その柳の下に[二章]

二、柳に風

 

 洋風建築の柳の自宅は、私の生家と比べると格段に広い。また家具や調度品はすべて洋式に揃えられていたので、それらに慣れるまでにはなかなかの時間を要したものだ。中でもベッドは、少し触れるだけでも軋んだ音をたてて揺れ、さらに床より高くなった造りに、寝ている間に下に落ちてしまうのではないかと不安が煽られるばかりで、暫くはまともに眠ることもできない始末だった。

 食卓もまた、膳ではない。足の長い台に食事を置き、高さを合わせた椅子に掛け、そこで食事をするのだが、この木製の椅子が曲者だった。畳に慣れきった私にとって、それはどうにも硬すぎた。食事を終える頃には、すっかり足が痺れてしまうのだ。足が悪い私にとって「畳に座るより楽だろう」とは柳の談だが、しかしこれにもまた、慣れるまで非常に苦労させられた。

 不慣れなことは他にも多くあった。苦労も、確かにした。かといって、苦痛が伴われたことはない。それに、私が物事を上手くこなせないことを理由に、柳が私を叱りつけることは一度もなかった。

 屋敷での生活に一刻も早く順応するべく、私は必死だった。東京に来るまで「死にたい」と考えていたことさえ忘れて。代わりに、柳のために何かできることはないかと思うようになっていた。

 私は彼の書生となったはずだった。けれど、蓋を開けてみれば書生とは名ばかりで、私が彼の家に暮らし始めて一年経っても、彼は私にひとつとして用を言いつけることはなかった。屋敷には、はる恵という女性が使用人として住み込んでいて、彼女が家事のすべてを執り仕切っていたためだ。何かできることはないかと私が申し出ても、彼女は恐縮するばかりで、色良い返事は貰えなかった。そもそも、支えがなければまともな歩行すら難しい私には、些細な用事すら頼み辛いものであったのかもしれないが。

 柳本人に直接かけあったことも、なかったではない。しかしいくら私がせがんだところで、彼はいつも微笑むばかりだった。それでも私が折れないでいると、

「では、あとで一緒に珈琲でも飲みに行こう。それまでは、ここでゆっくり本でも読んでおいで」

 決まって同じ言葉で返された。そうなるともはや、私は申し訳なさに肩を落しながら、彼の書棚へと向かうしかなかった。

 書斎に置かれた柔らかな革張りソファに腰掛けて本を読む時間が、嫌いだったわけではない。経緯はともあれ、読書自体はむしろ好んでさえいたのだ。

 この頃になると、以前は読むことができなかった難語も多少は理解できるようになっていたし、何より、彼は多くの辞典を持っていた。それらを使って、知らない言葉を調べることが可能になったので、納屋にいた頃のような歯がゆさを覚えることなく、読書に励むことができていた。さらに、本を読みながら、時折机に向かう柳の丸まった背を窺うのが、私の密かな楽しみでもあった。

 

 柳には行きつけのカフェーがあった。『カフェー・ジュリエッタ』という、モダンな煉瓦造りの店だ。柳の邸宅を出、緩やかな坂や狭い路地を抜け、商店が立ち並ぶ湯島の通りを横切る。それから帝大の敷地を横目に進み、さらに不忍池の傍を北へずうっと歩いて行くと、ほどなく根津という土地に辿り着く。大通りからやや奥まったところに埋もれるように、その店は建っていた。

 ジュリエッタは、西洋かぶれの男が道楽で始めた店だ。ただし、道楽というには過分なほど珈琲には拘りがあるようで、店主は頻繁に、横浜まで豆の買い付けに行くという。そういった事情から、この店を訪れる客の多くは、女給よりも珈琲の味目当てで通う常連ばかりであった。

 ジュリエッタを訪れる際、柳は度々私を伴った。だが、この際、彼が私の手を引いて歩くことはなかった。

「順二郎、きみにまた生き方をひとつ、教えよう。それは、よく動くということだ。部屋に篭って物語に浸るもいいが、外を歩き、水や土の匂い、日の眩しさ、風の冷たさ温かさ、木々のざわめき……そういったものを意識した途端、ひとは清清しきまでの生を覚えるものなのだよ」

 私が東京で暮らし始めてすぐの、柳の言葉だ。新たな教示と共に、古めかしくも丈夫そうな木杖を、彼は私に与えたのである。節が浮き出ているだけで、一切装飾のない無愛想なこの杖が、そのまま柳の考えであるように思われた。そしてこの憶測は、私を落胆させるに充分な材料だった。

 実際の彼の真意や私の想いはどうあれ、以降私は杖をついて歩くことを余儀なくされた。

 

 大正十五年の九月。正確な日付はもう忘れてしまったが、確か月の中頃のことだったと思う。私はこの日も、柳と共にジュリエッタへと出かけた。

 柳は、前日出版社に原稿を提出したという解放感があったのだろう。ジュリエッタに向かう道すがら「今日はアイスクリームでも食べたらどうだい」などと口にしたものだから、彼の上機嫌ぶりは私から見ても明らかだった。

 ジュリエッタの重い木扉を柳が押し開けると、からからと鐘の音が鳴る。すると中から、僅かに焦げたような、しかし暖かでじんわりと染み入る香りが漂ってきて、全身をゆったりと包み込む。

「ああ、いい香りだ」

 お決まりの科白と共に、店内へ。

「いらっしゃいませ」

 既に私も顔なじみの女給が、ひとつお辞儀をした。

 店の奥、珈琲を淹れるための硝子製の様々な道具が置かれた据え付けの長台。そのすぐ手前の二人掛け席が、柳のお気に入りだった。

「どうもどうも。先生、仕事が一段落したんでしょう。やあ、順二郎くんも、こんにちは」

 席についた私たちに声をかけてきたのは、ジュリエッタの店主だ。ワイシャツに赤黒の縞柄ベスト、蝶ネクタイを締め、丸い顔に、同じように丸い眼鏡をかけている、人の良さそうな顔の男である。

「毎月毎月、まったく、骨が折れるよ。新聞連載している連中に比べれば、幾分楽なものかもしれんがね。

 今日は珈琲と……アイスクリームがあるかい? あれば、彼にひとつ」

「そんな。いけません、先生」

 道すがらの言葉は冗談だと思っていただけに、私は彼の注文を聞いて思わず驚きの声を上げた。

 柳が頼む珈琲は十銭なのに、アイスクリームは二十銭。丁度倍の値段である。普段は珈琲よりも安いミルクを飲んでいたから(柳が、身体のためにはミルクが良いだろうと提案したので、ずっと言う通りにしていた)さほど気兼ねをすることもなかったが、アイスクリームというとそうもいかない。何しろ私は書生とはいえ、家の用事も、柳の仕事を手伝うこともできず、また当然のように一銭の稼ぎもない身だったのだから。

 この当時私はもう十四歳で、納屋で暮らしていた頃よりは随分と物事の分別も付くようになっていた。以前のように、彼に与えられるすべてを何の躊躇もなく享受することは、もはやできない年頃だったのだ。

 しかし、そのような態度を、柳はあまり好ましく思っていないようだった。執拗に躊躇の素振りを見せることは、彼の自尊心を傷付けてしまうだろうから、私が最後まで我を貫き通すはない。

「いつもミルクばかりだから、順二郎も飽き飽きしているだろう」

 私のささやかな主張は、こうしてすぐに摘み取られた。

 注文から暫くすると、持手のついた磁器に八分ほど満たされた珈琲と、透明な硝子器にこんもりと盛られたアイスクリームを、女給が運んできた。

 柳が珈琲を一口啜り、こちらをちらと見るのを確認してから、器に添えられていた匙で、乳白色の山を小さく掬い取る。それを口に入れると、舌の上で、優しい甘さと、普段の味わいとは一風違った、ふんわりと柔らかなミルクの風味が広がった。けれどその冷たさは、どこか故郷の冬を思わせ、私の胸に僅かばかりの物悲しさをもたらしたのであった。

 アイスクリームを食べ終わる頃になって、背中の方で、鐘が鳴った。新たな客が訪れたのであろう。そう思い、私は気にも留めていなかった。だがふと柳に目を移してみると、彼は眉間に皺を寄せ、憮然とした表情で出入り口を睨んでいる。

「先生、あの」

 つい今しがたまで上機嫌だったというのに、急にどうしたことかと、私は声を潜めた。

「きみが柳先生の書生か」

「え?」

 背後から軽く肩を叩かれ、反射的に振り返る。そこには見知らぬ男の顔があった。少しくたびれた駱駝色の背広に、茶色のハンチング帽を被っている。首が痛くなるほど見上げねばならないほど長身だ。面長で、目鼻立ちのはっきりとしたその男は、口元にニヒルな笑みを浮かべ、私ではなく、柳へと視線を送っていた。

「……きみはどうして、間の悪い男だな」

 肩をすくめながら柳が漏らす。男はかつかつと声を出して笑って、別の客席から奪った椅子を、私たちの席の傍まで引き寄せて掛けた。

「俺は、先生がこの時間、大方ジュリエッタで暇を持て余しているだろうと考えて、あえて自宅に伺わず直接こちらに足を運んだのですよ。間が悪いどころか良い読みをしているでしょう?」

「大阪から戻ったのであれば、先に連絡ぐらい寄越しなさい」

「先月、葉書を送りましたが」

「……ここまで来ずとも、家で待っていればいいだろう」

「先生。俺は無駄が嫌いなのです」

 男が胸を張るものだから、柳は観念したように、大きな溜息をひとつ吐いた。私はといえば、柳と男のやりとりを、ぽかんと口を開けて聞いているだけだった。

「……順二郎。彼は秦野。今は少年向け雑誌に冒険小説を書いている」

「秦野正彦だ。よろしく」

 秦野は帽子の鍔を、くいと上げてみせた。脱帽の気配はない。

「ぼくは、宇……いえ、順二郎といいます。秦野先生」

 姓を告げたところで、彼に私の何が分かるということもないだろう。しかし、柳の態度を見る限り、ここで自身のすべてを明かしてはいけない気がして、とりあえず名前だけを名乗ることにした。

 座ったまま会釈する。そうしてから改めて秦野の顔を見ると、彼は決まりが悪そうに、苦笑いを浮かべていた。

「先生というのは、できれば勘弁願いたいね。柳先生と肩を並べられているようで、畏れ多いったらない」

「はあ」

 彼はわざとらしく肩をすくめてみせた。口調もどこか冗談めいている。反応に困った私は、ただ間が抜けた相槌を打つことしかできなかった。

 柳と同じ作家であるなら、ふたりの間に交流があってもおかしくはないのだろう。だが、歳が離れているように見えるようにも拘わらず、彼らが随分親しいことだけは疑問に思われた。

「彼のことは気にしなくていい」

 どうやら神妙な表情を浮かべてしまっていたらしい私に向かって、柳が一言添えた。

「秦野くん、きみは無駄が嫌いと言っていたが、そのわりに無駄口が多いのではないのかね。この通り、私たちは今、休息中なのだ。仕事の用ならば、早々に済ませて欲しいのだが」

 ずずず、と音を立ててコーヒーを啜るのが、いかにもわざとらしい。

 店の奥で、店主と女給がこちらの様子を伺っていた。女給は、ひと騒動起こるのではと思っているような困り顔だったが、店主はといえば、特段表情を崩すこともなく、にこにこと私たちのやりとりを眺めていた。

 そこから察するに、秦野と柳のこうした言い合いは、どうやら珍しいことでもないらしい。

「仕事の話ではありませんよ。先生が書生をおいていると聞いたものですから、様子を見に来たのです。仕事が溜まっていたもので、今頃になってしまいましたが」

「順二郎におかしなことを教えるつもりじゃあるまいな」

「また、人聞きの悪いことを仰る」

 秦野は店の奥にいる女給に向かって「ぜんざい、ひとつ」と注文した。それを受け、女給はようやく安堵の表情を浮かべる。

 そのうちに秦野の前に、茶と箸が添えられたぜんざいが運ばれた。秦野は椀と箸を手にすると、勢い良く掻き込むように、あっという間にそれを食べきってしまった。あまりの早さに、さすがに私も呆気にとられる。その間、柳は秦野を見ようともせず、あまり残ってもいないコーヒーを、ちびちびとやたら音を立てながら飲むばかりだった。

「ところで、順二郎くん」

 まだ湯気の立ちのぼる茶を、これもまた一気に飲み干してから、秦野は唐突に切り出した。

「きみも何か書くんだろう? よければ俺に読ませてはくれないか」

 秦野の言葉に、柳の表情がさらに険しさを増した。私に向かって話をしている秦野には、きっと見えていなかっただろう。

「書く……? ぼくが、ですか」

「秦野くん、やめなさい」

 居心地の悪さを感じながらも私が反応を示すと、柳は途端椅子から立ち上がり、語気を強めて言い放った。しかし、秦野はまったく動じていない。

 先程まではにこやかだった店主の表情が曇っている。

 私は、初めて西山に会った時に柳がみせた、酷い癇癪を思い出した。テーブルには、陶製や漆器の椀、それに箸や匙が載っている。彼があの時のように、これらを秦野に投げつけてしまうのではないだろうか。想像するだけで、心中穏やかではいられなかった。

「いいじゃないですか。柳先生自ら選んだという書生が、一体どれほどの逸材か、みな口にはせずとも、気にしているのですよ」

 柳の性質を知ってか知らずか、秦野は言葉を重ねていく。その度に、柳の眉間の皺が深くなった。

「彼は何も書かない」

「まさか」

 ふてくされた子供のような口振りの柳に、秦野は信じられないとばかりに目を丸くした。

「では、何故彼を書生にしているのです? 仲間内では、先生が彼に手ずから文学を教えておいでなのだと、もっぱらの噂なのですよ」

 彼の疑問は至極もっともなことだった。書生とは、住み込み先の手伝いをしながら学問に励むものであるし、屋敷の主である柳が作家なのだから、そこの書生も文学をするのだと思われても無理はない。だからこそ、文学もせず、手伝いひとつ任せてもらえない私にとって、秦野の言葉は、酷く衝撃だった。

 役立たずが何故ここにいるのだと皮肉られている気がして、胸の奥底を冷たい指先で撫でられるような厭な感覚が、身体を支配した。罪悪感が吐き気を誘う。思わず左手で口元を覆った。それを紛らわすように、着物の袂を右手で掻き抱くように強く握る。背中には、ぬるりとした気持ちの悪い汗が滲みだしていた。

 ふたりは私の異変に気付いたのか、こちらに心配げな視線を寄せていた。

「順二郎」

「おい、大丈夫か」

 柳はすぐに駆け寄って来て、私の背をさすってくれた。秦野はといえば、私の体調の急変に、ただ狼狽えるばかりだ。

 そんな彼を視界の端でぼんやりと捉え、申し訳なさでいっぱいになる。

 祖母に苦痛を与えてしまったように、今度は彼らに迷惑をかけてしまっている。私は、納屋にいた頃と比べて、何ひとつ成長していない。それもこれも、心身ともに軟弱な私が、柳の温情に甘えた結果ではないか。……そう、自身の不甲斐なさを呪いながらも、しかしやはりここでも、死にたいとは思うことはなかった。

「気分が優れないのだな。すぐに屋敷に戻ろう」

 柳は財布から取り出した十銭の白銅貨を三枚、テーブルの上に置くと、抱えるようにして、私を椅子から立ち上がらせた。

 足元は覚束なく、杖をつく手も震えていて、柳の支えなしには、その場に立っているのがやっとだ。背をそっと押され、ゆっくりと店の出口へと向かう。柳が扉の取手を引けば、入ってきたのと同じように、からんからんと鐘が鳴る。

 去り際、柳はふと立ち止まった。

「秦野くん、もしも、今話していたこと以外に用があるのならば、必ず三日はおいてから、うちに来なさい」

 歩くだけで精いっぱいだった私には、その時のふたりの表情がどんなものだったのか、知ることもできなかった。

 私たちは、根津から柳の邸宅がある湯島まで、行きの倍以上も時間をかけ、休み休み帰ったのだった。

 

 

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