静寂の中で逢いましょう

 澄香はゆらりと立ち上がる。音を立てないように、細心の注意を払った。

 数メートル。たった数メートルだ。カウンターへ向かう澄香は、たったそれだけの距離を無限のように感じた。覚束無い足元。雲を踏みしめているような不安定。ああ、ここは空なのか。そう考えることですべて合点がいく。澄香は、自身が生み出した空想の中に、未だ身を浸しているのだ。ともすれば、ここはやはりまだ、彼女が生み出した秩序と崩壊を取り巻く一連の事象の内なのか? この女生徒も、自分が作り出した秩序の(或いは崩壊の)一部なのではないかとすら、澄香は夢想する。そう、まさに夢想だ。それらが、決して現実であるはずがないのだから。

「あ……」

 女生徒の前まで辿り着く。声を掛けようとして、躊躇った。少しだけ声が漏れる。澄香には、目の前の彼女に掛ける適当な言葉が思いつかなかった。これまで自分が、クラスメイトとすらろくに喋ったことがないことを思い出す。カウンターの内の女生徒は、目前まで迫った澄香に、未だ気付く様子がない。

 にっこりと笑って『こんにちは』? ――意思に基づいた人工的な笑顔の作り方を、澄香は忘れていた――

 少し声を潜めて『すいません』? ――両耳を塞いだ目の前の女生徒に、聞こえるだろうか――

 それとも率直に『静かにしてください』? ――そんなことが、はたして今の澄香に言えるはずがあろうか――もはや澄香は、新たなる秩序の一信奉者なのだ。

 秩序の前にはすべてが屈する。否、屈しなくてはいけない。秩序の破壊を悦びとしていたことは、澄香の中ではもはや遠い過去に過ぎないのだった。

 不意に、女生徒が顔を上げた。髪が揺れる。当然のように身に着けた、澄香と揃いの紺のブレザー。真っ白なブラウスの胸元にはリボンタイ。冬の雪に映える椿と同じ色をしたそれは、彼女が三年生であることを示している。彼女は上目に澄香を見た。下を向いた長い睫毛を縫うようして送られる視線を感じ、澄香の頬が紅潮する。

「……本の貸し出し?」

 女生徒は立ち上がることなく、また特別に表情を作ることもなく、淡々と尋ねる。ふわりとした外見とは裏腹に、やや低めの声。澄香は、心臓を鋭利な刃先で抉られるような痛みを覚える。息ができない。

 女生徒が、イヤーフォンを外す。小さなふたつのスピーカーから、彼女が聴いていた音が溢れ出してくる。

 しゃらん、ららら、ど、ずずず、ず。

 おそらく定型の、しかし澄香にとっては極めて無定型な音の群。

 人の声。吠えるような男の。それはきっと日本語ではない。

 彼女の手元で、本が閉じられる。そこから吐き出される、彼女が抱いた幻想のかけらを澄香は見たかった。けれど痛む胸と詰まる呼吸を整えねばと必死になっている間に、それは消えた。

 女生徒は、そこで初めて眉根を寄せ、訝しげな表情を見せた。澄香がしきりに胸元を押えているのに気が付いたのだ。

 違う、と澄香は心の中で叫んだ。きっと、誤解を受けているのだと思った。気分が悪いとか、そんな風に。――そうではない。決してそうではないのだと、彼女に打ち明ける言葉を、澄香は早急に捻り出さなくてはならなかった。

「あ……の、音、が……」

「え、ああ。……ごめんなさい。うるさかった?」

 澄香が言うと、彼女はぱっと表情を戻し、カウンターの上に置かれた携帯型音楽プレイヤーのパネルを指先で操作した。無定型な音の洪水は、すぐに収まる。同時に澄香の呼吸も少しずつ楽になり、胸の痛みもすうとひいていく。彼女は肩をすくめた。

「本当にごめんなさい。図書委員なのに、こんなことじゃだめね。普段は人がほとんど来ないから、つい」

 言いながら、プレイヤーにイヤーフォンのコードが巻かれる。まとめられたそれらは、彼女の上着のポケットにしまわれた。

「私、静かな場所が苦手なの」

 彼女が苦笑混じりにそう漏らす。雨に濡れた鈴蘭が揺れる様を、澄香は想像した。

「……どうしてですか」

 無意識のうちに澄香は尋ねる。

「嫌でも無を感じるでしょう?」

 彼女が答える。冗談めかした口調だ。ふふ、と彼女は微笑した。首を少しかたむけて、彼女は澄香を見た。澄香もまた、彼女を見た。彼女の肌、髪、唇、首筋、指先、瞳――彼女を構成するすべてのものの正統性を、澄香は彼女に送る視線をもって肯定した。

「すっかり邪魔をしてしまったわね。もう静かにしているから、ゆっくりしていってね」

「あ、いえ。私こそ、ごめんなさい」

 再びテーブルにつくことを手のひらでそっと促され、澄香はおずおずと元の席へと戻った。椅子にかける直前に、ちらとカウンターを盗み見る。女生徒は既に本の世界へ没入しているようだった。その頬は、左側だけ陽光に照らされている。澄香の唇から、微かに溜息が漏れた。それに気付いて、慌てて自身の口を手で押える。無意識にこぼれた感嘆のそれが、はたして彼女に届いていたかどうか。

 それから十分ほど後、澄香はすっかり困惑しきっていた。読書用の長テーブルの上で改めて本を開いたものの、視線が文字をひとつたりとも捉えないのである。文字を追う。文字を拾う。意味を成した言葉を、飲み下す。一連の、もはや身に染みついているはずの流れが、今の澄香には酷く難しいことのように感じられていた。

 静寂が息苦しかった。耳が痛くなるような、現実感のまるでない静けさを、彼女は好んだはずだった。けれど、結局澄香は、破壊を前提とした静寂を愛したにすぎなかったのである。自分の指がページを捲る音がもたらす静寂の、秩序の崩壊を愛していたのだ。彼女が『シンデレラ』や『眠れる森の美女』、ましてや『人魚姫』の物語自体を愛していたわけではないように、彼女は決して静寂を愛してはいなかったのである。

 澄香は、微かな音をもって、静寂を殺さなければならなかった。けれど、そう思うたびに、澄香の視線はカウンターへと向かうのであった。カウンターの中では、女生徒が読書に耽っている。にもかかわらず、澄香がそちらに目をやると、彼女は決まってその視線に気付き、そして澄香に向かって微笑してみせるのであった。カウンターの中の彼女は、音も立てずにページを捲る。澄香の新たなる秩序たる美しき女生徒が、陰の信奉者である澄香との些細な約束を守るため、努めて静寂を守ろうとしているのだと、澄香は感じた。それが自身の独りよがりな思い込みだったとしても、構わないと思った。同時に、彼女は読書を通すことでしか飛び込めなかった空へ浮かび、そして海に沈んだ。だからこそ、澄香は、困惑せずにはいられなかったのである。

 浮遊。空が色を変えていく。燃える炎のような空が、桜の花弁が散りばめられたように斑に色づき、雪原が空いっぱいに広がったように輝き、そうしてその中心から、太陽に似た光が湧き出す。照らされた胸が、じわりと温かい。澄香はそこへと手を伸ばしたかった。

(だめよ、壊してしまいそう)

 空が、ぷつんと途絶えた。澄香は海へ墜ちる。

 そこは恐ろしく冷たい水で満たされている。それが身体にまとわりつき、身動きがとれない。ただ、沈んでいく。暗い場所へ。

『嫌でも無を感じるでしょう?』

 女生徒の言葉が、ようやく明瞭な形と的確な意味とを纏って澄香に届いた。

 誰もいない。何もない。空も、海も、夢も、現実もない。自分の存在すら。 

(ああ――これが、無)

 そう思考した瞬間、恐怖に――或いは歓喜に――ぶるりと全身が震えた。遠くでチャイムが鳴っていた。澄香はその音によって空想から脱する。五限目の予鈴だった。

 手元の本に目をやる。最初のページから、読書はまったく進んでいない。こんなことは初めてだった。澄香は肩を落とす。そして、また放課後に出直そうと決め、本を閉じた。本は既に、ただの本というものに過ぎなかった。そこに何の感慨を抱くことはない。席を立ち、それを書架の、本の本来の居場所へと納める。書架もまた、ただの書架であった。納められた本が丁寧に整頓された、ただの書架なのである。

「ねえ、あなた」

「え……」

 呼ばれ、振り返る。先程までカウンターの内側にいた女生徒が、澄香の方へ歩み寄って来ている。彼女が一歩、澄香に近付けば、その度に膝丈のプリーツスカートが広がり、膝頭が覗いた。紺のハイソックスに包まれた脚は細い。白い上履きの靴頭は、学年を表すリボンタイと同じ色をしている。その目が穏やかに細められている。口元には、微笑。

 彼女の歩みは、一体どれほどの早さであったか。それは澄香には分からない。ただ、随分と長い時間であったように感じられていた。永遠と錯覚するようなのったりと流れる時間の中では、身動きを取ることができなかった。澄香は書架を背にして、自然と女生徒と向き合う形になる。

「さっきも言ったけれど……私、静かな場所は苦手なの」

 女生徒は言った。

 澄香は頷いた。

「無を……感じるから」

 澄香の言葉に、女生徒は満足げに笑う。その姿が彷彿とさせるのは、やはり、濡れた鈴蘭。頬が熱い、と澄香は思う。

「ええ。――でもね、今日は平気だったわ」

 くすくす。鈴蘭が揺れる。

「……何故?」

 澄香は、そう尋ねなければいけなかった。対面に立った女生徒の瞳に、好奇と期待が滲んでいたからだ。

 澄香の背後にある、木製の書架の縁へ、女生徒が手をかけた。澄香と彼女の距離が、ぐっと縮まる。舞踏会で踊るシンデレラと王子の距離だ。

「あなたと、共有できたから」

 澄香の耳元へ唇を寄せて、彼女は囁く。

 身体の奥から、熱泉が湧く。それによって追い立てられた心臓が激しく脈打つ。とぷん、と脳が熱水に浸った。

「無を」

 熱に支配された澄香は答える。

「そう。無を」

 その甘い呼応が、澄香を壊した。彼女の中にある、深く沈んだ海も、高く飛んだ空も、秩序や破壊という概念も、すべて。

 互いに見つめあう。澄香の瞳に女生徒が映り、女生徒の瞳に澄香が映った。まるで合わせ鏡のように。

「きれい……」

 澄香はぽつりと呟いた。女生徒は答えず、代わりに澄香の頬に、軽く口付ける。それを合図にしたかのように、再びチャイムが鳴った。

「あの、また……」

 逢えますか。そう続けようとした澄香の唇に、そっと女生徒の指が押し当てられた。

「放課後、ここへ来て。そしてまた……静寂の中で、逢いましょう?」

 澄香は、ただゆっくりと頷いた。

 女生徒の指が澄香の唇から離れる。そしてそこへ重ねられる、艶やかな桜色の唇。

 静寂が、無が、ふたりを飲み込んでいく。

(了)

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