熱帯夜に、答えを。

 異常な熱を感じていた。絡み付くような湿り気を孕んだこの空気に、だ。決して自分自身のせいではない。悠はそう自分に言い聞かせながら、勉強机に向かっている。

 ベッドと本棚、そして勉強机だけが整然と設置された殺風景な部屋だ。閉めるめ切られたカーテンのむこうは暗い。時刻は午後十時を回っている。かつかつと、シャープペンが紙を捉える音、そして机上の置き時計が時を刻む音だけが部屋を支配していた。

 明日から、期末テストなのだ。だから悠は、こんな時間になってもいまだ勉強机に座り続けている。

 それほど勉強が好きなわけではない。けれど酷い点をとって貴重な夏休みを潰されるのも嫌だった。こうしてギリギリになってから勉強し始めるようでは遅いような気もしていたが、だからといって何もしないよりはマシだろうとも思っていた。

 ぎい、と椅子の背もたれが鳴いた。大きく伸びをして、そして溜息をこぼした。Tシャツの袖口で、首元を拭う。汗が滲んでいた。拭い去っても、まとわりつくような不快感は消えない。湿度が高いせいだ。集中が長続きせず、予定の半分ほども問題を解けていなかった。

「ああ、もう」

 吐き捨てるように言って、右手で頭をがしがしと掻き回す。無性に苛々していた。勉強が捗らないせいか、或いはこの湿度のせいか。そういえば、テレビで『今夜は熱帯夜だ』と言っていたのを思い出す。

 椅子から下りて、ベッドへ向かう。その上に膝立ちになり、カーテンを少しだけ開けた。隣家の二階の窓から明かりが漏れていた。あの部屋の住人も、自分のように試験勉強に励んでいるのだろうか。そう考えたところで、慌てて頭を振ってそれを打ち消した。

(ばかだ、僕。何考えてるんだ)

 急いでカーテンを元のように閉める。

 同時に階下でインターホンが鳴った。来客を知らせる合図だ。ベッドから下りると時計に目を移し、悠は訝しげに眉をひそめる。胸の奥がざわついていた。

 しばらくすると、誰かが階段を上ってくる足音が聞え始める。ぺたぺたと独特なその足音は、母ではない。そして父でもなかった。

 そしてノックもなしに、部屋のドアが開く。

「ゆーう」

 ドアの隙間から、よく見知った幼馴染、晴次の顔が覗いていた。ニコニコと笑顔を浮かべている。まだ七月だというのに、その肌は薄く小麦色に灼けていた。

「ハル、今、夜なんだけど」

「それぐらい知ってるって」

 自信満々に答える晴次に、

「いや、そうじゃなくてさ……」 

 脱力感が込み上げる。何故勝手に家にあげてしまったのだと、心の中で母を恨んだが、今更遅い。

 晴次は容赦なく部屋に足を踏み入れ、ベッドの端に勝手に腰を下ろした。その手には一冊のノートを持っている。

 室温が一気に上がった気がした。きっとこの狭い部屋にふたりもいるせいだ。悠はそう結論付けることにした。

 普段と何も変わらない日曜の食卓で、悠が晴次に想いを打ち明けてから、ふた月が経っていた。

 ふたりの関係は、事実として変わってしまった。悠の告白を受けて、それを晴次が拒まなかったのだから当然だ。けれど、実質、二人の関係はあの日以前と何ら変わっていないままだった。変わったことといえば、悠が明らさまに晴次を避けることがなくなったぐらいだ。晴次はといえば相変わらずマイペースで、悠への接し方を変えたりしなかった。

 けれど悠は、晴次を意識せずにはいられなかった。あの日見た彼の微笑を、何度夢に見たか分からない。でもそんなこと、勿論彼には言えるはずもなく、告白したことでかえって行き場のない熱を内に抱える羽目になってしまった。そしてそれを助長したのが、何も変わらない晴次の態度だ。

「一体何の用?」

 勉強机の椅子に再び腰掛け、悠は尋ねた。待ってましたとばかりに、晴次の表情が輝く。

「明日テストだろ? でも、どうにも勉強が捗らなくてさ」

「……うん」

 いつものことじゃないか。そんな皮肉は飲み込んでおく。晴次はもともとそんなに成績が良い方ではない。かといって悠もそこまで褒められた成績ではないので、人のことを言えた立場ではないのだが。

「たぶんこれは、熱帯夜のせいじゃないかって」

「それで?」

「暑くて暑くて、頭が働かなくてさー。それでもどうしても解きたい問題があるんだけど、それが解けないんだよな」

 拳を握りしめ、彼は力説している。

「へえ、ハルも真面目に勉強したりするんだ」

 悠は素直に感心していた。

「ま、そういうこと。それで、この問題を解くために、悠の力を借りようと思って」

 そう言って、晴次は手に持っていたノートを持って立ち上がった。数歩歩いて、椅子に座る悠のそばに立つ。そしてノートを閉じたまま、机上に置いた。

「そういうことなら、早く言えばいいのに」

 このままでは晴次は確実に赤点を免れないだろうと思っていただけに、彼の心境の変化は悠にとって嬉しいものだった。自分にできることがあれば力になりたいと、そう意気込んで、悠はそのノートに向き合う。

「どの問題? 僕に解かるものならいいんだけど」

 悠の言葉を合図に、晴次はノートのページを捲った。表紙から数ページほどのところでその手を止め「これ」とノートに書かれた文字を指さした。その文字以外、ノートには何も書かれていない。ほとんど白紙の状態だ。そして、そこに書かれていたのは、数式でも化学式でもなかった。

 悠の顔が、茹で上がったように赤くなる。

「おい、ハル……っ!」

 何も考えず、ただ悠は衝動に任せて振り返った。どういうことだ、と怒鳴りつけるつもりだった。けれど、その言葉は虚しく飲み込まれていく。重ねられた晴次の唇によって。

 触れたそれは、すぐに離れていく。悠は呆然としたまま、何も言うことができなかった。ただ全身が熱かった。鼓動があまりに早く、今すぐ死んでしまうのではないかと思うほどだ。

「解けた。さんきゅ。じゃあおやすみ」

 それだけ言い残して、晴次はさっさと部屋から出て行った。ぺたぺたと鳴る足音が遠ざかっていく。

 ぱたん、とドアが閉まる音で、悠の体は糸の切れた操り人形のようにくったりと崩れた。体のどこかがあたったのか、机上のノートが悠のそばに落ちてくる。

 悠はゆっくりと、そのノートに手を伸ばした。そして膝の上にそれを置き、開く。一ページ、二ページ……真っ白な紙を、彼の痕跡を探して辿る。ようやく目的のページを見つけ、熱に浮かされたようにぼうっとその文字を眺めた。

『悠のことが好きだからキスしたい』

 罫線に沿って書かれた、見慣れた幼馴染の文字は、普段より少し小さい。

 きっともう、これ以上勉強は捗ることがないだろう。

 熱帯夜。体の内で冷めることのない熱を、悠は初めて心地良く感じていた。

(了)

       
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