静寂の中で逢いましょう

 本が好きだ。静寂が好きだ。ページを捲る微かな音が静寂に融けていく瞬間が、堪らなく好きだ。

 澄香は、読書をする時間というもの自体を愛していた。幼い頃から、彼女はそういう性質だった。他のこどもと遊ぶより、本の世界に耽溺することをすすんで選ぶようなこどもだった。そのせいで、友人はほとんどいなかった。しかし、彼女が寂しいと思うことはない。何かしらの本がそばにあれば、彼女はそれだけで充分だったのだ。

 例えばそれが、物語でなくても構わない。極端にいえば、辞書の類だっていい。文字のひとつひとつが、行と行との僅かな空間、或いはページの上下左右に設けられた余白、そして下部に打たれたノンブルまでもが、澄香の脳内へとじわり滲むように浸透し、そうしてもって、彼女の乾いた心を満たすのだった。

 高校に入学して初めての昼休み、食事もそこそこに、澄香は教室とは別棟にある図書室へと足を運んだ。そこへと向かう渡り廊下や通路に、中学の時に彼女が聞いたような、下品で野性的な喧騒はない。それだけのことに安堵を覚える。女子高を選んで良かったと、改めて澄香は思った。

 共学であった中学時代は、校舎の端にあった図書室にいても、校内のどこからか男子の声が響いてきていたものだった。澄香は、それが嫌だった。この世の中に、あれほど意味がなく、そして腹立たしいものはないと思っていた。思春期の男子の声の中には、愚鈍さと、率直さ、無邪気さが混じり、そしてその奥から、芽生えたばかりの暴走しがちな雄の欲望が見え隠れしている。それが声を聞く側に明らさまに伝わるものだから、澄香は中学に上がってから、男子というものを嫌悪するようになっていた。それは小学生だった時には感じなかった、異性への拒絶だ。彼女もまた、彼女が嫌う男子と同じ、思春期を迎えた女子だった。

 とにかく、澄香は嫌悪する男子から逃れたい一心で、進学先に女子高を選んだ。特に悪い噂もない、比較的大人しい生徒が多いと聞く、カトリック系の高校だ。自宅からは、電車で二時間ほどと遠い。実際通い始めてみれば、この学校までの距離は早くも彼女を憂鬱にさせたが、しかし中学とは違う静かな昼休みを実感すると、そんなことはもはや何の問題でもなくなっていた。

 午前中に行われたオリエンテーションで既に図書室の位置は把握していたため、辿り着くために難はなかった。教室前の表示板で、そこが目的の場所であることを改めて確認してから、澄香は扉の引手に手をかけて横へ引く。レールの上を、扉が滑るように動いていく。重いビー玉が、床の上を転がっていく時に似た音がした。

 出入口の正面にはいくつもの窓。そこから緩やかな角度で、春の穏やかな陽射しが室内に差し込んでいた。澄香の立つ場所からだと、窓からの逆光で図書室はやや薄暗く目に映る。目を凝らして、視線を走らせる。右手には大きなテーブルが三つと、それぞれに対して幾つかずつの椅子が並んでいた。左手にはカウンター。係の生徒と思しき女生徒が、ぽつんと座っている。澄香とその生徒の他には、誰もいないようだ。

 本棚は、まず入口のすぐそばの右側に一列並んでいる。天井に届きそうなほどの高さだ。そこに納められているのは郷土史などを記した、見るからに古そうなものばかりだった。完全に日光を遮られているそこからは、ほのかにじっとりとした黴臭さが漂っている。そこに納められたどれを見ても、生徒が読むような本ではなさそうだった。カウンターの裏側にも幾つか本棚があるが、それも生徒用のものではないように見える。

 澄香はテーブルの方へと足を進めた。図書室の場所こそ知っていたが、実際に入室するのは初めてだ。三つ並んだテーブルの右奥に、また書架が並んでいる。それぞれ上部に『歴史』や『日本文学』などと書かれたプレートが貼られていた。

 それらに近付き、適当にそのうちのひとつの前に立つ。『心理・宗教』と書かれたその書架の、横五つに段区切りされた中には、見る者に安堵すら与える圧倒的な秩序があった。高さを揃えて並べられた本の群。それぞれの背に記された表題を一見すれば、それらが、その内容に基づいて整理されていることが分かる。ついと隣の書架に目を移す。そうして、澄香はそこにも同様の秩序を見出した。澄香の唇から、思わず感嘆の溜息が漏れる。胸が高鳴っていた。幼い頃に触れた童話の数々を思い出す。

『眠れる森の美女』『白雪姫』『シンデレラ』――すべてが予定調和で進行し、待ち受けているのは幸福なラストシーン。途中、姫に与えられた苦痛や試練すらが計算され尽くした美だ。そしてそれらは確かに秩序であり、まさにそれこそが絵や文を介して、幼き澄香を感動させていたのである。

 しかしその秩序を脅かすものがあった。『人魚姫』だ。この物語は、生まれて初めて澄香が触れた悲劇であった。まだ幼かった澄香には、この悲劇を理解することができず、極端に嫌った。その絵本を見ることすら、彼女を苛立たせた。何故なら、幼い彼女が知りうる秩序の中に、悲劇は存在しなかったからだ。理解の範疇外の事象に対して幼児が取れる行動はただひとつ、拒否である。そんな愚直な童心により、与えられたばかりの『人魚姫』の絵本はすぐに小さな本棚の裏へと隠されたのである。

 その本を再び澄香が手にしたのは、中学生になってから――彼女が、異性を嫌悪し始めてすぐのことだった。部屋の模様替えに際して再び目の前に現れた『人魚姫』の物語を、彼女は何気なしに辿った。幼き日にそれを毛嫌いしていたことは、今は懐かしい思い出となっていた。澄香自身ですら、あの嫌悪は、童心から生まれた愚かさの象徴であったと感じていたのである。

『人魚姫』は、海で助けた王子に恋をする。自らの美しき声を犠牲にしてまで王子に近付くが、結局その想いは叶わず、海の泡となって消える。何と残酷な悲劇であろうか。

 しかし澄香は、『眠れる森の美女』などに代表される幸福な結末の物語を読んだあの幼き日の感動を、時を経て再読することになったこの『人魚姫』の物語に覚えたのである。

 幼い彼女は、幸福な物語に秩序を感じた。それらが擁する予定調和のストーリーは、一種の様式美であったと言ってもいい。そして成長した彼女は、一度は嫌悪し投げ出した悲劇の中に、湖面に石礫を落とした際に浮かび上がるような波紋を、或いは真白きキャンバスに造作なく引かれた一本の黒い線を見出した。それは崩壊の美だ。疑う余地のない完璧な秩序を無惨に切り裂くナイフだ。澄香は、悲劇の中に、雛型通りの幸福を、そして欠陥のない秩序を、あえて崩すことへの意義を感じたのである。

 秩序を保持した完成された美とは反対に、それの自然的な崩壊或いは意図的な破壊によって生み出されるものこそ、価値のある美だと、澄香は思った。『人魚姫』の絵本は、今では本棚の裏から勉強机の引き出しに移され、宝物のように扱われている。 

 澄香は、書架に収まった秩序を構成する一部へと手を伸ばした。『日本の神話と思想』と題されたその書籍の天に触れる。人さし指に、綴じられた数百の紙の硬く冷たい感触。皮膚を介していくつもの筋のようなそれが脳に伝わる。ゆっくりと、指を鉤のように曲げていく。指が本の背にかかり、少し引いてやれば本はあっさりと傾いた。人さし指以外の四指で、表紙と裏表紙を挟むようにして掴む。

 秩序の崩壊。いまし方までその構成部品であったものが、澄香の手の中にあった。抜き取られた本の空白を埋めるように、隣り合った本が、ぱたと倒れた。本は秩序を何とか保持しようと必死に努めているようだったが、そこにもはや秩序などなく、また、破壊に伴う美すらもうそこに存在せず、あるのはただの本を収納した書架だった。

 現実世界の崩壊美は、刹那的なものだ。この一瞬の美を味わう瞬間以外の現実世界は、澄香には無意味でしかなかった。

 澄香は本を手に、近くのテーブルに並べられた椅子に掛けた。本を置く。表紙を捲る。目次を経て、本文へ。窓から差し込んだ光が、淡いクリーム色の紙を照らし、そこから文字を浮かび上がらせる。黒い文字が踊る。澄香の眼に吸い込まれていく。視神経の中をぞろりと這い進む。螺旋状に捻れながら。

『神は我らの中に在る』

 脳に到達した文字の群が意味を成す。頭の中に、心の中に、甘い湧水が出でるのを感じる。視線は次の一節へ。そして次の段へ。さらに次のページへ。紙が紙と擦れあう音。とぷん、と彼女の内の水が揺れる。浮遊感。恍惚。彼女が最も欲したものが、今ここにあった。静寂こそが彼女の秩序であり、それを壊すのが微かな紙の音なのであった。

(ああ、本を読んでいるのだ。私は今、本を読んでいる)

 極度の耽溺に伴う陶酔が澄香を襲った。

 得られる感覚が、家での読書とはまるで違うと彼女は思った。自宅の、自分だけしかいない部屋で静寂を作り出すことなど、あまりに容易だからだ。学校という、特定多数の人間が入り乱れる場所で生み出された奇跡的な静寂。そしてそれを自ら打ち破る快感。それらにこそ意味があるのだ、とも。

 そうして、彼女は言語という概念の空に浮かぶ。そして同時に、波立つ空想の海に沈む。

 空は自由だ。その端はどこにもなく、また確かにそこに空はあるのに、確とした姿はないのである。浮かぶ雲も同様だ。そして空の色もまたしかり。まだ物心つかないこどもの思考のように曇りなく鮮やかに澄んでいる時もあれば、第二次性徴期の少女の鬱屈した胸中のように燻んでいる時もある。終末を感じさせる不穏な、或いは希望に満ちた輝きを内包した、ある色が別の色へと移り変わるその諧調の儚く刹那的な美しさには、時に澄香は涙さえこぼすのであった。

 海は恐怖と好奇心の坩堝だ。まず浅い場所で鮮烈な世界を見る。陽光を浴びて燐く魚の鱗が、背鰭が、海面から深海へと吸い込まれる幾筋もの光矢が、彼女の心を踊らせる。しかし光を見た後、人は必ず闇に憧れるものだ。身体をゆっくりと沈め、そして闇に閉ざされたその深淵を垣間見る。それに指が達しそうになれば、眼を見開き、心臓は凍りつき、そして全身の皮膚を粟立たせながら慌てふためき浮上を願う。しかしそれは決して許されぬ。そうなれば最後、どこまでも沈んでいくしかない。光のない海の奥へ。

 これが、澄香にとっての読書の姿であり、彼女が最も愛する時間だった。

 不意に小さく、しゃん、と鳴った。鈴の音色から、小気味よい高らかさを奪ったような音だ。

 途端、海のただ中にぽっかりと黒い穴が空く。渦を巻いて、そこから水が抜けていく。空想の海は忽ちのうちに干上がってしまった。この海に底はない。彼女の海は、空なのである。水を失った海から、彼女は墜落する。逆さまになり、頭から落ちていく。空でも海でもない場所へ向かう、永遠とも思える落下。しゃん、と再び鳴った。否、それはもう、ずっと鳴り続けていた。空中或いは海中に、唐突に真っ黒な地面が現れる。避けることができず、澄香は強かに体を打ち付けた。

 しゃん。しゃらん。

 落下の衝撃に全身を震わせながらの、現実への回帰。正面から差し込む陽射しが、やたらと眩しく感じる。視界が激しく明滅している。眼窩の奥に鈍い痛みを伴う覚醒だった。思わず眉間を押える。脈が早い。胸に大きな岩がつかえたように苦しかった。

 しゃら、らら、ずず、しゃらら。

 乾いた音。重い音。湿った音。軽い音。それらが糸で紡がれたように連なっている。それらの音の連なりは微かだが、しかし確かに図書室内に存在した。

 澄香は眼球を抉り出したくなるような痛みを堪えて視線を室内に走らせ、秩序の不正規な破壊者を探した。破壊者は、あくまでも澄香自身でなくてはならなかった。

 澄香は貸し出しカウンターの内に、人の姿を見た。入室した時からそこに座っていた女生徒だ。その生徒は俯いている。手元には文庫本。彼女もまた、澄香と同じく読書に耽っていたのである。音は彼女の方から聞こえてくるようだった。

 ふわりと空気を孕んで緩く波打ったショートボブの黒髪は、午後の陽射しを浴びて絹のように艶やかだ。伏せ目がちなその視線は、物憂げな色に揺らいでいる。リップクリームでも塗っているのか、ぷっくりとした小さな唇は色形ともに桜のようだった。白い肌は、陽光で透けてしまいそうだ。近寄らずとも、拡大鏡を通したように、カウンター内の女生徒の姿をはっきりと澄香は捉えた。――その薄く儚げな皮膚で丹念に秘匿された内部まで、いっそ透かし見ることができたなら――澄香はふと、そんなことを考えた。女生徒は美しかった。澄香が抱いていた、不正規な破壊者に対する怒りなど、その美の下に一蹴された。この女生徒こそが真なる世界の秩序である。澄香が自分の内に作り出した秩序など、所詮空想の産物なのだといやが応でも認識させられるほどの、圧倒的な力をそれは持っていた。

 女生徒の柔らかげな髪の中、隠された両耳の辺りから、黒いコードが伸びている。二本のコードは彼女の胸元で一本になり、カウンターの上にある、小さな箱状のものに繋がっていた。携帯型音楽プレイヤーであることは、澄香にもすぐに分かった。そしてこれが、澄香を現実へと引き戻した張本人だろう。

 本を閉じる。表紙に押され、ページとページの隙間から、幻想の残り香がこぼれる。本の吐息。それは薄れたインクの匂い、陽射しで干された紙の匂い、そして僅かな黴臭さを伴っていた。

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