十二年越しの約束

 

 懐かしい思い出は、今ではもう記憶の奥底でセピア色に染まっている。

『ボールを投げるの、すごく上手だね。純哉君は』

『ほんとう?』

『本当だよ。野球選手になれるんじゃないかな』

『じゃあ、ぼく、おおきくなったら、やきゅうせんしゅになる』

『それなら、これからいっぱい練習しないとね』

『うん。れんしゅうして、ぜったいやきゅうせんしゅになるよ。だから、おにいちゃん――』

 ああ、彼はあの時、何と言ったのだっけ。

 ベッドの上で上半身を起こし、ぼんやりとした頭で思考する。けれどいつもそれを思い出すことができないでいた。

 最近、やけに昔の夢を見る。それは、昔、というぼんやりとした言葉よりは、もっとはっきりとした過去の出来事だ。

 * * *

 あれは俺がまだ、高校二年生の頃のことだった。学校の行事で職場体験というものがあり、どういう経緯だったかは忘れてしまったが、俺は他の数人の同級生と共に、近くの幼稚園に行くことになっていた。そこで一日、保育士の仕事を体験するのだ。別に、その時は保育士になりたいと思っていたわけでもなく、むしろ小さいこどもはあまり好きではなかった。騒ぐし、突然泣き喚いたかと思えば、平気な顔をして嘘をつく。当時の俺には、そんなこともたちに囲まれて過ごすこの実習が心底面倒に思えていて、適当に実習を終わらせて、早く帰りたいと思っていた。

 園児たちの学習の時間を見学してから、いよいよ俺たちが園児たちと触れ合う時間になった。大勢のこどもが、珍しい来訪者たちに興味津々で、足元はすぐにこどもたちでわちゃわちゃと埋めつくされていく。そんな中、園庭の隅で、彼はひとりブランコに乗っていた。その背中が幼稚園児というのにやけに悲しげで、それがいやに目についたのだ。

「あの子は? 一緒に遊ばないの?」

 と、思わず周囲に園児に尋ねれば、

「んー、じゅんやくんといてもたのしくないんだもん」

 ひとりの園児が頬を膨らませてそう言った。学校が社会の縮図とはよく言ったものだが、幼稚園から既にそうであるらしい。彼は、幼稚園児にして、周囲から切り捨てられた存在であったのだ。

 興味があった、と言えば、聞こえが悪いかもしれない。それでも、自分と似たような境遇である彼のことが、俺は気になったのだ。

 俺自身、彼のようになる可能性をかつて内包していた。高校生だった俺が、周囲と首の皮一枚ほどの薄っぺらさで繋がっている程度のぎりぎりの交友関係を保っていたことは、他でもない自分自身が一番よく分かっていた。切り捨てられるのが恐ろしく、相手の顔色を見ながら、振り落とされないように必死にしがみついていたのだ。その手段は、興味のない話をさも興味ありげに聞くことであったり、相手より勉強や運動能力がやや劣っていると見せることであったりと様々だが、そうしてまで、輪の中に入っていたいと願っていた。――今思えば、それらは非常に下らない行為であったと失笑すらこぼれるのだが、その当時としては、切り捨てられることはいじめの対象になることと同義で、それが恐くて堪らず、致し方ない行動だったのだと思う。

 ともあれ、気付けば俺は足元の園児をかきわけ、彼の元に向かっていた。園児たちは、誰も後にはついてこなかった。

「えっと……純哉君?」

 ブランコを揺らす彼の胸元に、チューリップ型の赤い名札が付けられていた。そこには幼稚園児にしては珍しく『道中純哉』と漢字で名前が記されていた。その上に小さく読み仮名が振られている。名を呼ばれ、じっとりとした目で彼は俺を見た。

 あまりに悲しげなその目に、俺は少なからず動揺した。

 その日、結局彼と話をすることはできないまま、実習の時間は終わってしまった。けれど俺は、どうしても彼のことが気になっていた。いや、彼のあの目が、そういう気にさせていた。

 俺は教師に頼み込み、幼稚園側と連絡を取ってもらって、一週間後の放課後、個人的にもう一度幼稚園を訪問した。

 高校の授業が終わると、時間は既に四時前だ。幼稚園の園舎で最初に園長に挨拶をしてから、園庭に出る。そこには迎えの遅い数人の園児しか残っていなかった。そしてその中に、彼はいた。またひとり、ブランコに乗っていた。

「こんにちは」

 彼は何も言わずにちらとこちらを見やってから、俯いた。

「純哉君、ブランコ好きなの?」

 俺は隣のブランコに座って、彼に話しかけた。なるべく自然に、彼を警戒させないように。

「べつに」

 ぽつりと彼は呟いた。

「じゃあ、好きな遊びはなにかある?」

 新たな問いに、彼は答えなかった。ぐっと押し黙ってしまって、そのうちどこかへ走り去ってしまった。

(だめかあ)

 肩をすくめ、俺は園長に礼を言うために再び園舎へと向かった。

 園長は気の良い年配の女性で、俺に茶と菓子を勧めてきた。

「あの子に気をかけてくれる人がいて、すごく嬉しいの」

 園長は、自身も茶をすすりながら、上品な微笑を浮かべて言った。

「純哉君ですか」

 聞き返すと、彼女は小さく頷く。

「本当はもっと、明るい子なのよ。でも、ご両親が離婚してから、随分と塞ぎこんでしまって……今ではああやって、いつもひとりでいることが多いの。周りの子たちも、自然と純哉君を避けているみたいで。良かったら、これからも純哉君に会いにきてあげてくださいね」

 思えば、園児のプライバシーを赤の他人に漏らすなんて、彼女のあまりの口の軽さを糾弾するべきだったのかもしれない。けれどその時、俺は彼女がもたらしてくれた情報に、間違いなく感謝をしていた。

 それから俺は、毎日のように純哉の元を訪れるようになった。放課後幼稚園に通い詰め始めた俺のことを、周囲は「幼児趣味だ」と囃し立てた。

 そのうちにあれほど必死にしがみついていた場所に立つ奴らから、随分遠巻きに見られていることに気付いたが、もはやそんなことはどうでもよくなっていた。クラスの中でもかなり浮いた存在になっていたと思う。けれど本当に、それらは些細なことだった。

 純哉は晴れの日は決まってブランコにいて、雨の日は園舎の自分の席に、じっと座っていた。俺はいつもそのすぐ隣に座って、彼に話しかけた。

 そんな日々が、一年以上も続いた頃だ。

 高校三年の秋。よく晴れた金曜日のことだった。大学進学を決めた俺は、そろそろ本格的に受験勉強に打ち込まなくてはならない時分になっていた。

「もうすぐ、ここにも来られなくなるかもなあ」

 いつものように並んでブランコに座り、俺は何気なくそう呟いた。

「え……」

 彼はブランコを揺らすのをやめ、その瞳に明らかな動揺の色を浮かべている。

「どっか、いくの」

 縋るような目で見つめられ、内心、しまったと感じた。

 本当に、軽い気持ちで言ってしまっただけで、決して彼にそんな目をさせるつもりではなかったからだ。父親が急にいなくなってしまったという彼には、酷な言葉だったかもしれない。

「そういうわけじゃ」

 慌てて弁解すると、

「いやだ! いかないで!」

 跳ぶようにブランコを降りた純哉が、俺の足にひしとしがみついてきた。その背はぷるぷると震えていて、すぐに涙を堪えているのだと分かった。彼が明らさまに感情を顕にしたのは、これが初めてのことだったので、驚きと同時に妙な嬉しさを覚えたのを記憶している。俺はその小さな背を撫でながら、努めて穏やかな声を作って言った。

「ごめん。どこにも行かないよ」

 俺の言葉に、彼は堰を切ったように、声をあげて泣き始めた。

 

「純哉君、キャッチボールしない?」

 次の日、俺は彼にそう提案した。青い色をした柔らかい幼児用のゴムボールを差し出した俺を、いつものようにブランコに腰掛けていた純哉は困ったような顔で見ていた。

 特に考えがあったわけではない。ただ、体を動かせば、彼の不安も少しは紛れるのではないかと思ったのだ。彼との距離がやや縮まったとはいえ、もちろんこの申し出をすぐに受け入れてくれるなんて甘い考えは持っていなかった。けれど意外なことに、彼は小さく頷くと、ブランコを降りて俺の手からボールを受け取ってくれた。

 十数メートルほどふたりの間をとり、俺は彼の背に合わせて膝を折る。

 彼はボールを持った右手を大きく振ってみせた。

「いいよ」

 軽く促すと、彼は俺に向かってボールを投げる。

(あれ……?)

 ボールはワンバウンドしながらも、真直と俺の手の中に収まった。彼は随分と、ボールを投げることに慣れているようだ。投げ方も、拙いながら野球選手のフォームを真似ているように見えた。誰かに習ったのだろうか。――例えば、いなくなってしまった彼の父親。

 今度は俺がボールを投げ返すと、ゆるい弧を描いて、彼がしっかりとそれをキャッチする。そして再び投げる。時々彼に声をかけながら俺たちはキャッチボールを繰り返した。

 それがひと月ほど続いた頃、純哉の表情はすっかり和らいでいた。時折笑顔を見せ、以前のような影のある表情を見せることもなくなっていた。最近ではキャッチボールに興味をひかれてか、迎えを待つ他の園児も仲間に加わることもあった。最初はぎこちなく接していた純哉も、そのうちに仲良く話をすることができるようになっていた。――そのことについては、後で園長に随分と礼を言われた――

 秋も終わりにさしかかると、幼稚園に顔を出せる日も少なくなっていた。

「おにいちゃん、あそぼ」

 久々に幼稚園を訪れた俺の元に、純哉は駆け寄ってきてボールを差し出した。

 その日はもう、純哉以外の園児は誰も残っていなかったため、俺たちはふたりでキャッチボールをすることになった。

 ひやりと乾いた空気がふたりを包んでいた。吐く息は白い。彼の小さな手は、寒さですぐに赤くなっていく。

「寒いし、もうやめようか。風邪ひくよ」

 見兼ねてそう声をかけると、

「やだ」

 頬を膨らませて彼は短く言った。

「でも、純哉君……」

「やだったらやだ! まだあそぶ!」

 地団太を踏んで、彼は大きな声をあげた。

「また今度、遊ぼうよ」

 彼のそばに歩みより、しゃがみこんでその小さな肩をとんと叩く。すると彼は、顔をくしゃくしゃにして、

「でも、おにいちゃんも、どっかいっちゃうんでしょ」

 絞り出すような声で言った。すぐに涙が彼の頬を伝って、地面にぱたぱたと落ちていく。

 がん、と頭を殴られたような衝撃があった。

 確かに彼が言うように、俺が幼稚園を訪れるのは、この日が最後だったからだ。これから来年にかけて、益々受験勉強に打ち込まなくてはならず、とても幼稚園に来るような時間はとれない。それに、県内とはいえこの幼稚園からは離れた場所にある大学に進学するつもりでいたので、受験が終わってももう彼に会う機会はないだろうと思っていた。純哉も他の園児に馴染めるようになったので、俺としてはもう何の心配もなかったのだ。

 けれど、それは俺の事情だ。純哉からしてみれば、俺は彼を置き去りにしていった彼の父親と何ら変わりない。

 何と言っていいか分からなかった。もう「どこにもいかない」なんて、そんな嘘がつけるはずもなかった。

「……じゃあ、もう少しだけ、やろうか」

 肯定も否定もせず、制服のポケットから取り出したハンカチでこぼれる涙を拭ってやりながら、俺は言った。その言葉に、彼は大きく一度、頷いた。

 それからしばらく、また俺たちはキャッチボールをした。ふたりとも、一言も喋ることなく、淡々とボールを投げ続けた。彼のボールは、もう地面にぶつからずに俺の手に届くようになっていた。

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