名無しのウサギは如何に啼く

 飼い主が死んだ。彼の目の前で。
 違法な薬物に溺れ、結果、惨めに老いた裸身を晒したまま、皮膚の弛んだ胸元を掻きむしりながら、苦しみ悶えて死んでいった。
 ざまあない、と思いはすれど、彼はそれを声にはできない。飼い主に愛玩用として買われてすぐ「人の言葉を喋るな、動物ふぜいが」と吐き捨てられて以来、彼が出した声といえば、身体を傷つけられる際に漏れるひきつった悲鳴か、薬によって強制的に発情させられてから行われていたそれによって引き出される、彼自身でさえ吐き気を催すような甘い鳴き声だけだ。
 ベッドの上で一切の動きを止めた醜い老体を、ぼうっと見下ろす。彼の頭に、逃げ出すという選択肢が思い浮かんだのは、空が二度明るくなったあと、雨の降る夜が訪れてからだった。

 遺伝子操作によって誕生した、人間と様々な獣の間の子である半獣ハーフ。それを量産品として産み出すこと、愛玩動物として扱うこと、どちらも歴とした合法行為だ。法律によって保護されているものは人間の権利のみ。国際的にも、その傾向が強まって久しい。彼も、そんな社会の流れによって産み出された半獣のひとりだ。
 半獣といえども姿は様々。獣に近い体躯を持つ者もいれば、身体の一部にのみ獣の特徴を残す者もいる。彼は後者だ。顔の側面に、人間の耳はない。代わりに、頭頂部に近いところから、白と茶の混じった体毛に覆われた長いウサギ耳が生えていた。普段は隠れているが、尾てい骨の辺りには小さな尻尾もある。
 彼のようなウサギの半獣――特に雄は、発情しやすい性質を持つため、好事家の間で性処理愛玩用として人気が高い。彼の飼い主も、そういった目的のために、何年にもわたって彼を飼育していた。

 彼が飼い主の屋敷を抜け出すのはごく簡単なことだ。飼い主は長く独居で、邪魔立てする者はない。ただ、問題はあった。彼はこれまで、飼い主の屋敷から出たことがない。まだ幼獣の頃から屋内飼いされていたからだ。長期間にわたって閉鎖的な環境で飼育されながら、主人に対して盲目的に従うだけの存在であり続けられなかったのは、屋敷に訪れる客人の相手を、彼が務めていたからに他ならない。
 性接待を受けた客人は、みな彼に優しかった。無体を強いたのは、唯一飼い主だけ。それゆえに、彼は気付いてしまった。飼い主の異常性に。
 だから、飼い主の亡骸を前に泣きもせず、すがりもせず、ただ逃げた。何も知らない世界への恐怖すら覚える間もなく。

 雨で濡れた衣服が、肌に張りつく。それを不快だと感じるだけの気力も、一歩先に足を進める体力も、彼にはもう残っていない。ぽつんと立つ街灯の下に、崩れるように座り込む。
 屋敷を出てから、一体どれだけの時間、どの方向に走ったのかも判らない。
 酷く身体が重かった。腹も減っている気がする。飼い主が死んでから、睡眠も食事も摂っていないことを、彼は今更ながら思い出した。
 自身の状況を認識した途端、強烈な睡魔が襲いかかる。疲労も重なれば、それに抗えるはずもない。
「――み、きみ――」
 一瞬か、それともいくらか長い時間か。彼が手放した意識を、誰かの声がそっと引き寄せる。
 身体の左半分が僅かに痛む。硬い地面に、いつのまにか彼は横倒しになっていた。長い耳が、やけに冷たい。水溜まりにでも浸かっているのだろうか。ぼんやりとした頭で、彼はそんなことを思う。まぶたが重い。それを何とかうっすらと開く。夜の闇を背景に、ぼやけた肌色が目に映る。屋敷で毎日のように見ていたその色。獣の特徴を一切持たないシルエット。
「よかった、生きてた」
 人間は、どうやら男であるらしい。穏やかな低音が、濡れた身体にじわりと染み入る。最後に聞いた人間の声が、死に至る飼い主の呻きだったためか、男が発する生の証明は、彼を酷く安堵させた。
 身体をうまく動かせず、地面の上でもたついていると、男が彼の腕を引き、背中に手を添えてくれる。
 何とか上半身だけ起こしたが、頭がぐらついて立てそうもない。そのまま地面に座っていると、
「きみ、喋れる?」
 男がしゃがみこみ、視線を合わせて問うた。彼は首を左右に振って答える。
「でも、ぼくが言ってることは解るんだね?」
 頷いて、肯定。
 ようやく視界が明瞭になってくる。
 男は透明な傘を差していて、暗色のスーツを身に付けていた。顔の肌色だけが目についたのはこのためだろう。若くはない。かといって、飼い主のように老いているわけでもなかった。
「賢い子」
 ふ、と男の口許が緩んだ。空いた手で、彼の顔に張りついた前髪を避けながら、五指の背で額を撫でてくる。温かいその感触。優しい手つき。飼い主には、一度だってされたことのない触れ方。胸のあたりが酷く苦しい。しかしそれは決して不快ではなかった。
「もしかして、ご主人さまに置いていかれたの?」
 男の言葉に、彼は得心した。ある意味、そうなのかもしれない、と。
 飼い主は死んだのだ。それを先立たれたと表現するなれば、彼は間違いなく『置いていかれた』のだろう。
 半獣は人間より短命だ。それゆえ、主人より先に生を全うする個体のほうが圧倒的多数である。くわえて、半獣の管理飼育には届け出が必要だ。単体で出歩く半獣がいれば、それはほぼ主人に捨て置かれた個体に違いない。
 彼はもう一度頷いた。
「そう……」
 男は、暫く彼をじっと見つめ、それから、傘を差し出してくる。
「ねえ、きみさえよければ、うちに来ない?」
 彼の頭上で、雨粒が透明なビニール傘を叩く音。無数の水滴が、街灯の光を纏って煌めいた。
 
 男に連れられて辿り着いたのは、高層マンションだった。埃や汚れなど、この世に存在していないとばかりに磨きあげられた壁や床。こんな場所に、ずぶ濡れの半獣が足を踏み入れるなど。彼の気後れに、しかし男は気付いている様子もなく、また、床が汚れることもさして気にも留めず、彼をエレベーターへと導く。
 男の誘いに乗ったのは、断る理由がなかったからにすぎない。男がどういった性質の人間なのかは知れないが、どのような目に遭おうとも、地面に転がったまま野垂れ死ぬより、屋根のある場所で死んだほうが、幾分かマシだった。
 ふ、と考える。そういえば、飼い主の家にも屋根はあったな、と。しかし、惨めな裸体が朽ちていくそばで死ぬのは、やっぱり嫌だ、と思いつきを打ち消すように頭を振った。
 エレベーターは、ふたりを最上階へと運んだ。
 降り立ったフロアには、ドアがひとつ。どうやらここ以外に部屋はないらしい。
「ここだよ」
 男はちらと彼のほうを振り返りつつ、カードキーをドアにかざした。かちゃりとロックが外れる音がして、ドアが開く。どうぞ、と促されるままに、男の背を追って室内に足を踏み入れる。
 玄関で男が靴を脱ぐ。彼は靴を履いていない。そもそも、靴自体を与えられていなかった。玄関から伸びる廊下も、当然のように綺麗に掃除がされていて、汚れた足でそこに上がることは、さすがに憚られた。
 その場に立ち竦んでいると、男が「大丈夫、気にしないで」と微笑んで、また彼の額を撫でてくる。酷く心地好い。身体がどことなく、ふわふわとする。男が彼の手を引いた。汚れた素足が床を踏む。黒く汚れてしまったそこを見て、彼は思わず男の表情を窺った。しかし、浮かべた微笑は少しだって崩れていない。
 廊下の突き当たりのドアを開けるなり、彼は僅かに眉をひそめた。――獣のにおいがする。勿論、自分以外の。彼はこれまで屋敷から出たことはなかったから、他の半獣を目にしたことがない。それゆえ、この部屋から感じるにおいが、彼の本能的な警戒感を、限界まで高めた。
「ただいま」
 ドアの手前で身を固くして立ち止まる彼をよそに、男は部屋の中へ進んでいく。男の周りに、誰かが近寄ってきた。全部で四人。その外見から、みな半獣であることがすぐに知れた。
「おかえりなさい〜」
 真っ先に声をかけてきたのは、快活そうな少年の容貌をした半獣。頭には黒い毛並みの耳がピンと立ち、半ズボンの後ろから伸びた、耳と同じ毛色のふさふさとした尻尾を大きく振って、喜色を全身で表している。
「おかえり」
 次いで声を発した者の目を見て、彼は緊張をさらに強くした。
 真っ赤な目、細長い瞳孔。薄く開いた口から覗く、二股に分かれた舌。細身の長身に、グレーの長髪。同色の細かい鱗が、衣服から覗く皮膚を覆っている。
「遅いよ、何やってンの」
 割って入ったのは、白黒茶の斑の毛色をした耳と尻尾を持つ青年だ。両耳には、大きな切れ込みが入っている。ふわふわと緩くウェーブした淡い茶色の髪の下、つり上がった目は如何にも青年の性格を象徴しているようだった。
「……誠司、飯は」
 少し遠巻きに声をかけたのは、獣の特徴を色濃く残した半獣。天井に頭が届くのではないかと思うほどの身長にくわえ、身体の幅も他の半獣たちより倍以上は大きい。巨体は顎の下まで濃い体毛で包まれていて、獣のにおいも一番強い。硬い表情を作る顔の左側には、まぶたを縦に裂くように大きな傷がある。閉じたままの目は、機能を失っているのだろう。そんな一見近寄りがたい印象を払拭するように、頭頂部には、くるんと丸い小さな耳がふたつ。
「ん、まだ」
 男――誠司が答えると、鱗に覆われた蛇と思わしき半獣が、テーブルを指し示す。そこにはひとり分の食事が並んでいた。
「温めてある」
「ありがとう、グレ。みんなは?」
「あとは誠司だけだ。……いや」
 グレ、と呼ばれた半獣が、部屋の入り口で佇む彼に視線を寄越す。突然向けられた赤い眼に、僅かに混じる捕食者の気配。それを本能的に感じとり、彼の身体が強張った。
「お前は?」
 尋ねられ、暫くは意味を理解できなかった。グレを見返し、それからゆっくりと誠司に視線をやって、そこでようやく、食事のことを訊かれているのだと気付く。慌てて頭を振る。
「そうか。食べられないものは?」
 再びの質問に、答えに窮した。そもそも、喋り方を忘れてしまっているのだから、返答どころの話ではない。それでも、食べられないもの、というのが彼にはよく判らず、考え込んでしまう。
 何しろ、彼がこれまでまともに口にしたことがあるのは、半獣飼育用フードぐらいなものだ。時折、飼い主の気まぐれで人間の食事のおこぼれを与えられたこともあったが、それが何であったかなど彼が知るところではない。ただ、飼育用フードより、油ぎっていて、味も濃く、しかし美味かったことだけは覚えている。
「……いい。適当に用意する」
 彼の様子を察してか、グレは静かに言ってキッチンへと向かっていった。それを見送った誠司の表情が、柔らかく崩れる。
「愛想ないけど、いい子なんだよ」
 その言葉に、曖昧に頷く。誠司には懐いているようだし、確かに悪い人物ではないのだろう。だが、彼がウサギの遺伝子を持つがゆえの本能的忌避は、簡単に拭えそうになかった。
「なーに? 誠司、また新しいの拾ってきたのォ?」
「今度はどこに落ちてたの。誠司は捨てられっこ、よく見つけてくるねえ」
 外見からして、それぞれ猫と犬の獣人であろうふたりが、ぱたぱたと彼の周りに集まってきた。急に距離を詰められ、思わず後ずさる。
「ぼくはクーだよ。黒いからクー。君、名前はあるの?」
 少年が、人懐こい笑顔を見せる。ぱたぱたと揺れる尻尾が、少年の表情が本心からのものであることを物語っていた。
「あるわけナイでしょ。そこらに落ちてるような半獣に」
 反対に、胸の前で腕を組む猫半獣の青年が彼に向ける視線は冷ややかだ。尊大な態度の青年の頭を、誠司が軽く小突く。
「こら、ミケ」
 青年はムッとした表情で、誠司を睨んだ。
「ごめんね、賑やかで。彼らも帰るところがなくなった半獣なんだ。ここで一緒に暮らしてる」
「あの……」
 巨体の半獣が、のっそりと寄ってくる。ああ、と誠司が小さく頷く。
「彼はツキ。見ての通り、熊の半獣だよ」
 紹介され、彼とツキとが互いに会釈をした。
「ミケが酷いことを言った……。すまない、許してほしい」
 ツキは顔をあげるなりそう口にして、また深々と頭を下げる。
「ちょっと!」
 慌てた様子で声を上げたのは、ミケだ。
「ツキが謝る必要ないでしょ!」
 ツキの巨体を見上げ、目の前の厚い胸板を両の拳で駄々っ子のように叩く。怒りを呈しているようでいて、しかし顔色は酷く悪い。
「ミケ、しかし」
「ばか! ツキ!」
 興奮を宥めるためだろうか、ミケの両肩にツキが手を置いた。しかしそれは呆気なく振り払われる。
「ぼくよりそこの汚いウサギのほうが良いなら勝手にすればッ」
 ヒステリックな叫びが広いリビングに響く。踵を返して早足で去っていくミケの背を、ツキがのっそりとした足取りで追っていった。
 沈黙。キッチンで、食器が触れあう音がしている。
クーが、はっ、と傍目に大袈裟なほど身体を跳ねさせる。ミケが去っていくのを視線で追っていたのだろう。ちらと、誠司に目線を移動させたあと、彼の表情を伺うように顔を覗き込んできた。
「あのっ、お風呂とか着替えとか……ね! ご飯の前に、そうしよ? ぼく、すぐ準備してくるから!」
 一方的に告げて、クーもまた、ぱたぱたと足音をさせながら、キッチンの方向へ去っていった。
 クーの背中を見送ってから、誠司がくつくつと笑う。
「歓迎されてるねえ、きみ」
 向き直った誠司の手が、彼の頭へと伸ばされた。長い両耳の周辺を撫でられ、彼はまた、心地好さにうっとりとする。
 誠司に拾われ、知らない場所に連れてこられ、自分以外の半獣と顔を合わせる。初めての経験の連続に、緊張しきっていた身体から、一気に力が抜けていく。――何しろ、飼い主の死を目にしてから、まだ数日しか経過していない。いくら飼い主のことを好ましく思っていなかったとはいえ、彼の世界は、飼い主の屋敷だけだったのだ。一気に広がった世界を、ようやく頭が処理し始めたのか、彼は軽くめまいを覚えた。足元がふらつき、傾いた身体を、誠司が抱き止める。
「今日からここが、きみの家だよ」
 穏やかな声で語りかけられ、目の前の身体にすがりながら、彼は誠司の顔を見た。浮かべられているのは、あまりに穏やかな微笑。
 ――ああ、飼い主も、一度くらいはこんな表情を見せてくれていたなら。
 彼は、いまだ屋敷の床で、惨めたらしく孤独に横たわっているであろう老体のことを思い起こし、元飼い主の死を、この時初めて悼んだ。

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