その柳の下に[六章]

六、セピヤ色の罪状

 

 秦野の死を記したところで、私は手を止めた。否、止めざるを得なかった。どうしてこれ以上のことが書けようか。

 もう、傍には誰もいない。私の元に残されているのは、白木造りのちゃちな位牌だけだ。だからといって、一体これが何になろう。私が必死に文章を綴ったとて、位牌がそれを読んでくれるわけでもない。書けば書くほどに、誰にも、どこにも受け止められない虚しさが、ただただ募っていくばかりだった。だが、この虚しさこそが、私が背負って死ぬべき業であるような気もしていた。

 私が小説を書くのに用いた万年筆とセピヤ色のインクは、秦野が(恐らく坂塚に頼んで)用意してくれていたものだ。秦野の死後、彼の荷物を片付ける際、私は茶色い紙袋に入ったそれらを偶然にも発見した。

 彼がいなくなったあとになって、その周到さを知ることになり、私はひとり苦笑した。同時に、私に小説を書かせるためだけに、わざわざセピヤ色のインクを用意した彼の複雑な胸中を考えると、やりきれない思いもあった。

 だが、秦野の置き土産を見つけてすぐに、私は小説を書き始めたわけではない。彼の執念じみた熱意を受け止めながらも、しかしそれを、柳との約束を反故にする理由にはできなかったのである。

 

 それを破るきっかけが訪れたのは、この八月の初め。秦野の百か日法要の数日前のことだ。

 明け方になって、右足の内側から刃物でくじられるような激痛で、私は目を覚ました。布団の中でそれにじっと耐え続けたが、昼になっても痛みが引く気配は現れなかった。

 一向に部屋から出て来ない私の様子を、坂塚が伺いに来たのはもう夕方近くだった。

 彼によって、すぐに医者が呼ばれた。

 医者は私の足を目にするなり「切ったほうがいい。このままでは腐ってしまう」と、渋い顔をした。

「放っておけば、どうなります」

 私の問いに、彼は至って無感情に答えた。

「感染症を起こすでしょうな。酷い熱が続いて、悪くすれば」

「死ぬのですね」

「……とにかく、早く処置をすることです」

 私がそれ以上何も答えなかったので、医者は痛み止めの薬だけを置いて帰っていった。清々しいまでに清潔でいて冷徹な白衣の背中に、私は、自身の最期を見た気がしたのだった。

 痛み止めは良く効いた。その翌日から、私は小説を書き始めたのである。それはさながら、死に向かってのがむしゃらな奔走であった。

 

 執筆の手も止まり、さらには秦野の法要も無事済んだのを区切りに、私は坂塚家を出る決意を固めた。これ以上、無関係な、しかも医者によって既に死を予見されている私が、幸福な家庭の隅に居座るわけにもいかない。

 そのことを坂塚氏に告げると「行く当ては」と問われた。私は「どこへでも」と答えた。何しろ、どこへ行ったとしても、その先に待っているものはひとつだけなのだから。

 必要な物だけ持ち出せば、部屋に残された物品は、坂塚氏が処分しておくという申し出があった。私はそれをありがたく受け、数日かけて持ち出し品の選定を行って、今日になって、手ごろな肩掛け鞄(秦野が兵役の際使ったものだ)に、最低限の着替え等を詰めた。

 長く愛用してきた藍色格子の大島も、随分色が褪せてしまったものだ。鞄の中で窮屈そうにしているそれを見て、感慨深く思うと同時に、私の中の時間の滞りをはっきりと感じさせられる。畳の上に投げ出した右足がぐずぐずと鈍く痛んだ。

 思えばこの疼痛も、呪いのようなものだったのだろう。自らが無意識のうちに重ねてきた多くの罪を、死ぬまで消えぬ呪詛として、私は生まれながらこの身に刻んでいたに相違ない。

 

 準備は順調に進んだ。とはいえ、鞄に荷物を詰める以外にやらねばならぬことといえば、心の整理ぐらいのものだ。

 間借りの住処での暮らしは四年間。他の居住地に比べれば短いものだったが、しかしそれでもやはり、いざ離れるとなれば少なからず名残惜しさがあった。

 出発は、既に二日後と迫っている。

「宇都美さん」

 位牌を前に、ぼうっと考えに耽っていると、ふと、戸口の向こう側から、坂塚夫人が呼んだ。

「お客様がお見えです」

 私が応えるより、戸が開くのが早かった。視線をやると、男がひとり立っている。鼠色の背広を身に着けたその男は、五十代ぐらいだろうか。整髪料で丁寧に撫でつけられた髪には、白いものが混じっている。

「お久しぶりです」

 夫人が小さく会釈をして去っていくと、後ろ手に戸を閉めるなり、男はそう口にした。

「あなたとの再会は、いつもこの挨拶ですね。とはいっても、二度目のことですが」

 冗談めかした言葉だが、それに不釣り合いなほど表情は硬い。彼は携えたトランクを畳の上に下ろすと、私の前に膝を折り、しかし胡坐を掻くではなく、きっちりと背中を伸ばして正座した。その姿に、私はおぼろげながらも覚えがあった。

「西山……さん……?」

 その人物の名を私が口に出すと、彼の口元が僅かに緩んだのが見て取れる。

「どうして、私がここにいると」

「彼から、手紙を頂きました」

 彼、と言う時、西山の目が、ちらと文机の上に移された。そこにあるのは、白木の位牌。ああ、本当に、彼はどこまでも周到なひとだったのだ。

「自分は長くもたないから、どうかあなたのことを頼むと。手紙が届いて間もなく、亡くなったという報せを、坂塚氏から頂きました」

「……何もかも、先生の時と、同じですね」

 乾いた微笑が、口元に張りついていた。

「同じ、とは」

 訝しげに寄せられた眉根から、逃げるように視線を逸らす。畳の一部が、僅かに湿ったように変色をしている。いまだ消え去らぬ病床の名残だ。

「秦野さんは、私のせいで亡くなったようなものですから。私さえいなければ、終戦後、故郷に戻ることもできたでしょう。そうすれば、病に苦しむこともなかったはず」

「病など、どこで暮らしても、罹るときは罹るもの。誰かのせいで病になるなど有り得ませんよ」

「……昔、父に言われました。お前は疫病神だと。あれは、本当だったのではないかと思うのです。父、先生、秦野さん……きっと意識しない範囲でも、私は多くのひとを苦しめてきたことでしょう。だから……西山さんも、もう私には、関わってはいけない」

 外から流れ込んでくる汚泥の嫌なにおいが、こぼれ落ちた溜息を浚う。

「どうして、私ばかりが長く生きてしまったのでしょう。しかもまた、秦野さんに、生きろ、と言われてしまいました。これで私は、益々死ねなくなってしまった。……ですが元より、死ぬ勇気などないのです。死に方が分からないなどと恍けられぬほど、私は歳を重ねてしまいました。ナイフでも使って、この場で首を掻っ切れば、すべて終わることなのです。でも、私にはできない。先生と秦野さんから貰った『生きろ』という言葉を盾にして、私は、この足が腐り果てるまで、死に向かって、ひとりで歩き続けなくてはいけないのですから」

 遠くから鉄筋を打つ音が聞こえた。きぃん、きぃんと、鋭い金属音が、熱でだらしなくふやけた空気を突き破る。それは、今の私には縁遠いものだ。

「……少し、話をしても構いませんか」

 身動ぎする音ひとつ、彼はたてない。表情も崩さぬままだ。

「もう何十年も前の話です。ある地方に、小さな孤児院がありました。そこに、ひとりの少年が暮らしていました。親の顔を知らぬうえ、自身がどういう理由で孤児院にいるかすら、まだ判別のつかぬ幼子です。

 その孤児院に、時折ひとりの男性が訪れることがありました。当時まだ珍しかった洋服を纏い、手にステッキを携え、顎にはたっぷり髭をたくわえた人の良さそうな老紳士です。職員の話には、彼は孤児院の創設者なのだということでした。

 彼はいつも、少年を含めた孤児院の子供たちに金平糖をくれました。いつもにっこりと笑顔を浮かべて接してくれる彼を、子供たちは『おじいさま』と呼び、慕っていました。少年は家族というものを知りませんでしたが、彼のことは、本当の肉親のように思っていたのです。その腕に自分が抱きあげられれば嬉しかったし、他の誰かが抱きあげられるのを見れば、幼い嫉妬心に駆り立てられました。

 孤児院では、子供たちが畑を作り、できるだけの作物を自分たちで育てていたのですが、少年はそういった畑仕事に、誰よりも力を入れました。そうすれば、彼に褒めて貰えると思ったのです。子供同士で喧嘩が起こっても、少年はどちらにも加担せず、それを静かに諌めました。揉め事が頻発すれば、『おじいさま』がここを見捨ててしまうのではないかと、幼心ながら危惧したのです。

 少年の願望は、ある時唐突に叶えられることになりました。少年が七つの時です。彼が、孤児の中からひとり、養子を取るということになったのです。孤児院職員が、子供たちの日頃の素行を踏まえて熟考した結果、養子として選ばれたのはその少年でした。

 ……しかし、先に結果を言ってしまえば、少年は結局彼の養子にはなれなかったのです。彼の親族が、土壇場になってから酷く反対したのだとか。ですが、今更孤児院に戻すこともできまいと、少年は仕方なし、東京にある彼の屋敷で暮らすことになりました。

 彼には、息子がひとりいました。少年とは一回り以上歳が離れていて、若くして作家として身を立てておいでの方でした。少年が屋敷に来た時には、既に身を固めておられたのですが、しかしこの跡継ぎ夫婦の間には、子がありませんでした。養子を取るという話が持ち上がったのは、そのためです。

 少年はこの家の援助を受けながら、学校に通うことになりました。彼は、少年が十四の年に亡くなりましたが、息子夫妻は少年を追い払うことはしませんでした。

 そうして大学まで出た少年は、作家である御当主の斡旋で、出版社に編集として勤めることになったのです」

 彼の声色に、表情に、滲んでいるのは、間違いなく幸福の色であった。それらから、この昔話が他ならぬ西山の半生であることが知れた。

「……先生と西山さんとは、長いお付き合いだったのですね」

 確認の意を込めて尋ねたつもりだった。だが、その言葉に棘が立った。自分は柳のことを本当に何も知らなかったのだという哀しみと、それを西山だけが知っているということへの醜い嫉妬とが、無意識に言葉に内包されてしまっていた。

「私は幸福でした。孤児院育ちの私が、このような恵まれた環境に身を置けるなどと、夢のようで、いつか覚めてしまうのではないかと、怯えたこともあります。いえ、本当に、夢だったのかもしれません。それも、分不相応の」

 続けた彼の表情に落ちた陰は、しかし、私が放った棘が負わせた傷によるものではなかった。彼を傷付けるほどに、私の棘は鋭くもなければ、硬くもなかったのだ。

 私には彼の気持ちが痛いほどに理解できた。彼が身を賭したその幸福は、かつて私が柳との暮らしの中に見出したかったものと同一なのである。

「ですがそれらはすべて、あの地震によって狂わされてしまった。しかし、あの地震がなければ、あなたも、先生に出会わなかったでしょう。それとも、別な形で出会っていたのか……もっとも、そのようなこと、神でもなければ判りませんが」

 陰の中に、冷笑が落とされる。私の首筋には、じっとりと汗が張りついていた。右足がまた疼いている。

「あの地震の時、私は既に屋敷からは離れ、下宿でひとり暮らしていました。ですから、私が屋敷に駆け付けた時、既に屋敷は跡形もなく崩れ落ちて、あちこちに残り火がちらついているばかりだったのです。先生は、庭の中ほどで倒れておられました。着物の袖を酷く焦がしておられたので、命からがら逃げられたのでしょう。

 奥様は、亡くなられました。屋敷の下敷きになり、火にまかれ――」

 握り締めた手。指先に、火傷の痕の感触が思い出される。引きつり、異様に膨れ上がったその部分。露出した肉色が視覚に与える、圧倒的な不安。

 火傷を負った理由は、元より本人から知らされていた。だが、西山の口から語られる詳細は、私に僅かな嫌悪をもたらした。柳の火傷は、妻を助けんとして負ったものではないのだろうか。そういった、もはや確かめる術もない憶測が、密かに私を苦しめた。

「屋敷で亡くなられたのは、奥様だけではありませんでした。当時、奥様の姉君が、屋敷に滞在しておられたのです。その方は、東京の御実家から、遠く群馬の山間にある湯治場街に嫁がれておいででした。その家の若夫婦と揉め、家を追われて、仕方なし東京の妹君の元へ身を寄せていたのです」

「……それは私の祖母、でしょうか」

 確信があった。彼は頷きをもってそれを肯定した。

「亡くなられる前、私も何度かお会いしましたが、ずっとあなたの身を案じておられました。……御存知だったのですか」

「いえ……、ですが以前、写真で奥様を拝見した時、祖母によく似ていましたから。もしかすると、とは」

 これまで私が抱いてきた数々の憶測に対し、今になってようやくその正しさを突き付けられていた。柳が感じていたであろう、宇都美への義理。その正体は、恐らく、自身の屋敷で祖母を死なせたことによるものだ。

「……祖母も、私のために命を落としたようなものです。祖母は、家にとって役立たずの私を、いつも庇ってくれました。そのせいで、家族から疎まれてしまったのですから……私がこの手で殺したも、同じです」

 口元に自嘲の笑みが浮かんだのが分かった。西山は、ひとつ溜息を吐く。

「順二郎さん、ご自分を責めるのは、もうお止めなさい。それでは、あなたを守ろうと身を挺したお祖母様が浮かばれないでしょう。それに、もはやすべて過ぎたことなのです。何もかも」

「過ぎたこと……。そう、かもしれません」

 祖母の死が明かされ、柳や秦野も既に故人となっている今、現実として私の元にあるのは、それらの事実だけだ。

 だからといって、誰かの死をもって物事に見切りをつけることなど、到底できかねた。何しろ、私はこうして、生きているのだ。生き続ける限り、終わりは決して訪れはしない。生者は、死を引きずりながらも、自ら死に向かわねばならない運命を背負わされているのであろう。

 ――だが、他者のこういった考えも、西山にとっては、苦々しげな顔で一蹴したくなるような妄言なのかもしれない。

 表面上は肯定したが、その実、やはり過去に囚われたままの私の内心を、どうやら彼は見透かしていたらしい。

「あなたが護りたいものは、護っていればいい。私が話しているのは、あくまでも私の昔話ですから。決して、あなたの過去を汚したいわけではないのです」

 突き放すような言葉は、しかし冷酷さを湛えてはいなかった。

「震災で奥様を亡くされてから、先生は変わりました。癇癪が酷くなったのもその頃からです。塞ぎ込むことも多くなりました。それまでは彩り豊かで鮮烈な印象ばかりが目立った作品にも、鬱屈とした空気が漂い始めたのです。同じ頃、先生はあなたと出会った。そうして、逗留先の宿を訪れた私に、先生は仰いました。『順二郎を養子にする』と」

「養子? 養子ですって?」

 耳を疑いたくなる事実だった。

 

 

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