その柳の下に[序章]

告白のための序文

 

 細かい木目が並ぶ艶のない文机に広げた優しい白地の上に、薄褐色の四角が規則的に連なっている。

 握った万年筆の、刃物のような鋭さをもつその先端を、新品のインキ壺にとぷんと浸す。首の太い硝子瓶の中で、とうに過ぎ去った日々の悔恨や悲哀をすっかり水に溶かしこんだような色のインキが、小さな波紋を描いた。万年筆の腹にたっぷりとインクを吸わせてやってから、縦横二十ずつ並んだ四角いマス目の中に、ペン先をおろしていく。

 文机の端には、雑な造りの白木の位牌。墨書きされたその名の意味するところを、私は知らぬ。死して冠される名に、一体何の意味があろうか。

 開け放した窓の外に眩いばかりの緑はないが、賑やかな蝉の声だけはこの六畳間にまでも届いてくる。その声に連れられて来たむっとする夏のにおいが、室内に充満していた。日光に灼けたコンクリートと、側溝でどろりと粘る排水の、べたべたと鼻につく嫌なにおいだ。

 来年には芝の増上寺辺りに巨大な電波塔が建つと、先日新聞が伝えていた。東京暮らしも長くなったが、いまだ都内の地理には疎い。そんな私であっても、夏のにおいも街並みも、昔とは随分変わってしまったものだと感じさせられた。それらは否応でも私の五感を刺激するから、細々とした環境の変化から目を逸らすことなど、もはや不可能なのだろうと思う。

 ペン先が紙を食む。インキが染みる。文字を書く感触だけは、昔と何ら変わらない。そのことだけが、せめてもの救いだ。

 指先から沸き起こる懐かしさが、私の胸を破裂させんばかりに膨れ上がらせ、哀切の爪を甘くたてた。腐りかけた右足が、まるで萎びた茄子のように、じくじくと疼いている。

 私が今記しているものは、もはや色褪せた、しかし永劫消せぬ罪を告白するための、正当なる序文である。

 こうして原稿用紙に向かって自らの意思で筆をとるのは、実に数十年ぶりのことだ。

 私が文章を書くという行為は、二十数年前から禁じられていた。だが、それももう終わりだ。長年自分自身の心の中にのみ留め続けてきた罪と苦悩を、ついに外へと発出せねばならない時が来ている。そのためにも、私は、大切なひとが課した禁を破る決意をしたのである。

 文章を書くことのみが、彼からの恩に報いる、私に残された唯一の手段だからだ。

 ともあれ、そういった過去のあれこれを記すにあたっては、まず私の生い立ちから綴る必要があるだろう。そして、それより以前に、大前提として存在する、私が犯した重大な罪をここに告白しなければならない。

 

 ――かつて私は、あるひとの情人だった。

 数年にわたって、しかしその間私たちは一遍も睦言を交わすことなく、幾度も身体を重ねたのだ。それは、恋人などという甘い関係がもたらすものでも、性欲のはけ口という明け透けな目的によるものでもなかった。

 彼は、生涯口に出すことはしなかった耐え難き孤独や後悔を慰めるために、夜毎私を求めたのだろうと思う。私はそのことを薄々感じながらも、どうしてもその手を振りほどくことができなかった。

 だから、あのひとは死んでしまった。

 私が、殺したのだ――

[一章↓]

       
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