十二年越しの約束

 日はすぐに落ち、やがてボールを追うことも難しくなってくる。そうなってようやく彼は、ボールを投げる手をとめた。

 そして俺は、彼の心の傷に触れてしまうのが心配で、ずっと口に出すのを躊躇っていた言葉を彼に投げかけた。

「ボールを投げるの、すごく上手だね。純哉君は」

「ほんとう?」

 彼は、ぱっと表情を輝かせた。

「本当だよ。野球選手になれるんじゃないかな」

「じゃあ、ぼく、おおきくなったら、やきゅうせんしゅになる!」

 彼は、力強く声を張った。

「それなら、これからいっぱい練習しないとね」

「うん。れんしゅうして、ぜったいやきゅうせんしゅになるよ。だから、おにいちゃん――」

 そうしているうちに、純哉を迎えに彼の母親が園にやって来た。別れ際に、「いつでも連絡していいから」と、俺の携帯電話の番号をメモして手渡した。

 母親に手をひかれながら、彼はそのメモを握りしめて、本当に嬉しそうに笑っていた。

 彼が最後に何を言ったのか、俺はもう、今ではすっかり忘れてしまっていた。ただ、色褪せた記憶の中で、俺は随分と冷えた彼の小さな手を両手で包み込むように握って――そして何か、大切な約束をしたような、そんな気がしていた。

 * * *

 カーテンのすき間から、眩しいほどの陽光が差し込んでいる。

「うーん、何て言ったんだっけなあ」

 そう口にしながら、胸の前で腕を組む。しかしいくら考え込んだところで、思い出せるはずもない。なにせもう、十二年も前の話だ。

 目指していた大学に合格した俺は、資格を取り、今では保育士として働いている。こんなこと、初めて職場体験で訪れたあの日の俺が想像できるはずもなかっただろう。彼との出会いがそうさせたのかもしれないし、元々抱いていた『こどもが苦手』という意識すら、表面上の友人たちと話を合わせるためにそう思い込んでいただけだったのかもしれない。あるいは、その両方か。

 ともかく、俺が保育士として勤務し始めたのももう数年前のことで、彼と出会った頃にはまだ高校生だった俺は、今では三十歳になっていた。

「……何を悩んでいるんですか?」

 不意に投げかけられた声に、

「ああ、君のことだよ」

 と驚きもせずに答える。

 落ち着いた低いそれは、もうあの頃の幼い彼の声とは違う。ベッドのとなり、床の上に敷かれた布団の上で、俺と同じように上半身だけ起こして、彼――純哉はこちらを見ていた。

 何故彼が俺の部屋にいるのかというと、話は昨年の夏に遡る。

 八月。例年以上に暑い夏だった。朝、出勤前の俺の携帯電話に、公衆電話からの着信があったのだ。不思議に思いつつ、電話に出ると、

『……おにいちゃん?』

 若い男の声が聞こえてきた。

「えっと……どちら様?」

 新手の詐欺だろうか。そう思いながら、尋ねる。俺の問いに電話口の向こうから返ってきた答えは、

『あの、お久しぶりです。僕、純哉です。覚えていますか?』

 いたく丁寧な言葉だった。

 しかし、その電話には本当に驚かされたのだ。まさか、十年以上も経って彼から連絡が入るなんて思いもよらなかった。

 俺はあまりの懐かしさに、彼のその後を電話口であれこれと訊いた。純哉は小学校に入ってから本格的に野球を始め、高校生になった今でも続けているのだという。

 幼稚園児だった彼が、今はもう高校生なのか。そう思うと、何とも感慨深く、胸がいっぱいになった。

『ごめんなさい、時間があまりなくて……。今日、テレビ、観てください。何時でもいいです。スポーツニュース。お願いします。おにいちゃんには、絶対観てほしいから』

 彼が早口でそこまでいうと、唐突に電話は切れてしまった。

「……スポーツニュース?」

 ツーツーと無機質な音を漏らす携帯電話を見つめながら首を傾げつつ、とりあえず彼のいうことだけはきいてみることにした。

 その日の夜、言われた通りに俺は適当にチャンネルを回してスポーツニュースを探した。テレビの中で、男性キャスターがやや興奮気味に語っている内容は――高校選抜野球、いわゆる甲子園の話題だ。もうそんな時期か、と画面を眺めながらぼんやりと考える。

『いやあ決勝戦、素晴らしかったですね! 特にエースのフジサワジュンヤ君の投球が――』

(ジュンヤ?)

 聞き覚えのある名にハッとする。画面に『フジサワジュンヤ』と呼ばれた選手と思われる映像が映し出された。健康的に灼けた肌、高い背丈、ユニフォームとグローブを身に着けてピッチに立つその真剣な表情は、どこかあの日の彼の面影を残している。名字こそ違いはすれ、それは確かに俺の知っている純哉だった。しかもその男性キャスターが言うには、純哉は、今日行われた高校選抜野球決勝戦で見事勝利を勝ち取った、優勝校のエースピッチャーだという。元プロ野球選手という肩書きを持ったコメンテーターは「彼は十年に一度の逸材ですよ」と褒めちぎっていた。

『じゃあ、ぼく、おおきくなったら、やきゅうせんしゅになる』

 十二年前の彼の言葉が甦る。

「あ、電話……!」

 慌てて携帯電話の着信履歴を呼び出す。けれど一番上にあるのは『公衆電話』の文字。落胆に肩が落ちる。何度画面を見直しても、彼からの着信が公衆電話からのものであったことは変わらない。他には何も彼の連絡先を知らないのだから、もうどうしようもない。おめでとうと、ただ一言伝えたかったのに。

「あれ……」

 俺は不意に、あることに気付いた。電話を受けた時間だ。

「朝、七時半?」

 決勝戦は、今朝九時から行われたらしい。そうすると、この電話は、試合の直前にかけられたということになる。まだ試合も始まらないうちから、彼は必ず勝つという気で、公衆電話に向かったのか。

 俺は携帯電話の画面と、テレビに映し出された彼が投球する姿を、交互に見比べた。自然と笑いがこぼれてくる。

「はあ、あの純哉君が……本当に、大きくなったなあ……」

 気付けば俺は、笑いながら泣いていた。

 彼の成長が、ただただ嬉しかった。

 そして彼から再び電話があったのは、それから半年後の二月――今から一週間前のこと。

 その電話口で、唐突に彼は『次の土曜の夜、泊めて欲しい』と言ってきたのだ。全く事情も分からないまま特に予定もなかったので了承すると、俺の住むアパートの場所だけを訊いて、そそくさと電話を切ってしまった。

 そして昨日の夜、彼は本当に俺の前に現れた。

「おはよう。よく眠れた?」

 俺が尋ねると、彼は目をこすりながら、

「いえ、あまり……」

 はにかんだように笑う。

「昨日、遅くまで喋ってたからなあ」

 昨晩彼がこの部屋にやって来たのは、九時過ぎてからだった。夜だというのにまだ彼は学生服を着ていて、急いでいたのか随分と息を切らしていた。食事は、と訊けば、昼から食べてないという。話もそこそこに適当に食事を作ってやり、風呂に入らせ、来客用の布団を敷いたところでようやく落ち着いて、そこで話に花が咲いた。

 互いに、あの日以降の暮らしについて喋ってみたり、趣味や聴いている音楽の話だとか、もちろん野球の話もした。そうしているうちにすっかり深夜を回っていて、それに気付いて慌てて就寝した。

 俺とて、彼と一緒で、彼と再会した興奮のせいか実際のところはあまりよく眠れていなかったのだが、それはあえて言わないでおく。

「おにいちゃん」

 彼に呼ばれ、何だか恥ずかしい気持ちになる。何しろもう、三十にもなるのだ。それに、純哉だってもう小さなこどもじゃない。『おにいちゃん』という呼び名が、自分たちには何ともアンバランスに感じられた。そういえば、彼に自分の名前を教えていなかったような気がする。十二年も経って、今更だけれど。

「ん?」

「テレビをつけてもいいですか」

 ベッドサイドに置かれていた目覚まし時計をちらと確認すると、彼は部屋の隅に置かれていた小型の液晶テレビを指さして尋ねてくる。俺は頷いて、リモコンを彼に手渡した。

 テレビに電源が入り、彼がいくつかチャンネルを回す。今日は日曜日だから、今の時間にやっているのはこども向けの特撮番組かニュース番組ぐらいだろう。彼が選んだのも、そのいくつかのニュース番組のうちのひとつだった。

「ニュース、観るんだ?」

 俺が訊くと、

「もうすぐ、スポーツニュースの時間なんです」

 テレビ画面を見つめたまま、彼は言った。

 彼がいやに真剣にテレビを観るものだから、なんとなく俺も同じように画面に目を移す。

『続いては、スポーツニュースです』

 女性キャスターが、勢いのある声でこの後に続くコーナーを紹介した。

 まずサッカーやテニス、ゴルフなどの試合結果が流れる。その間も、純哉は画面から目を逸さない。

『それでは、プロ野球の話題です』

「あれ……!?』

 俺はテレビに映し出された映像を目にして、思わず声をあげた。そして、隣にいる純哉に視線を向ける。先ほどまであれほどテレビを食い入るように見つめていたというのに、彼は照れ臭そうに俯いていた。

 映ったのは、プロ野球チームの新人選手入団会見の様子。そしてその会見場の中心でカメラのフラッシュを浴びているのは、他でもない、純哉だ。

 本当に、正真正銘の野球選手になってしまったのか、彼は。

 驚きつつ、俺は再び会見の映像を見つめる。画面の右上に『昨日五時』と字幕が入っているのに気付く。会見場は、おそらく都内だろう。昨晩九時過ぎには、彼は俺のところにいたのだから、彼は会見が終わってすぐ俺のアパートに向かったことになる。

(なんで、そんな)

 テレビの中の彼が、まっすぐな目で、画面越しに俺を見ていた。

『――僕は、僕の大切の人のために、これまで野球を続けてきました。そしてこれからも、そうしたいと思っています――』

 彼の言葉に、会見場にどよめきが起こる。

『大切な人というのは、もしかして恋人でしょうか?』

 そして記者のひとりが質問を投げかけると、彼は困ったような顔を浮かべ、

『そうなれば、いいなと思います』

 ふわりと微笑んで、ゆっくりとそう答えた。そこで画面は真っ暗になってしまった。純哉が電源を落としたのだ。

 俺の顔は、恐らく真っ赤になっているだろう。なぜなら、思い出してしまったからだ。今まで忘れていた、あの日の――十二年前の彼との約束を。

 どうして、これまで忘れていたのだろう。彼は、この約束のために、きっと必死に野球を続けてきたのだ。

「おにいちゃん」

「…………うん」

 彼は俺の方に向き直って座り、再び俺を呼んだ。俺はというと、気恥ずかしくて、ベッドの上で上半身を起こした姿勢のまま、顔をあげることができない。

 部屋の中があまりにも静か過ぎて、速くなった胸の鼓動が彼に伝わってしまうんじゃないかと、気が気じゃなかった。

「おにいちゃんがそばにいてくれたから、僕はこれまで、頑張れたんです。あの時の思い出だけが、ずっと僕の支えだった」

「…………」

 何も言葉を発することができなかった。いや、何かを口に出すべきではないと感じていた。視界の端で、握りしめられた彼の拳が震えていたから。

「あの約束を守ることができたら、言おうと思っていたことがあるんです。聞いて、くれますか?」

 どんな顔で、彼を見ればいい。

 胸をくすぐるこの感覚は、一体何なのだろう。

 初めて俺は、彼が俺に伝えるより先に、彼の想いを知った気がした。

 返事もせず、頷きもせず、俺はただ、俯いたまま彼へと右手を伸ばす。すぐにそれが、彼の両手で包まれた。固く、そして温かい、大きな手だった。

「ずっと、ずっと前から、僕はおにいちゃんのことが――」

 遠い日、今はセピア色に染まってしまった秋の夕暮れに、交わした約束。

『ぜったいやきゅうせんしゅになるよ。だから、おにいちゃん、そうなったら、もうどこにもいかないってやくそくしてくれる?』

 あの時、俺はなんて返事をしたんだっけ。

 それはやっぱり思い出せないけれど、でも、出せる答えなんてたぶん、ひとつしかない。

 右手に感じる彼のぬくもりは、くすぐったくも、なんとなく心地よかった。

(了)

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