すべてを、夏のせいにして。

 

 よく晴れた日中に部屋に篭もり、窓ガラスを通して、隣家の屋根の上、雲の少ない青い空をぼうっと眺めていると、世界からひとり置き去りにされたような孤独が感じられる。

 けれどそれは、ひと月ほど前までの話だ。以前と同様の行動をとっても、もうひとかけらの孤独すら覚えることはない。現に、今がそうだ。こうしてぼんやりと空を見ながらも、しかし自分がこれまで、空だけを見ているわけではなかったことも、今の悠ははっきりと認識していた。

 八月というのに、締め切った窓。扇風機が作り出した風が部屋をかき回し、ぬるくなった空気が、衣服から露出した悠の肌を撫でる。僅かほどに日に焼けたそこは、うっすらと汗ばんでいた。

「悠、ほら」

 ベッドに深く腰かけ、窓辺にもたれながら、僅かに首を捻って空を見ていた悠の頬に、冷たいものが触れる。耳のそばで、かさりと乾いた音がした。不意に感じた冷たさで、両腕に一気に鳥肌が立ち、悠は思わず眉根を寄せながら、声の方へと向き直る。

「……ハル、冷たい」

 頬をかすめたのは、ビニル袋で個包装されたアイスだ。よく日焼けした肌、それと同じ色の指先で、晴次が袋に入った棒アイスを摘み、悠へと差し出していた。

「ていうか、何で一つ?」

 晴次が手にしている包装の数を見て、悠は怪訝そうに尋ねた。

 八月も半分が過ぎ、夏休みももうすぐ終わる。悠は、登校日以外のほとんどを、家の中でこうしてぐずぐずと、何をするでもなく過ごしていた。最初のうちは「プールに行こう」だの「買い物に行こう」だのと悠を誘っていた晴次も、幼馴染という間柄、悠の頑なな性格をよく知っているためか、八月に入る辺りから外出を切り出さなくなり、代わりに悠の家に朝から――とはいえ、元から朝食時は一緒にいるのだが――入り浸るようになっていた。

 今日も、特に何をしたわけでもない。扇風機が生み出すぬるい風を浴びながら、ベッドや、或いはフローリングの上に転がり、本を読んだり、晴次が持ってきたポータブルゲーム機で遊んだりした程度だ。昼食を食べてからは一階のリビングで、二人してごろごろと横になって寛ぎ、時折思い出したようにぽつりぽつりと会話を交わした。とはいっても、毎日会っているわけだから、当然これといった話題もない。それでも悠は、端から見れば無為にも思えるこの時間が、退屈であるとは決して思わなかった。

 午後三時を過ぎると、パートに出ていた悠の母親が帰宅したため、また二階の自室へと戻った。そうしてしばらくたった頃、悠はふと、冷凍庫にアイスが二つあったことを思い出した。それを晴次に告げると「じゃあ、俺が取ってくる」と言って、彼は階下にあるキッチンへと向かったのである。

 そして、戻ってきた晴次の手に、アイスは一つだけ。

「二つあったはずだけど」

 差し出されたアイスを受け取りながら言うと、晴次が小さく肩をすくめる。

「おじさんが昨日の夜、食べたってさ」

「あー……、そういえばそんなこと言ってたかも」

 恐らく、母親からそう聞いたのだろう。晴次の言葉に、悠は昨晩父親が、アイスがどうのと話題に出していたことを思い出す。その後すぐに眠ってしまったため、すっかり忘れてしまっていた。

 後悔の念が、悠の胸に宿る。昨晩の会話を覚えていれば、晴次の前でアイスのことなど話題に出さなかったのに、と。

 包装の、三角が連なったような形をした端を両手で持ち、それ前後に引けば、谷になった部分からビニルが、ピリ、と裂ける。露になったアイスに刺さった平べったい木の棒を持つと、ほのかな冷気が指先に感じられた。一センチほどの板状に固められたアイスは、うっすらとピンクがかった白色をしていた。濃いピンク色のイチゴ味のアイスの表面が、バニラアイスでまんべんなくコーティングしてあるのだ。

 ぬるい風を受けて、アイスの周囲に微かな白いもやがたちのぼる。

「ん」

 悠は、手にしたアイスを晴次に向けた。

「あげる」

「一つしかないんだから、悠のだろ?」

「……いいから。あげるって言ってるだろ」

 差し出した手を押し返され、むっとした調子で返す。

 悠は壁にもたれていた体を起こし、ベッドの上に膝をつきながら、さらに押し付けるように、晴次の口元にアイスを近付けた。

(こんなことがしたいんじゃないのに)

 頭の片隅でそう考えながらも、沸き上がる妙な焦りが、悠をつき動かしていた。しかし、だからといって、自分が本当はどうしたいのかは、悠には分からない。

 悠が自分の欲求を認識するのは、未認識のまま、それが満たされる瞬間であることが多い。晴次に対して抱いているものの正体に気付いた時も、初めてキスをしたあの夜もそうだ。欲求を自己認識するための決定的な出来事が起こるまで、今のように、形のはっきりしない感情が、もやのように悠の中に存在していた。

 室温の高さのせいか、アイスは早くもゆるゆると溶け始めている。

 悠は、黙って俯いた。自分の感情が分からないということが、まるで子供のようで、恥ずかしくてならなかったのだ。そして、そのことに、晴次が気付いているのではないかと思うと、彼の顔を見ていることすらできなかった。

 扇風機の羽を回すモーター音。そこに、時計の秒針が進む音が混じる。ドアが、きぃと軋んだ。窓を開けない代わりに、入口のドアはずっと開けたままにしている。

 しばらくの沈黙の後、

「じゃあ」

 晴次がそう口にした。その声にはっとして、悠が顔を上げると、同時にアイスを持った右手の手首が掴まれる。燃えるような熱い手だった。

「な、に――っ」

 上擦った声が漏れそうになり、悠は慌てて空いた手の甲を口元に押し当てる。晴次が、アイスの棒を握る悠の指に、舌を這わせたのだ。あまりの羞恥に、悠は自分の顔に朱が差すのを感じた。

 いつの間にか溶け出したアイスが、その表面を伝って、悠の指に流れ落ちていたらしい。それを丹念に舐めとる舌先の、ねっとりとしたその感触、そして手のひらよりも高い温度が、悠を酷く混乱させた。

 悠の手にまとわりついたアイスを舐め終わると、ぐずぐずとゆるくなりながらも、辛うじて板状の形を保っているその本体に、晴次は歯を立てた。そして、上半分をあっという間に平らげてしまう。

「ほら、半分」

「あ……」

 かけられた言葉に、すぐに反応することができない。いまだ、指の上を、晴次の舌が這っているのような、じりじりとした余韻があった。頭の中が、手にしているアイスのように、どろりと溶けてしまったかのような錯覚。いまだ握られた手首から、彼の熱が伝播したのかと思うほどに、体の内側が熱かった。

 悠は、ただ晴次を見た。すると晴次は、困ったような顔をして、指先で頬を掻き、そしてゆっくりと、悠へと顔を近付ける。

「――落とすなよ。ベッド、汚れるぞ」

 耳許で晴次が囁く。悠は反射的にまぶたを閉じ、ふるりと背筋を震わせた。

 次いで晴次の唇は、頬をかすめるように動き、そして悠の唇へと落とされた。触れあったその場所は冷たく、そして甘い。唇の隙間から侵入してきた、まろやかなバニラと、爽やかないちごの味、そしてそこに混じる幸福を、舌先で僅かに感じとる。それらをもって、悠はようやく、自身の欲求の正体を理解するに至った。

 

「うまいだろ? 早く食わねーと溶けてなくなるぞ」

 短いキスの後、そう晴次に促され、アイスがこぼれ落ちないように左手を添えながら、悠はアイスを口にした。

 今し方舌に感じたのと同じ味が、刺すような冷たさを伴って口中に広がっていく。熱くなった体に、冷感は心地よく、一口、もう一口とそれを求めれば、アイスはあっという間になくなってしまい、悠の手の中には、平たい棒だけが残った。

 棒をくずかごに投げ入れ、ウエットティッシュで手を拭う。そして再び窓際にもたれかかるようにベッドに座ると、すぐ横に晴次も腰を下ろした。

 ちらと、窓の外に目をやる。空はまだ青いが、もう数時間もすれば、日が傾き、夕焼け色へと変わるだろう。

 空から僅かに目線を下げれば、隣家の屋根が視界に映る。晴次の家だ。悠の部屋の真正面が、晴次の自室だった。

「ゆーう」

 Tシャツの裾を引かれ、そちらへと視線を移す。晴次は、日に焼けた顔にはにかんだ表情を浮かべながら、悠の右手に、自身の左手を重ねてくる。

「ハル……手、熱い」

「夏のせいだろ。悠の手も、すごく熱い」

 指を絡めるように手を握られ、鼓動が早まる。

「夏のせい、なのか」

 声に出してみれば、本当にそうであるような気さえする。

「窓、開ける?」

 訊かれ、悠は首を小さく左右に振って答えた。窓を開けさえしなければ、彼の言うように、すべてを夏のせいにすることができると思った。顔の火照りも、体にこもる熱も、指に残るじりじりと灼けるような余韻すらも。

 ぬるい風が、ふたりの髪を揺らす。どちらからともなく、顔を寄せていく。

「……ドア、開いてる」

「今更。さっきも開いてただろ」

 囁き声で短い会話を交わし、小さく笑いあった後、二人はまた、そっと唇を重ねた。

(了)

       
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