その柳の下に[五章]

五、柳折る

 

 ふたり以外のすべてを排除した部屋で、最後の数か月を共に過ごした私たちは、この時、身体だけは紛れもなく同一のものと化したように思う。互いに熱を奪い、与え合う。柳が望んで始まるこの行為は、既に私の望みでもあったから、相互的な体熱の送受自体――例えこれが表面的な交合であったとしても――禍福であったといわざるを得ない。

 この間、私たちの交わりは、毎夜のことであったように思っていたが、あとになって考えてみれば、最初のうちにたった数度だけあったことのようにも感じられた。熱の奔流に身を任せるうち、胸に秘めた切なる願望より出でた夢想に囚われていたのかもしれない。

 共に過ごす中、柳は一切外出をしなかったが、代わりに書斎で熱心に書き物をしていた。彼は作家だから、それは自然な姿だ。彼が幾度となくペンを走らせている姿を、私は見ている。だからこそ、却ってこの違和感に気付いたのだろう。

 外に出るでもないのに、わざわざ身に纏った背広――これは、彼が私を納屋から救い出してくれたあの日と、同じものであった気がする――椅子に浅く掛けた鼠色の背は、まるで軍人のように、ぴんと真っ直ぐに伸ばされていた。彼がこのまま、遠い戦場に赴いていくような気がした。さらには、彼が熱心に書き記しているものが、亡き妻に向けた恋文であるようにさえ思われてならなかった。

 私の視線は、鼠色の重厚な壁によって跳ね返された。それが刃となって深く胸を穿ち、耐え難い苦痛を私にもたらした。

 だから柳が書き物をしている間は、窓の外を眺めることにした。本を読むことは、憚られた。柳に訊けばどう答えたかは判らないが、きっといい顔はしなかっただろう。読むことは、書くことに繋がる。恐らく彼は、それを厭ったはずだ。

「庭を観てもいいですか」

 食事の際、私が伺うと、彼は暫し黙り込んでから「よい」とだけ答えた。その視線は、私と合わさることはなかった。

 そういった経緯から眺めだした窓の外で、庭の木々は、日々その色を変化させていった。蝉の大合唱の中、様々な濃さの緑が、じりじりと陽光に照らされて、白く輝く。それらは次第に黄色へ、赤色へ、茶色へ、色を変え、赤蜻蛉があちこちを飛び始める。冷たい北の風が吹き始めると、色づいた葉は、池の水面を鮮やかに飾った。そのほとりで松だけが、夏と変わらぬ針様の細い葉を、複雑にくねらせた枝の先に茂らせている。

 私は、色彩鮮やかに変化する楓や欅の葉よりも、色の変わらぬ松の葉を好んで眺めた。かといって、松葉の緑も不変ではない。時が経てば、古いものから赤茶色に枯れ果てて、ぱらぱらと地に落ちていく。枝のあちこちに、常時その片鱗は窺えた。松のそういうところだけは、あまり好きではなかった。木々に訪れる変化の先に待つものが、酷く恐ろしく感じられたからだ。だから私は、そういった気配からも、なるだけ目を逸らすように努めていた。

 松を除いた庭の木々が、すべての葉を落とした頃だ。朝晩は、随分冷え込んでいた。私は変わらず窓辺で長い時間を過ごしていたが、そこで吐く息はもうすっかり白かった。

 窓硝子も大概曇っていた。それを手のひらで拭えば、たちまち細かな水滴がいくつかの大きな滴となって、窓枠へとしたたり落ちていく。

 木製の窓枠に水滴が溜まっていくことは、あまりにも当然で、私も特に気に留めることもなかった。だのに、どうしてかあの日ばかりは、それが無性に目について仕方なかった。

 水滴は、初め、窓枠の上でぷっくりと丸っこい塊になる。透明なその塊の中で、細やかな水の流れが生まれているのを、私は認めた。狭い中で、水がぐるりと回っている。次第にそれも収まっていく。そのうちに、窓枠に接した部分が、ふっと張りを失って、じわじわと木質の内に染み込み、消えていく。そこをひとさし指の先で撫でる。湿った窓枠に触れた指先は、黒く汚れた。鼻を近付ければ、僅かに黴臭い。窓硝子はまた曇りだしている。私が再び手のひらで拭う。繰り返し、繰り返し。

 これは精神的限界の兆しであったのかもしれない。何せ、裏庭はすっかり冬の装いで、景色に色艶が無く、唯一の彩りである松すらも、どことなく色褪せていた。庭には、もはや私が目を背けたがったものだけしか存在していなかったのだ。

 私が水滴を弄んでいる窓辺には、隙間から北風が流入した。着物の上に綿入れを着込み、股引を履いていても、冷たい隙間風は鋭く身を切った。東京の寒さなど、故郷の冬の比にもならないはずだった。池に氷が張ることは滅多になく、何より雪が殆ど積もらない。だから、私は寒さには強いつもりでいた。しかしどうしたことか、窓枠の水滴が気になったこの日だけは酷い寒さを感じ、右足が絶え間なく、内側から鈍く痛んだ。風が強く吹く度に、硝子が割れそうなほどに窓が揺さぶられていた。

 柳がペンを走らせる音だけが、やけに大きく響く。頭の中に、何かを直接書きつけられているようだった。そうして記されるのが、別離の言葉であるように、私には思われてならなかった。

 不意に、ぴし、と指先に痛みが走った。見れば、窓枠から剥がれたごく細い木の棘が、右手人差し指の先に、深く突き刺さっている。それを抜こうと、左の指で摘まもうと試みるが、もし折ってしまったらと恐ろしく、なかなかに叶わない。押せば出てくるのではないかと、今度は棘の刺さった指の腹を押さえてみる。しかし、赤く膨れた指は、棘を内包したままただ痛むだけだ。

「……何をしているんだい、順二郎」

 呼びかけに振り返ると、柳が椅子の上に横向きに掛け、視線を寄越していた。

「ご、ごめんなさい」

 自分の動きが、気付かぬうちに彼の気を散らしていたのかもしれない。そう思うと、口をついて言葉が出、頭が下がる。

「その、たいしたことでは――」

 申し訳なさで縮こまっていると、柳は立ち上がり、こちらに寄り、私の右腕を取った。

「棘が刺さったのだろう」

 指先を見るなり、彼は目ざとくそれを発見した。そのことに、焦りを感じる。まさか、些細な傷を彼が見つけるとは思いもよらなかったのだ。思わず、右腕を引く。

「自分でできますから」

「途中で折れたらどうする」

「本当に、先生」

「見せなさい」

 強く命じられれば、もはや抗えるはずもない。私はおずおずと彼の前に手を差し出した。

「深いな」

 柳は呟くと、部屋から出ていって、すぐに縫い針を片手に戻ってきた。再び私の指を摘まむと、徐に針先で棘の刺さった傷口を抉る。鋭い痛みに身が竦んだ。棘が掻き出されると、途端に赤黒い血液がぷっくりと溢れ出す。血の玉はあっという間に大きくなって、つう、と垂れ、柳の指を僅かに汚した。

「ああ」

 いけない、と、手を引こうとした。が、柳は逆に私の手のひらを掴んだ。柳の横顔を見やる。彼は顔色ひとつ変えず、さも当然のように、傷ついた私の指を口に含んだ。背筋が震えた。傷口に、舌が触れる。その動きは、初めは指の腹全体を覆うように、そして次第に傷口を丹念にくじるようなものへと変わっていく。

 もはや痛みなど感じなかった。口腔や舌の心地よい温かさ、指の腹を掠める歯列の硬さ、指を挟む乾いた唇……そういったものが、細い神経の内を洪水のように駆け抜け、私の全身を甘く痺れさせた。自分の口からこぼれる吐息は、場面も弁えず、よからぬ期待に熱くなっていた。

 指から唇を離すと、彼は自身の指に付着した私の血液を、事もなげに舐めとった。たった今まで、私の傷口に這わせていた舌で、だ。心臓を、雁字搦めにされた心地だった。耐え切れず、私は彼に縋りついていた。

「これで傷もすぐに癒えよう」

 柳は、そんな私の頭をそっと撫でただけで、すぐにまた元のように机へと向かった。その背が、ずっと遠い場所にあるように見えて、私は暫く、彼の背中から目を逸らすことができなかった。

 ――この時、私が本当に柳に気付いて欲しかったのは、指先に深々と刺さった棘ではなかった。傷口よりも、更に深く、暗い地の底に届かんばかりに抉れた、胸にぽかりとあいた虚穴にこそ、彼の心血を溢れんばかりに注がれたかったのだ。私が送る目線の内から、言葉の端から、指先の感触から、彼が私の想いを汲み取ってくれないのならば、この場で、胸を縦一文字に切り裂いたって構わないと思った。そうして両の手で肉を捲り、肋骨を割り開き、そこに眠らせた私の秘めたる心を露にできたなら、私は声の限り叫んだことだろう。「本当に癒して欲しいのは、ここなのです」と。しかしそういった切なる願いも、当時の私には、自身が抱えた虚の中へと押し隠すしかなかった――

 向けられた背に未練を抱きつつ、私は再び、窓の外をひとり眺めた。窓の縁には触れぬように、曇る硝子を時々拭う。静けさの中、ペンが紙の上をするすると走る微かな足音。それによって脳裏に浮かび上がったセピヤ色の軌跡が、絶え間ない哀切の痺れを私に与えたのだった。

 

 この晩の柳は、驚くほどに穏やかな様子だった。風呂上りに寝間着に着替えた時には、既に彼の表情に厳しさは一切なかった。湯あたりしたかのように紅潮した頬を緩ませ、私を寝室へと誘ってきたのだ。

「順二郎、今晩は共に眠ろう」

 柳の部屋に移ってから、私たちは、広いとは言い難いひとつのベッドを共有していた。彼はこの晩、わざわざそう口にしてから、私の右手を取り、腰を抱いて歩みを促した。杖を用いずとも、寝室と書斎間の移動ぐらいならば、彼の補助で事足りるので、これはもはや互いにとって、日常における些末な動作のひとつに違いなかった。だが、この時ばかりは、もっと新鮮で、どこか非日常的な、特別な感じを受けたのである。

 それが一体何であったか。当時の私は、追及を避けた。否、その正体を見極めようとする気すら湧かなかった。その心地よい違和感は、懐古の念であると思い込んでいたからだ。書斎から寝室までの距離は、幼い頃彼に手を引かれて歩いた、納屋から神社までの道のりを想起させ、私の心を弾ませた。

「先生、眠るまで少し、お話をしませんか」

 寝床に入ったものの、私の目はらんらんと冴えていた。布団がすっかり冷たかったせいもあるかもしれない。明かりのない部屋の中、ベッド上で、仰向けになった柳の方に身体ごと向いて、私は彼にそう強請った。普段なら、口が裂けても言えるはずのない言葉だったと思う。私から、彼に何かを望むなど、私の立場上あってはならないことだ。だが、この晩の私は、そのような道理も忘れた、ひとりの無邪気な幼子であった。

「うむ」

 短い返答を寄越して、柳は暫く黙った。そのうち、ゆっくりと私と向き合うように身体を転がした。

「今日はやけに冷える。私たちが出会った時も、寒々とした冬だったが、あの日ばかりは陽が差して、にわかに暖かい日だったね。格子窓の内側から外を覗いて、冷気を裂いて届く僅かばかりの暖かさを、幼いきみは必死に享受しようとしていた……」

 彼の口から語られる思い出話に、一抹の感動が胸に宿った。私との出会いを、彼が心に留めてくれている! これは、他人にしてみれば些細な、しかし私にとっては極めて重大な事実であった。

 彼が私に亡き妻の姿を重ねていて、それが私への好意の裏にあったとしても、この出会いの記憶だけは、彼と妻とのそれでは有り得ない事柄だと知れたからだ。彼の妻が狭小で埃にまみれた暗い納屋に閉じ込められているはずなどないのだから、私は、少なくとも彼と出会ったあの瞬間だけは、彼にとって紛れもなく宇都美順二郎というひとりの人間であったのだ。この事実さえあれば『今後も彼をのみ信奉し続けることこそ、人生に於ける十二分なる幸福である』と、自身を欺くこともできるだろうと思われた。さらに、暗い寝室の中で手さぐりに私の頭を撫でた彼の手のひらが、私を余計にも自己欺瞞の淵へと追いやった。

「あれから、もう何度目の冬になるだろうか……。順二郎、きみは今年幾つになった」

「十七です」

「十七」

 事もなげな私の答えを、彼は口の中で転がすように反芻した。

 十七の青年と老齢の男が、ひとつのベッドを共有して眠ることが異常であるなどと、本来ならば誰が教えずとも、理解していて然るべきである。だが、親から愛されぬままひとり納屋で暮らし、その後の殆どの時間も柳の屋敷の中で過ごしてきた私には、それに対して正常だの異常だのという意識を抱くことはなく、単なる日常の一部としか捉えていなかったのだ。さらに、そもそもこの生活そのものが、柳の望んだことでもあったので、私にとって元より疑問を挟む余地など存在しなかった。

「……年が明ければ、きみはもう十八歳だ」

「はい」

「成人する日も近い」

「そうでしょうか」

 成人、という言葉には、現実感が全く伴われなかった。それまで世間と殆ど関わってこなかったためか、或いはそれが柳との生活に必要のない概念であったためかもしれない。成人したところで何が変わるとも思えなかった。私にとって変化の指標となるものは、柳の存在そのものであって、それ以外に何が起ころうが、柳の傍に居続けられる限り、それは不変の生活に違いないのである。

「そうだとも。遠からず、きみは成人する。だから、このままでは駄目なのだ。これから先は、成人男子として相応しい生き方を身に付けなくてはいけない。そのために、さらに多くのことをきみは自ら学ばなくてはならないのだよ」

 自ら。この一言は、厚い雨雲の如き不安として、私の胸を覆った。

「生き方であれば、先生にもう教えていただきました。好奇心を持って物事を強く求めること、そして、よく動き、感覚を研ぎ澄ますこと――」

「順二郎」

 彼の手のひらが、頬に触れた。指の冷たさが、私の口を塞ぐ。

「生き方には、これまで教えなかったことの他に、重要なことがもうひとつある」

 胸の中で、雷が低く唸っていた。稲光が走り出すのも、間近と思われた。雨が降りだせば、それは胸にあいた虚穴を哀しく濡らすであろう。両手で耳を塞いでしまいたかった。雷の気配を遠ざけ、雨から逃れたかった。だが実際そうしなかったのは、柳がそれを望まないだろうと察していたからに相違ない。

「死を見つめること。……それが生き方の最もたるものだ、順二郎」

「先生」

 私は、頬に触れる柳の腕に縋りついた。私の十指に、両手のひらに、引きつった肉の感触があった。幼い私が恐れた、痛々しいほどに膨れたその部分。以前私がそこに触れた時、私のことが恐ろしいと、彼が漏らしていたことが思い出された。

「……一度、自らの意思で死を遠ざけたきみに、もはや何も恐れることなどないのだよ、順二郎」

 彼の言葉から導き出されたある逆説が、私の脳裏を過った。その感覚は、あとになって思えば、一種の予知のようなものであった。

 私は手足を小さく縮こませ、身体を丸めた。

「よく眠れるように、楽しい話をしてやろう」

 きつく目を閉じた私の背を、柳が優しい手つきでさすった。

「春になったら、桜見物にでも行くといい。名所でなくたって構わない。どこかの温泉街に、例えば熱海だとか、そういったところで暫くゆっくりしている間に、近くでぽっつりと咲いている桜を探して、のんびり眺めるのもいいだろう。梅雨になれば、鎌倉の紫陽花寺も風情があって見るに飽きん。夏は――」

 彼が語る、人物不在の小旅行。この夢想は、私が抱いた無意識の未来予知に、極めて現実的な説得力を与えていった。

 背中に感じる彼の手のひらの感触ばかりを追っているうちに、私はいつの間にか眠ってしまったらしい。朝方目覚めた時、ベッドの隣は空っぽで、すっかり冷え切ってしまっていた……。

 

 柳の姿が見えないことに不安を覚えながらも、しかし彼を求めて部屋から出ることなどできなかった。書斎の窓辺で、私は柳の帰りを待った。夜の間に、雪が降ったらしい。松葉が薄らと淡く白を冠していた。

 暫くそうしていると、廊下から騒がしい声と足音が聞こえてきた。ひとり分のそれではない。椅子から立ち上がって杖をつくと、書斎の扉が叩かれると同時に開かれた。現れたのは、はる恵と秦野だった。はる恵は青ざめた顔で私を見るなり、ものも言わず俯いた。その後ろで秦野もまた、私から目線を逸らし、口を堅く引き結んでいた。

 ふたりの表情から、尋常ならざる事態が起こっていることは、察しがついた。だからといって、それが一体何なのか判るまでは、柳の意思に沿った言動を崩すわけにはいかなかった。

 秦野は、屋敷を訪れることを禁じられていたはずだ。そんな彼をあろうことか柳の書斎に踏み入らせるなど、あってはならないことである。

「はる恵さん、このようなこと、柳先生がお許しになりません」

 私ははる恵に、きつい口調で言い放った。しかし彼女は、何事か言いかけたかと思うと、すぐに口を噤んでしまった。その態度に、蝋燭の火の如きささやかな怒りが、ぽっ、と腹の中に宿るのを感じた。

「秦野さんは、先生に招かれてこちらにいらっしゃったのですか」

 はる恵の態度に業を煮やした私は、秦野へと矛先を向けた。しかし彼もまた、黙ったままだ。耳が痛くなるほどの冬の静けさが、場を支配していた。

「おふたりが何も仰らないのであれば、結構です。ぼくが先生に直接伺いますから」

 杖が床を叩く音が静を遠ざけた。私がふたりの前に立つと、はる恵はすぐ脇に避けたが、秦野は部屋の出入り口に立ち塞がり、行く手を阻んだ。

「通してください」

 彼の傍を通り抜けようと試みる。だが、強い力で肩を掴まれた。

「駄目だ」

 冷徹な一言が、私の胸を矢のように射た。

「離してください、ぼくは」

 肩を掴まれたままもがく。不意に杖を取り落とし、その場に倒れ伏した。

「順二郎くん」

 秦野が私を助け起こそうと身を屈める。

「通して、離して、秦野さん、お願いですから」

 彼の腕に縋りつく。背後で、はる恵がこぼした嗚咽の理由を、考えたくもなかった。

「駄目だと言っている。少し落ち着け」

 私の腕を引き剥がす彼の瞳の奥底が、どんよりと暗く揺らいでいる。その不吉な色の意味を、私は知りたくなどなかったのだ。

「嫌です、ぼくは今すぐ、先生にお会いしなくては――先生、柳先生……!」

「順二郎!」

 廊下に向かって叫ぶ私の頬を、秦野が打った。瞬間、不安や焦燥といった、私を取り巻いていたもののすべてが、乾いた音と共に虚空へと散った。熱を帯びた頬が、私の目を見開かせる。それを、秦野が真っ直ぐに見据えた。

「先生は、亡くなった」

 感情を殺した抑揚のない声。私が最も恐れていた言葉だった。はる恵がその場に崩れ落ち、声を上げて泣き出したことは、彼の言葉に真実味を与えた。

「何故」

 私は震える声で、そうこぼすのが精いっぱいだった。

「今朝、自ら命を絶たれたのだ」

「何故……」

 ただ呆然と繰り返す私の肩を、秦野が抱いた。それに対して何の感慨も沸かなかった。衝撃と悲しみに打ちひしがれていると思われたらしかった。だが、実際はそうではない。私は、悔恨の渦にのまれていたのだ。柳の言動への違和感から、彼の自殺を予測し、止めることが何故できなかったのか。彼の精神をそこまで追い立ててしまったのは、他ならぬ私なのではないか――。

『お前はとんだ疫病神だ』

 渦の中から、ざらりとした耳触りの、呪いの言葉が響いてきた。はっとして、顔を上げる。廊下の真ん中に、もはや忘れかけていたはずの父親の幻影が、憎々しげに顔を歪め、佇んでいた。その姿と言葉は、即ち、許されざる私の罪の体現であった。

 

 昭和三年十二月。私の恩人・柳肇は、誰にも見送られることなく孤独に逝った。

 屋敷の門柱の傍らに佇む柳の木の幹にもたれかかっていた彼の身体には、薄らと雪が積もっていたという。

 

 

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