今年の夏は、異様に暑い。雨はもうひと月ほど降っておらず、地面はどこもからからに乾いていた。それなのに空気だけはねっとりと肌に張りつくような湿り気を帯びていて、不快感を煽る。テレビでも、この気候を連日『今世紀一番の暑さ』なんて大げさに報道している。そのしつこさがまた、この暑さに対する視聴者の苛立ちを募らせるのだ。

「あつい……」

 真一も、その今世紀一番の暑さに苛立つひとりだった。

 フローリングの床に直に胡座をかいて、目の前の扇風機に向かって気怠げに声を発する。すると宇宙人のように妙な揺らぎを帯びたそれが、真一の耳に届いた。

 室内は、冷房が効いていないわけではなかった。けれど、今の真一には冷房だけでは物足りず、押入から、昔使っていた扇風機をこのリビングまで引っ張り出してきていた。

 Tシャツの襟元を指先で引っ張り、胸元に開けたスペースに、扇風機が造りだした、お世辞にも冷たいともいえない風を送り込む。汗をかいた肌に、布地がべとりとはりついている。送風程度では到底拭い去ることのできない不快感が、真一にまとわりついていた。

 真一は、つい先ほど外出から戻ったばかりだった。

 八月に入ってから、いくら夏休みといえど、決まりきった夏遊びの数々には、真一はすっかり飽き果てていてた。そこにうんざりするような暑さも手伝い、ここのところ真一は友人の誘いすら断り、一日中家で寝ているか、テレビゲームに興じるような日が続いていた。そんな毎日に、再び彼が飽きるまでには一週間もかからなかった。

 そんな日々に、ほんの少し、刺激を求めたつもりだったのかもしれない。今日の午後になってから、真一はふと思い立ち、近くのコンビニへ行くことにした。炭酸飲料が飲みたいというそれらしい名目を立て、徒歩で向かった。

 本人にしてみれば、三十分ほどで戻るつもりだったのだが、結局帰宅したのは二時間後。原因は、そのコンビニで同じクラスの女子と鉢合わせしてしまって、長々と立ち話をしてしまったことにあった。とはいえ、真一はほとんど相槌を打つだけで、女子の方はというと夏休み中に仕入れたクラスメイトの噂話やクラブ活動の愚痴などを喋るだけ喋ってから、すっきりした顔をして満足そうに帰っていった。炎天下のコンビニの駐車場で散々付き合わされたせいで、彼が提げたレジ袋の中で、買ったばかりの炭酸飲料はすっかり温くなってしまっていた。せめて店内で話せばよかったと思っても、もはや遅い。

 そういったこともあって、真一は全身から汗を流しつつ、この暑さを怨みながら、芯まで燃えているような体の火照りを拭い去ろうと必死だった。買ってきた炭酸飲料はもう飲めるはずもなく、テーブルの上に適当に転がされている。

「この暑さが続くなら、今すぐ世界が滅んだほうがマシだ」

 宇宙人の声で真一が言うと、横のソファに腰掛けて読書をしていた弟の真人が、読んでいた本をちらと避けて、兄に視線を向けた。スクエアタイプの黒縁眼鏡の奥で、呆れた色をした目が細められる。

 真人も、夏休みのほとんどを家の中で過ごしていた。しかし彼の場合は真一とは違い、長期休み以外の休日も、外出はあまりしない。友人とどこかへ遊びにいくという姿も、彼が高校に入学してからこちら、真一はいまだ見たことがなかった。自室、あるいはリビングで、ただのんびりと読書をするだけだった。

 高校生であるふたりは休みだが、平日ということもあり、彼らの両親は当然仕事に出ている。家には真一と真人のふたりだけで、兄弟はそれぞれの時間を、普段通り穏やかに過ごしていたはずだった。

「……兄さん、行儀が悪いよ。世界は滅びないだろうけど、そんなに暑いならとりあえずシャワーでも浴びたら?」

「嫌だ。俺はここから断じて動かん」

 半袖のTシャツにハーフパンツ姿の真一とは対照的に、真人は長袖シャツにジーンズ姿だ。真一にしてみれば、いくら彼が毎日動かず読書しかしていない(あくまでも、真一の見ているところでは)とはいえ、弟の神経を疑いたくなるような格好だった。

 リビングのエアコンの室温設定は二十五度。三十度超えの屋外よりは確かに涼しいかもしれない。それでも、長時間炎天下に立ちっぱなしだった真一の体の内側の熱は、そう簡単に冷めはしないだろう。こんな状態でシャワーを浴びても、またすぐに汗をかくだろうと、真一は思っていた。だから弟に厳しい視線を向けられようが、扇風機の前から動く気など彼にはなかった。

 真一がきっぱり言いきると、真人は大きく溜息をついてから、手にしていた文庫本を閉じてソファの上に放った。その眉間には、皺が寄せられている。

「……なんだよ」

 見るからに不満そうな様子の弟に、真一は対抗するように声音に刺を内包させた。それでも引き続き胸元には、風を送る。随分と汗が冷えてきていた。

「やめてよ、それ。目の毒」

 それ、と、フローリングに胡座をかいている兄を顎で指す。ソファに腰掛ける弟のその動作は、互いの位置関係も相まり、真一の目には自然と尊大なものに映った。

「お前、何言ってんの」

 だからこそ、言い返す声も自然と荒くなる。

「……ねえ、兄さん。兄さんはもっと本を読んだ方がいいよ。目の毒って、意味も分からない?」

「ばかにしてんのか……っておい、退けんな」

 険悪な雰囲気のふたりのそばで羽根を回しつづけていた扇風機を、真人が持ち上げてその向きを変えた。風はあさっての方向へと吹き始める。テーブルの上に置かれていた新聞広告が、煽られて床に落ちた。

 占有していた風が失われ、真一の頬が途端に熱くなる。体内にこもっていた熱のせいだ。胸元に、またじわりと新たに汗が浮かんでくる。

 体から発せられる熱が、外の暑さや刺すような日光を思い起こさせ、それらが憤りを絡めて湧き上がる。

 真一とて、真人と言い争いたいわけではない。普段は大人しい弟なのだ。男兄弟だから、互いに気遣ったり優しさを見せたりするようなことはないが、だからといって仲が悪いわけではなかった。それらとて表出させないだけで、そういった感情を互いに持ち合わせていないのだと思うことも勿論ない。ふたりは、ごく一般的な兄弟だった。

「教えてあげようか」

「おい……――っ」

 抗議の声を上げようとした。目に余る弟の尊大さに「偉そうに何を言う」と、言ってやるつもりだった。こうなれば掴み合いの喧嘩になっても構わないとすら、真一は思ったのだ。

 だけど、できなかった。

 真人の顔がすぐ目の前にあった。

 見慣れた弟の顔が、にい、と含みを帯びた笑みを浮かべる。

 見たこともないその表情に、息が詰まった。

 一体何が起こっているのか、真一には理解できなかった。

「……こういうことだよ」

 そんな真一の頭の中に回避するという考えすら浮かばないうちに、彼はソファから腰を上げると、兄の左腕を強くひいた。そしてバランスを崩した体を支えるようにしながらも、その胸元に顔を埋める。真人のかけている眼鏡が、首筋の薄い皮膚に触れた。その無機質な冷たさが、火照った体には少しだけ心地よく感じられ、理解不能な現実から逃げ出すように、その部分へと神経が集中した。

「……う、わ……っ!」

 けれどそれも、一瞬のこと。

 生温かい感触が、Tシャツの襟元から侵入し、胸元から左の肩口へと鎖骨の上を沿って移動した。くすぐったいような、けれどそれとは明らかに違う初めての感覚に真一の背筋は震え、自らの意思とは勝手に腰が浮く。自分自身の支配下から脱してしまった肉体が、彼の羞恥心を煽り、それに耐えるように真一はきつく目を瞑った。

 そんな彼の脳内はあっという間に疑問符で溢れかえる。

 これは何だ? 何が起こった? 

 単純な疑問がぐるぐると渦を巻き、答えを出すことを妨げる。そんな状況でも、これらすべてをもたらしているのは目の前の弟だということは、真一といえど察しはついていた。

「やめ……ろよ、真人!」

 とにかく、弟を何とかしなければいけない。決意とともに、その背を睨みつけた。

 そして真人の背中を必死で叩くが、しかしどういうことか、手に力が入らない。胡座をかいていた足も同様だった。それだけではない。全身が脱力していた。真人が真一の腕を掴み、体を支えていなければ、たちまちフローリングに倒れ伏していただろう。

「兄さんが煽ったんだから、自業自得でしょ」

 真人がちらと顔をあげ、上目使いに真一を見る。頬が僅かに上気していた。真一の肌にあたったせいか、眼鏡が少しずり落ちていた。吊り上がった口端は、いかにもこの状況を楽しんでいるようだ。

「ま、真……人?」

 本当にこの男は、弟の真人なのだろうか。

 そんな疑問が、真一の頭を過る。

 何が彼を豹変させてしまったのか、真一にはいまだに分からなかった。弟に抱いていた怒りなんて、もう彼の中からは消え失せている。ただ、原因を突き止めて、元の大人しくも厳しい弟に戻ってほしいだけだった。

「あ、煽るって……俺は別に何も……!」

「煽ったでしょ。目の毒だって、言ったよね」

「だから、何が――」

 理解できない、といった様子を見せる真一に、真人は呆れた顔をすることもなく、ただ左手の人差し指で、胸元の中心から左右に伸びるように皮膚を押し上げる骨の上をなぞった。

「これ」

 そこに顔を寄せて呟くと、触れた場所に自然と息がかかる。真人の吐息は、真一が体内に保有する火照りよりも熱かった。

「ずっと思ってた。綺麗だよ、兄さんの――鎖骨」

「は……?」

 弟の言葉に、真一はさらに混乱する。

(鎖骨? ホネ? 俺の? ……それが、なんだって?)

 そんな真一から視線を逸さぬまま、真人はその唇の隙間から赤い舌を覗かせた。それが真一の頭の中で先ほどの感触と結び付くまで、そう時間はかからなかった。顔が紅潮すると同時に、ようやくすべてを理解する。

 自分の鎖骨をなぞっていったあれは、他でもない、弟の舌なのだと。

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