。

「……何か用? 赤崎さん」

 声をかけてきた人物が赤崎だと分かり、好男の中の焦りや不安は、一瞬で冷めた。

 素っ気なく尋ねると、好男の心中など知らぬ彼女は、目に見えてその表情を明るくした。その頬にやや赤みが差しているのが分かる。声をかけてきたのは彼女の方からであるのに、黙ったまま、体の前で重ねた両手を、落ち着きなさげに動かしている。

 その態度が、好男を無性に苛立たせた。

「用がないなら、もういいかな」

 刺を隠さず好男が言うと、彼女は慌てて頭を振る。

「ち、違うの。ごめんなさい、用がないわけじゃないんだけど」

 回りくどい言い方だ。

 好男は内心そう呟きながら、辟易としていた。

 用があるならばそう一言言えばいい。それならば好男とて、これほどまでに不快感を明らさまに表すこともないだろう。しかし、それを彼女に期待したところで叶うはずもないことは、彼も重々承知している。だからこそ、彼女とは極力、話をしたくなかった。

「じゃあ、何」

 溜息混じりに再度訊く。

 好男は出会った頃からずっと、彼女――赤崎桃花のことが嫌いだった。

 彼女とは、保育園の時からの付き合いだ。とはいえ、付き合い、と呼ぶほどの交流もなかったが。

 初めて彼女が好男に声をかけてきたのは、好男が嫌いな昼食の時間だった。

 まだ覚束無い手つきで箸を動かし、好男は白飯を口に運ぶ。おかずの揚げ物と飯の間を遮るものはその頃まだ弁当箱の中にはなく、口の中で硬く炊かれた米粒を噛み潰す度に、時間の経過でよりくどく、そして重たくなった油の味が、舌の上にじわりと広がった。

 おかずの種類は、日によって違うが、いつも揚げ物であることには変わりない。

 その日、おかずは大きなコロッケひとつだった。勿論、そこにケチャップがかかっているはずもない。

 昼食時、好男はいつものように俯いたまま、黙ってせっせと、その惨めな弁当を片付ける作業をしていた。幼い彼は、もはやそれを食事などとは考えていなかった。

「好男くん」

 そんな彼を、そばで呼ぶ声があった。

 弁当を両手で隠すようにしながら顔を上げる。隣の席に座っていた女の子が俯き加減で、視線を好男に向けていた。

 彼女は自分の弁当を隠しもしない。隠す必要などないからだ。

 赤い、丸みを帯びた弁当箱。それを包んでいたであろう布は、流行の猫のキャラクターと共にハートマークが描かれている。弁当箱の中身は、当然のように彩りで溢れていた。ふりかけを混ぜ込んだ俵型のおにぎり。ミニオムレツにはケチャップが。サイコロのように切られたきゅうりとウィンナーは、プラスチック製の空色のピックで串刺しにされている。断面に立体的な花形のカットが施されているうずらのゆでたまご。ミートボールからは、甘いソースの香りが漂ってくる。どの子供も決して口にしないであろうパセリまでもが、好男の目に止まった。

 そして弁当箱のそばには、もうひとつ、小さな容器が置かれている。これも既に蓋が開けられており、中には小さくウサギ型に切られたりんごが二きれ入っていた。

 それらを間近で見せつけられ、彼の中でふつふつと怒りが湧く。

 好男は彼女から視線を逸し、再び弁当に手をつける。これを片付けるまでの時間が長ければ長いほど、誰かの目に触れてしまう可能性が高くなる。そんな事態だけは、どうしても避けなければならない。

「あの、あのね」

 好男が無視を決め込んだというのに、それでも彼女は横で何か言おうとしていた。

 苛々していた。証拠に、まだうまく扱うことが出来ない箸が、余計に扱い辛く感じられ、その二本の棒で飯をしっかりと掴むことも、それを簡略化して箸の上に飯を掬い載せるという動作すら、満足に出来なくなっていた。

 好男が機嫌を損ねていることは、視線を逸された時点で彼女にも分かっただろう。しかし彼女は、それでも口を噤まなかった。

「これ……好男くんに、あげる」

 彼女はそっと、俯く好男の視界に入るように、何かを差し出してきた。

 視界が急に華やかになり、好男はどきりとした。

 眩しいほどの黄色。そして柔らかな赤。それは彼女の弁当箱に入っていた、ミニオムレツだ。それを彼女が箸で摘んで、好男へ差し出している。

 思わず、好男は視線を上げて彼女を見た。はにかんだような表情を浮かべて、僅かに頬を染めている。

 顔が熱かった。

 唇が戦慄いていた。

 感情に任せて立ち上がる。

 椅子が激しい音をたてて床に倒れる。

 同時に彼女の箸を手で振り払った。

 オムレツが、机の上に落ちた。

 彼女の手を離れ、床に転がった箸が、かちゃと軽い音を立てる。

 それは怒りの突沸だ。

 見下されていると感じた。哀れみを向けられているとも。

 確かに好男は、惨めではあった。彩りのない弁当を開くのが苦痛だった。けれどその弁当は、忙しい母が彼のために作ってくれたものであることを、彼も理解していた。だから母に何も言えなかった。母に対する、そんな自分の想いすら、彼女に馬鹿にされているような気さえした。

 教室内が、しん、と静まり返った。園児たちの視線の中心には、顔を真っ赤にして目に涙を溜めた、好男の姿がある。

 そんな好男を、彼女は悲しげに見ていた。彼女の目にも、涙が溜っていた。その涙を見ても、好男の怒りは収まるどころか、余計に増すばかりだった。

 彼女が身に着けたピンク色のワンピース。その胸元には、赤いチューリップ型の名札。

 好男はそれをもぎとろうと彼女に掴みかかったが、保育士によって引き離された。

 ひらがなで書かれた彼女の氏名。『あかさき ももか』――その名前すら、当時の彼にとっては不快なものでしかなかった。

 しかし、そんな彼女への怒りは、好男の中でとうに失せていた。

 彼は自身の弁当を惨めなものだと感じなくなったし、それ以上に、バラン以外の存在全てが、彼にとってはもはや興味の範囲外だった。好きでも嫌いでも、どちらでもない。ただ、それでも赤崎に関してだけは、保育園での出来事がずっと彼の中で尾を引いたままだ。

 彼女とは、保育園から小中高と、ずっと同じクラスだった。とはいえ、児童数の少ない学区であったから、どの学年もクラスは一つしかなかったので、同じクラスになるのは必然だ。だから、嫌でも彼女の存在は好男の目に入ってきた。

 赤崎は控えめで、あまり自分の意見を述べることがない。女子の中でも最も少人数のグループに所属しているようだったが、そこでも自発的な行動は皆無で、他の女子の自慢話や愚痴に相槌を打ったり、係の仕事などを体よく押し付けられているようだった。

 そんな人物であるのに、好男に対してだけは、不思議とよく話しかけてきていた。保育園の頃に一度、それも人前で、激しい拒絶を受けたというのに、それでもなお自分に関わろうとしてくる赤崎の行動原理か一体何であるのか、好男は理解できないでいる。

「……もう行くよ」

 一向に用件を切り出そうとしない赤崎に痺れを切らし、踵を返そうとする。

「ま、待って!」

 しかし背後から腕を掴まれ、すぐに立ち止まる。それを振り払おうと、好男が一旦肘を前へ引くと、彼女はすぐに手を離した。

 再度彼女と対峙する。

「君は何がしたいんだ。僕をからかっているつもりか」

 あの日のように。そう言いかけて、やめた。

 記憶を掘り返すことで、当時の幼い怒りを再び胸に抱えることは、例えそれが一時的な感情の再現であれ、今の好男にとっては無駄なことであるように思われたからだ。

「からかうなんて、そんな――」

「じゃあ一体どういうつもりだ!」

 ぅわん、ぅわん、ヒステリックな叫びの残響が、長い廊下でしばし漂う。

 小さく舌打ちをした。

 彼女と係わると、つい感情的になってしまう自分に腹が立った。

 赤崎は、声を荒げた好男の様子に僅かにたじろぎ、困惑した表情を浮かべたが、幼い頃のように泣いたりはしていない。好男も同じだ。目に涙は浮かんでいない。

 あれからもう十年以上経っている。互いに、心身共に成長した。少なくとも、好男は成長したつもりでいた。けれど、赤崎と係わった際の自分の取り乱し様は、まるで子供か、或いは女のようだと、彼は心の中で自嘲した。本当は成長していないどころか、性根が厭らしいほどの粘着性を帯びて歪曲してしまったのではないか、とすら感じる。それが事実であるならば、自分の様は端から見れば酷く滑稽なのであろう、とも。

「……私、心配なの。好男くんのことが」

 反響によって伝わってくる、生徒たちの足音と賑やかな話し声は、薄紙を一枚被せたように遠い。

 それらの音の中で、赤崎は、ぽそりと呟いた。

「心配だって? 君が、僕を?」

 戯けたように、訊き返す。そんな好男の態度に、彼女は怒るわけでもなく、ただ、真剣な眼差しで好男を見た。

「いつも、ひとりだから。昼休みも、すぐどこかに行っちゃうし。だから、私、気になって……」

「後をつけてきた」

 好男の一言で、赤崎の視線が僅かに揺らぐ。

「違うわ、つけるなんて、そんな。私、好男くんのことが本当に心配で………」

 その挙動に、彼女は何かを隠しているのだと好男は思った。

「見たのか?」

「え?」

「僕がここで何をしているのか」

 そのストレートな問いに、しかし赤崎は目を逸すことなく、

「……見てない」

 短く答えた。

 隠し事はあるようだが、どうやら見られていたわけではないらしい。好男はそれを察知すると、途端に、彼女が後をつけていたことなど、どうでもよくなった。

 胸ポケットの上から、ティッシュペーパーにくるまれたバランに触れる。感触を堪能することは今は出来ないが、その存在を感じるだけでも、随分と気分が落ち着いた。

 好男には、バランさえあればよかった。あの緑色。プラスチックで作られた、薄く、ざらつくその肌。大小の山谷、その先端を撫でた時の、くすぐったさ。それらを思い起こすと、またすぐにでも人目のない場所に足を運んで、欲望のままの行為に及びたいという気にさえなる。

「そう。それならいい。じゃあ、僕は先に戻るよ」

 好男は口元に笑みを浮かべて、赤崎に言った。好男がバランのことを考えているなど知るはずもない彼女は、その微笑を、自分に向けてのものだと感じたに違いない。

 好男は、再び赤崎に背を向け歩き出す。もう何を言われても振り返るつもりはなかった。

「わ、私――っ」

 赤崎が、好男の背に向かって声を張った。

「好きなの、好男くんのことが……!」

 彼女の言葉が、すとん、と好男の中に収まった。

 好男への好意が彼女の行動原理だったと考えれば、彼女の全ての行為に説明がつくのではないか。好男がバランを愛し、バラン中心で物事を考え、行動するように、彼女もまた好男に好意を寄せているが故、好男のことだけを考え、行動していたのではないか。

 互いに、自らの内に秘めた情愛に突き動かされている。そう考えた好男は、初めて彼女に僅かながらの親近感を覚えた。

 彼は彼女を振り返らなかった。

 彼女もまた、彼を再び呼び止めることはなかった。

 彼女から好意を打ち明けられながら、それに答えなかったのだから、彼女との縁も、ようやくこれで切れただろう。

 そう思うと、好男の心は安らかだった。

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