その柳の下に[三章]

三、柳煙

 

 六月のあの夕暮れから、私たちの関係は、少し変わってしまったように思う。それはもしかすると、神保町からの帰路の途中(恐らく、私が柳の腕に縋った瞬間に)薄暮に棲む魔物が、私たちの心に入り込んでしまったせいではなかろうか。

 以来、柳は私によく触れてくるようになった。屋敷内で杖をついて歩いている際でも、私の手を取ろうとする。背を支える。また幼い頃のように、私の頭を撫でることもあった。

 そして私も、これを手放しに喜んだ。心の底から幸福だとも感じていた。差し出された彼の手を迷わず取り、進んでその胸に身体を預けた。

 私がそうしていれば、柳は穏やかな笑みを絶やすことがなく、また、癇癪を起こすこともなかった。

 屋敷の中で、女中の目を盗んで繰り広げられるこの光景は、端から見れば間違いなく異様なものだっただろう。親子ほどに年の離れた同性の私たちが、恥を知らぬ恋人同士のように身を寄せ合っていたのだから。

 私たちは当然恋人同士などではなく、それどころか互いの心内さえ明かしていないにも拘わらず、ぴったりと身を寄せることで無上の幸福を得る、この異常な行為に夢中になっていた。これが心に巣食った魔物の仕業でなく、一体何だというのだろう。

 七月になっても、私たちの心は魔に囚われたままだった。

 蒸し暑い夜のことだ。この頃私は、日中だけでなく、就寝前にも柳の私室に入り浸るようになっていた。とはいえ、特段変わったことをするわけでなく、いつものようにソファに腰掛け、机に向かう柳の背を横目に、本を読むだけだ。

 しかし、その夜は少し違っていた。私が部屋を訪ねた時、彼はソファに腰を下ろしいた。目の前のテーブルには、濃緑の大きなボトルと脚の長いグラスが並んでいる。

 グラスは深い赤をその内に湛えていた。それが葡萄酒であると、私にはすぐに判った。いくつかの小説の中で、主人公が同じ物を飲んでいるのを読んだことがあったのだ。

 柳の顔はやや赤らんでいた。既に酒が入っていたのだろう。彼が酒を飲んでいる姿を目にするのは初めてだった。部屋の入口辺りで私が戸惑っていると、彼が手招きをして呼んだ。

 彼の隣に掛け、杖はテーブルの端に立てかける。革張りのソファが、ぎゅうと音を立てて沈む。柳はそれを満足そうに見届けてから、葡萄酒が入ったグラスに口をつけ、傾けた。彼の痩せた細い喉が上下し、深い赤を飲み下していくのを、私はただじっと見つめた。

「昼間、橘川夫妻が来たよ」

 テーブルの上にグラスを置くと、彼はそう話の口火を切った。

「橘川くんはいつものように他愛もない話だけをして帰ったのだがね。しかし、今日は細君から良い話も聞けたよ。彼女が言うには、最近、モガというものが流行っているそうなのだ」

 世間の流行など、私にはほとほと縁遠いものだ。何せ、一日の殆どを室内で過ごしているし、外出先もジュリエッタぐらいなものだ。雑誌を読むことはあるが、目を通す目的はそこに掲載されている小説ばかりだった。

「モガ、ですか。どんなものでしょう」

「髪を短くし、洋服を纏い、洋風な化粧をした女性のことらしい。どうも流行に疎くなってしまったようだ。私もまるで知らなかったよ」

 柳の言葉に、橘川の細君を思い出す。彼女は確か断髪に洋装だった。橘川夫妻は、数年間英国に住んでいたことがあるという話だから、そのために珍しい断髪姿なのだろうと思っていたが、なるほど、あれが巷で流行の格好なのだろう。

「それはともかくとして、橘川夫人は、モガの間にこれから『ビソウジュツ』というものが流行ると予見していて、それをひとつ、商売にしようと目論んでいるそうだよ。きみは『ビソウジュツ』と聞いて、これがどういうものか分かるかい」

「ビソウジュツ……ですか。いえ、分かりません。どういう字を書くのですか?」

「美しい爪のための術と書く。ヤスリなどで爪の形を整えたり磨いたりする、美容術の一種だ」

「そのようなものがあるのですね」

 目の前に両手を広げてみる。血色の悪い皮膚の色。折れそうなほど細い、力仕事をまるで知らぬ十指。爪は物心ついた頃からずっと白い。こんな爪でも、磨けば少しはましな見栄えになるだろうか。

「爪を美しく見せるための術は、もともと日本にもあったのだ。鳳仙花の花弁を押し潰し、色止めのミョウバンを加えて、その液に絹を浸し、それでもって爪を何度も丁寧に磨きあげると、爪は見事に紅く染まる。爪紅と呼ぶそうだよ」

 柳は、ボトルからグラスへ葡萄酒を注ぎ、一気に煽った。

 グラスの底がテーブルを打つ。柳の口の端から、僅かに葡萄酒がこぼれる。濃い赤の滴は手の甲によって乱暴に拭われた。

「きみは」

「……あ」

 柳が私の左手を取った。手のひらで包み込むように、私の手の甲を撫で、そして親指の腹で、私の爪に触れる。彼は一心に、そこを凝視していた。熱を帯びたその表情に、私は目を奪われた。

 血が沸いていた。心臓の鼓動が大きすぎて、このまま身体が張り裂けてしてしまうような気さえした。

 頭の中が、ぐずぐずと溶けていくようだった。私は、ついに自分は狂ってしまったのではないかと思うに至った。

「きみは肌が美しく白いから、きっと、紅色が鮮やかに映えるだろうね」

 柳の声が、まるで水を吸った綿のように膨脹していく。やがてそれは境界を失い、私の耳の奥にぴたりと張りつくと、たちまちずぶずぶと脳髄を侵していった。

 美しい、美しい、美しい――。

 ただ血の気のないだけの皮膚を褒め讃えた彼の一言によって、自然背筋が甘く痺れる。目が潤み、視界が滲んだ。胸の奥が切なくて堪らなかった。

 薄く唇を開く。声を出そうとしたが、うまくいかない。こぼれるのは吐息ばかりだ。しかし声を発することができたとしても、紡ぐべき言葉は見つからない。そのことを認識すると、途端懐かしい歯がゆさに襲われた。この心象を的確に表す言葉を、私は持ち合わせていなかった。

「……庭に」

 戦慄く唇が沈黙を破った。

「鳳仙花なら、庭に」

 自室の窓から見渡せる庭の花壇に、鮮やかな紅色のそれは、間違いなく咲いていた。彼が故意に植えさせたものかどうかは、知る由もない。

 庭にある鳳仙花の存在を認知しており、さらに、それをあえて彼に伝えることの意味を、私は恐らく、理屈ではなく感覚的に理解していた。

 柳が私の頭を撫でる。そうしてすぐ、私を残して部屋から出て行った。

 部屋をあとにする彼の背に、かけるべき声などなかった。目的を達せば、すぐに戻ってくることが分かっていたからだ。

 だとしても、興奮状態の私がひとりきりで彼の帰りを待つには退屈が過ぎた。持て余した手で、ほんの少しだけ、葡萄酒をグラスへと注いでみる。

 揺らめく濃い赤は、鳳仙花の花とも、血の色とも違う。けれど私には、これこそが私の血液であり、また柳の血液でもあり、さらには鳳仙花の花弁でもあるように錯覚された。狂気でしかないその思考が、興奮をさらに掻きたてる。

 グラスを満たす液体を口に含み、舌の上で転がす。口腔内に、極細の棘が刺さるような、ざらりとした渋み。飲み下すと、身体の内側から密度の高い熱が湧き上がった。初めて味わう高揚感に、うっとりと瞼を閉じる。このまま眠ってしまいたいと思った。目覚めた時、すぐに柳の顔が見られたら、とも。

 眠気によるものなのか、それとも、生まれて初めて口にしたほんの少量の葡萄酒が私を酔わせていたのか。とにかく、それからの私の意識は酷く朦朧としていて、霞がかかったような記憶しか残っていない。

 柳が部屋に戻ってきた時には、どこから持ち出してきたのか、手にした乳鉢の中で既に鳳仙花の花弁が擦り潰されていた。乳白色の器の中に、それとは対照的な鮮やかな紅色が広がっている。

 紅色を布に染ませ、彼がそれを私の爪一枚一枚に、丁寧に塗り込んでいく。布が爪を擦る感触は、どうにもくすぐったく、私は終始、くすくすと笑い声を上げていた。

「ああ、美しいね、順二郎。私が思った通りだ」

 明瞭でない視界の中で、紅を施された十枚の爪だけが輝いて見えた。元が白く艶のない爪だったとは思えないほどの変わり様だ。

「宝石のようです」

 こぼれ落ちた溜息が、酷く熱っぽかった。

 実際に宝石を手にしたことなどない。だが、宝石というものは、きらきらと輝き、艶があり、美しく、見る者を惹きつけるものだということだけは、様々な本から知識として得ていた。だから、柳によって綺麗に紅く塗られたこの爪は、私にとって宝石も同然だった。

 乳鉢を片付ける手を止め、彼は私の手の甲に触れた。

「宝石などと比べられるものか。何よりも美しい紅だ」

 再び胸が言いようのない切なさに締めつけられる。私は声もなく、餌を求める鯉のようにぱくぱくと口を動かすだけだった。この時の、おもはゆく歯がゆい心持は、きっと私以外の誰にも想像することはできないだろう。

 

 爪は、一晩で薄く紅色に染みた。水で洗い流しても、その場で落ちることはないが、そのうちに薄くなって、やがて自然と消えてしまうものなのだと柳は教えてくれた。

 私はこの薄紅色の爪を、暇さえあればずっと眺めているようになった。そしてその度に、胸が詰まる感覚に囚われた。

 ただ爪を眺めているだけだというのに。そう疑問に思いはすれども、柳に尋ねてみることはしなかった。彼は、私が自発的にものを尋ねることを、あまりよくは思わないようだったから。

 では、柳以外の誰かに相談するのか? 例えば秦野や橘川に。……いや、柳にも相談できないことを、彼らに話せるはずもない。私は連日、煩悶を繰り返した。

 爪を染めてから十日ほど過ぎた時、ふとある考えが思い浮かんだ。

 口にするのが難しいのであれば、文章にしてみたらどうだろうか。

 自分自身に起こっていることだから理解が難しいのであって、心に感じていることを文章に起こせば、私のことながら、さも他人事かのように読み、理解することも可能なのではないだろうか。これなら、普段小説を読むのと何ら変わりないことだ。私が私を理解する道は、もはやこれしかないように思えた。

 幾日か思案を続けていたところに、秦野が屋敷を訪ねてきた。私は、応接室へと向かう彼と廊下ですれ違いざまに、軽い目配せをした。この拙い合図に、彼が気付くかどうかは賭けだった。以前の東屋での件もあり、柳の前で直接彼と話をするのは憚られたのだ。

 柳と秦野が応接室へと入るのを確認し、水仕事をしている女中のはる恵の元へと向かう。そして彼女に「体調がすぐれないので、部屋で休むからひとりにして欲しい」と柳に伝えてもらうよう、よくよく念を押した。はる恵は私の体調を気遣ってくれたが、それを「眠れば治るから」と跳ね退ける。その罪悪感に苛まれながらも、こうして私は、まんまとひとり部屋へ籠ることに成功したのだった。

 ベッドの上に横になり、耳をそばだてて屋敷の様子を伺う。私と柳、そして女中以外は暮らしていないから、静かにしていれば、壁越しの玄関や廊下の物音ぐらいは聞くことができた。

 そのうちに足音がし始め、玄関の扉が開く音がした。秦野が帰るのだろう。それを窓から確認したりはしない。

 廊下から、はる恵の声。きっと柳に私のことを伝えているのだ。

 すぐに、私の部屋の扉が叩かれる。はい、と返事。扉が開き、柳が様子を見に現れた。

「体調が優れないのかい? 一体どうしたことだろう、医者を呼んで診てもらおうか」

 横になった私を、彼は心配げに見下ろした。

 本当は、どこも悪くなどない。すべて芝居なのだから。

 居たたまれない気持ちに、私は目を逸した。

「あの、大丈夫です。少し暑くなってきたので、きっとそのせいだと思います」

「そうか……、では、窓を開けておくとしよう。夕方まで、ゆっくり眠っていなさい。私は部屋で仕事をしているから、何かあったら、はる恵を呼ぶのだよ」

 柳が窓を開けると、生ぬるい風が部屋に流れ込み、カーテンを揺らした。

「はい。……先生」

 部屋から去ろうとする柳の背を、思わず呼び止める。

「……ごめんなさい」

 彼を欺いているということが、あまりに心苦しく、謝罪が口をついてこぼれる。

 彼は振り返ると、困ったように笑って、私の頭を撫でた。

「いつも私の部屋で過ごすのも、窮屈だろう。今日くらいは、ひとりでゆっくりするといい」

 もしかすると、私の仮病は、彼にばれていたのではなかろうか。だからこそ、彼はそんなことを言ったのではないか。――しかしその憶測も、今となっては、確かめようのないことだ――

 柳が部屋を去って暫く後、開け放たれた窓の硝子をこつこつと叩くものがあった。

 私は一度、部屋の入口扉を確認し、そしてベッドから起き上がった。杖をつき、窓際に急ぐ。開け放たれた窓の下をそっと伺うと、身を屈めた秦野の姿があった。私の目配せの意味を理解してくれたのだ。目が合うなり、彼は口端を上げて、あのお決まりの表情をみせた。

 庭に誰もいないか、しっかりと目視する。

「秦野さん。あれから色々と考えたのですが、ぼくも、小説を書いてみようと思うのです」

「おお、そうか!」

 口元に手を添えて小声で告げると、秦野が感極まった調子で声を上げた。ぎょっとして、慌てて唇の前に人差し指を立てる仕草でそれを窘める。

 彼は、今度は唇の形だけで「すまん、すまん」と、顔の前で両手を合わせた。

 背後を確認するが、幸いなことに、声を聞きつけた誰かが部屋に近付いてくる気配はなかった。仮病を使った上、秦野と密談しているなど、柳に知られるわけにはいかない。

「……とはいえ、小説と呼べるものになるかは分かりませんし、なにぶん、素人ですから、上手く書けはしないでしょうけれど」

 潜めた声で、私は付け加えた。

「そんなことは気にしなくてもいい。それよりも、まさか、きみがそう言ってくれるとは。もう、殆ど断られたようなものだと思っていたからな。……しかし、本当にいいのか?」

「いい、とは?」

 彼が不安げに眉をしかめる。

 熱心に誘ってきたのだから、こちらが乗れば、もっと手放しで歓迎されるものと思っていただけに、その態度は腑に落ちないものだった。

 手で顎をさすりながら、彼は軽く首を捻る。

「いや、な。あの時は流石に強引だったかと、少しばかり後悔していたのだ。だから、もしも嫌ならば、無理にとは――」

「そんなこと」

 今更歯切れの悪くなった秦野の言葉を、思わず遮る。今度はこちらが口を押える番だった。再度背後の気配を伺い、庭の様子も確認する。ひと気はない。

 呼吸を整えて、何とか気分を落ち着かせる。

「秦野さんからお誘いくださったのに、そんなふうに急に弱気になられては、ぼくも困ってしまいます。ぼく自身が書きたくなったから、書こうと思っただけのことなのですから、秦野さんが気に病まれることはありませんよ」

「それなら、いいのだがな。それにしても、急に心変わりしたのは何故だ?」

 問われ、唇を噛む。

 秦野に初めて出会ったあの日、柳が彼に対して腹を立てた気持ちが、この時になって私にもようやく理解できた。秦野の不躾さは、毒にも薬にもなり得るものなのだ。そしてこの問いに答えることは、私にとって薬にはならない。かといって、こちらの行動が発端となっている以上、回答を避けることは不可能だ。

 杖を壁際に立てかけ、空いた手で窓枠に縋るように立つ。背の高い秦野を見下ろす形だ。身体を支える左足は、酷く強張っている。

「東京に出てくる前、ぼくはあまり言葉を知りませんでした。だから、心に浮かんだことを、上手く言葉にして、口に出すことができなかったのです。そのせいで、先生が不愉快に思われたこともあったと思います。……それが、ぼくにはとても歯がゆかった。

 けれど、今は違います。ぼくは先生のもとで、たくさんの本を読み、以前とは比べものにならないほど、多くの言葉と知識を手に入れました。これでぼくは、かつて感じていたもどかしさから解放された……そう、思いました。それなのに、いまだにぼくの中には、いまだに歯がゆく感じることが残っていたのです。最も知りたい、知らねばならぬことに、ぼくはまだ、触れてさえいなかった……。

 ですが、もしかすると、文章で表現することで、その正体に多少なりとも近付けるのではないかと思うのです。

 だから、ぼくは、小説を書きます。決して、秦野さんに強制されたなどと、思っていません」

 初めは掠れた声しか出なかったものの、すべてを話し終える頃にはそれもすっかり明瞭になっていて、左足の強張りも幾分か和らいでいた。代わりに、縋りついていた木製の窓枠には、無意識に立てた爪の跡が、くっきりと残ってしまっていた。

 私の言葉を、秦野は一度も目を逸らすことなく傾聴していた。口元は、いつになく硬く引き結ばれている。

 窓の脇に吊るされていたカーテンが、温い風に揺られ、右手の甲を掠める。そのくすぐったさが、強気な心を急激に委縮させた。急に杖も持たずに秦野と顔をつき合わせることに気恥ずかしさを覚え、今更ながらに目線をずらす。視界の端で、彼が小さく頷いた。

「きみの気持ちは、よく分かった。それならば、俺も精一杯、きみの手伝いをさせてもらおう」

 窓枠にかけていた私の右手に、秦野の手が重ねられた。その何気ない行為は、改めて、甚だしい罪悪感を私に植え付けた。

 私を誘ったのは、確かに秦野だ。だが、彼にそっと目で合図をしたのは誰だ? 稚拙な嘘で柳を欺いたのは、誰だった? ……他ならぬ、私ではないか。もはや今更、秦野の手を振り払うことなど、できるはずもない。

「ありがとう、ございます。……あの、柳先生には」

「ああ、内緒にしておこう。俺がきみに、ついに妙なことを吹き込んだと、叱られてしまっては困るからな」

 私にできることといえば、せめて柳に知られぬように、秦野に口止めをすることぐらいだった。

 秦野は、冗談めかして笑った。いつもと同じように、口端を吊り上げて。

 

 

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