ほとんど止まっていたエアコンが、かたんと微かに音を立てた。リビングの室温が、ふたつの熱源によって上昇したせいなのか、その吹き出し口から涼風を送り出し始める。扇風機は相変わらず、誰もいない場所に向かって風の流れを生み出しつづけていた。

「僕は必死に見ないようにしてたのに。見せつけるようなことした、兄さんが悪いんだよ」

 真人は兄に向かって淡々と言葉を紡ぐ。

「ば……っ、そんなの知るわけ――」

 脱力した体で身じろいでみるが、真人も男だ。ろくに体を鍛えているわけでもなく、ましてや元々暑さで弱っていた真一が、簡単に彼の束縛から抜け出せるはずもなかった。

「まあ、気付かれないようにしてたのは確かだけどね。でも、僕はちゃんと忠告したんだし。だから、こうなるのは仕方ないんじゃない」

「っざけんな……――ッ」

「黙って」

 立てた人差し指を自分の唇に当て、真人がぴしゃりと言い切ると、真一も思わず口を噤んでしまう。普段なら、弟の言葉に屈するようなことは絶対にないというのに、ここでもまた、真一の体は懐柔された獣のように、弟の指示に逆らうことができなかった。

(何なんだよ……くそっ!)

 体内に篭る熱からくるのとは違う新たな苛立ちが、真一を支配する。やり場のない腹立たしさに顔が歪み、それを目にした真人がくすりと笑う。からかわれていたのか、と思いかけるが、けれど弟の目が少しも笑っていないことに気付いて、やはりこれは冗談などではないのだと、心の隅で勝手に期待し、そして落胆した。

「そんなに怖がらなくてもいいよ。大したことしないから。ちょっとだけ、触って、舐めるだけ」

 真人がひそやかに囁く。喋らないで欲しい、と真一は思う。ほとんど抱きしめられるような格好で、さらには胸元に顔を近付けて――扇風機の前でずっと引っ張っていたせいで、Tシャツの襟元は随分緩くなり、無防備なそこを弟の前に晒していた――いるものだから、彼が言葉を紡ぐ度にその息が薄い皮膚をくすぐるように撫でていく。そこから痺れに似た感覚が滲み出して、背を駆け抜け、腰のあたりで不可解な疼きを生み出していた。唇は震え、反論すらまともにできない。それに併せて、自身の支配から逃れた体は「さっさとこの身を委ねてしまえばいい」と、諦めの色をそこかしこから漂わせ始めていた。真一に残されているものといえば、もはや兄としての理性のみであった。

 不意に、明瞭とした感覚が、真一の脳を刺激する。それはほんの僅かな痛みだ。真人は、真一の、左側の鎖骨の真ん中あたりを、上下の歯先で挟むように軽く、二三度噛んだ。

 ぞっとした。真一は恐ろしかったのだ。弟が、ではない。自分の体が、だ。腰に、いや、下腹に、真一は明らかなる芽生えを感じていた。

「っく、だめだ……って、真人、こんな……!」

 右手の甲を口元に押し当て、声を殺す。「黙って」と弟に言われたからだ。しかし意識してそうしたのではなかった。真一の体が、新たな支配者の言葉に従順に従ったまでだった。

「だめ? 何で?」

 言いながら、真人が鎖骨の上部にある窪みに舌を這わせる。骨の上から触れるよりも、舌の柔らかさがはっきりと感じられた。その感触は甘い痺れへと変化し、じわりと広がる。目尻に涙が浮かぶ。自分の体はどうなってしまったのかいう不安。そして下腹に湧き上がり始めたささやかながら確かな熱を意識したことによる情けなさが、真一を苦しめていた。しかしそれすら、長続きしない。真一の思考を分断するように、熱い舌が、鎖骨の周辺を蹂躙しているからだ。

 真人は、子猫がミルクを飲むような音を立てて、そこに舌を這わせた。微かな水音が、真一の耳朶を侵す。耳道を伝うそれらは乱反射しながらのっそりと進み、耳道壁の内側から迷走神経を刺激する。体の芯が、どろりと融けて形を失ったような感覚を、真一は覚えた。

「どうしてだめなのか、教えてよ。兄さん」

 意地の悪い質問だ。しかしそれにも、嬌声じみた声とともに答える。 

「も……、きょうだい、だから……っ、これ以上……は、……ぁっ」

「はは、兄弟だからだめだって? 兄さん、何か勘違いしてるんじゃないの」

「な、に……って……」

 蜜の中に全身が浸かっているようだった。真一の耳には、弟の声が緩慢に肥大し、さらにぼやけて聞こえた。脳に達した言葉が意味を形作らないうちに、霧散していく。

 兄が自分の言葉を理解していないことは、その過度に潤んだ目や、暑さからではない頬の赤らみや、弾んだ息から、弟にも伝わったらしい。真人は、ひとつ、息を吐いた。それは幼児の失態を仕方なしと片付ける様に似ている。

「っ……はぁ」

 真人は、真一の耳元に口を寄せた。ゆっくりと開いたそこから、自然と熱い息が漏れ、焦らすような動きで外耳を撫でた。――ように、真一には感じられていた。だからこそ、彼の口からは甘い声がこぼれた。体は、決定的な刺激を、耳よりも、もっともっと下の方へと求めていた。喉が異様に渇いている。真一の肌は、外出から戻った時よりもずっと汗を滲ませていた。

「キスやセックスをするわけじゃないんだから、僕らが兄弟でも、何の問題もないでしょ?」

「ん……っ、――ふ……ぁ」

 真一を包んでいた甘い蜜が、真人の囁きを伴って、とろとろと耳の奥へと流れ込む。神経を、脳を、直接愛撫されるような快感に、真一の眼前が白く瞬く。だらしなく開いた口端から唾液が滴る。拭われないまま、それは顎へと伝い落ちていく。

「僕はただ、兄さんの鎖骨が好きなだけだから。――ああ、でも」

 元より、抱きあっているとも言えるような姿勢ではあった。互いにほとんど膝立ちで、弟は力の抜けた兄の体を支えながら、目の前にある鎖骨を弄んでいたのだ。だからふたりの体は、むしろ恋人同士の抱擁以上に密着の度合が高い。特に「下半身」は。

「ごめんね、兄さん。もしかして――期待させちゃった?」

 はしたなく熱を帯びた真一の官能に、真人はわざとらしい動きで、脚を軽く擦り付ける。

「ん――っ、ぁ、は、あっ……あああっ!」

 悦びに満ちた哭き声がリビングに響いた。真一にとっては、待ち望んだ刺激であった。肉体的にも、そして精神的にも。真一の肉体と精神とは、とっくに剥離していた。そうでありながらも、精神もそれに追従するかのように、本人すら知らぬうちに、肉体と同じ場所へと堕ち、さらには同様の欲を抱くにさえ至っていたのである。

「ね、兄さん。母さんが帰るまで、まだ時間はあるよ。……もっとしても、いいよね?」

 触れるか触れないかすれすれのところで、真人は兄の鎖骨の上を、指先で、右へ左へとなぞる。その声は僅かに掠れ、そして真夏の夜の空気に似た、ねっとりと絡みつくような熱っぽさがあった。そこには彼の、もはや隠そうとなどしていない欲望が、確かに姿を現していた。ふたりは今、欲そのものであり、そしてひとつの熱塊と化していた。

 焦点の定まらない目で弟の顔を視認しながら、真一は小さく頷く。

「…………る」

「ん」

 そして、戦慄く唇で何事かを呟いた。そこへと真人は、耳を寄せる。

「あとで…………シャワー、……浴びる」

 ほとんど吐息といっていいほどの声で、真一は言った。兄の言葉に、弟は満足そうに口元を歪める。

「うん。そうしてよ。……あとで、ね」

 そう返して、真人はまた、真一の胸元に顔を埋めた。しかし、唇から舌を覗かせるでなく、歯先でそこを甘噛みするでもない。しばし、そのままじっと動かずにいた。

 すると、真一が、焦れたように体を捩った。胴とともに真一の腕が動くと、それに併せて彼の鎖骨が、むくりと起き上がるように、はっきりと皮膚に浮き上がる。

 真人はそれを確認すると、すかさず大きく口を開いた。そうして、彼を魅了してやまぬそこへと、獣のように、素早く、強く、歯をたてる。その荒々しさ、痛み、そして乱暴に肌に触れる眼鏡フレームの無機質さすら、真一自身の、飽くことない欲を昂ぶらせるのであった。

(了)

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