祭囃子にいざなわれ

 駅前に存在したのは、確かに日常の風景だった。
 地下鉄を入谷で降り、地上に出たのは夕方五時。駅周辺を行き交う人々は、足早に各々の目的地へと急ぐ。
 それらを尻目に、住宅の多いエリアを十分ほど歩けば、大通りの向こう側に、非日常の光景が広がっている。
 車通りのある大通りを挟んでなお聞こえてくる祭囃子。赤い鳥居にびっしりと並ぶ提灯。既に日も暮れているというのに、神社の境内だけが、煌々と明るい。これらだけなら、よくある夜祭りだ。
 この祭りを非日常の様相に仕立て上げている最もたるは、鳥居や境内に並ぶ露店に置かれた、巨大な熊手の数々だった。
 金運を掻き入れる縁起物として熊手が売買される祭り、酉の市。
「結構すんだな……」
「逆に、あんまり安いのもご利益なさそうじゃない?」
 今日この日に、わざわざこの場所を訪れた彼らも、目的はその例外ではない。提灯と熊手で飾り立てられた鳥居をくぐるなり、手近な露店で足を止め、そこに並ぶ商品を眺めている。
 白布を敷いた長机の上には、値札と共に、飾りの違う複数種の小ぶりな熊手が所狭しと並ぶ。そして店主の背後には、屋台骨に立てかけなければならないほど大きな……それこそ、店主よりも背の高い熊手が置かれていた。
「値切れねーかな?」
「ばか」
 机上の熊手につけられた値札を指さしながらこっそりと耳打ちしてきた男を、片割れが眉をひそめて拳で小突く。
 酉の市に、熊手を値切る文化は確かにある。しかしそれは、あくまでも値札のついていない大きな熊手の場合だけであって、値付けがされているものはその通りの額面で買うのが基本だ。最初は小さなものを買い求め、毎年少しずつ大きいものに買い替えていくことで、商売運が上がっていくのだという。
「しっかし、あんなの地下鉄じゃ運べねーな。買うときはトラックでもレンタルするか」
 小さな熊手の値切りを画策していた男の視線は、いつの間にか、最も大きく、縁起物で豪華に飾り立てられた熊手へと注がれていた。
「へえ? そんな先まで、一緒に店、やってくれるつもりなんだ」
 片割れは、男の顔を覗き込みながら、そっと彼の上着の袖を引く。その口元は柔らかく緩んでいる。僅かに紅潮した頬は、決して初冬の夜気のせいだけではないだろう。
「いまさら」
 ふたりの視線が、吊るされた提灯明かりの下で静かに交わる。男は、自身の袖を掴む五指をそっと解くと、代わりにその手をきつく握った。
「――一応言っとくけど、店だけ続けるつもりじゃねーからな」
 どこかで演奏されている笛や太鼓の音、それを打ち消すほどの喧騒。露天商の流暢な売り口上。
 ふたりの耳にも間違いなく届いているはずのそれら。しかし彼らには、まるで聞こえてなどいないだろう。
 そんな、時が止まったかのような空気の流れを打ち破ったのは、露天商のわざとらしいほど大きな咳払いだった。
 揃って現実に引き戻されたふたりは、慌てて売り物の熊手に手を伸ばす。
 選んだのは、たまたま同じ商品だ。予算を少し超えるが、片手で容易に持ち運べる大きさ。デフォルメされた猫と小判が縫いつけられている。
 熊手の上で手が触れあって、はたと再びふたりの視線がぶつかるが、大仰な咳払いはそれを見逃さない。
 いそいそと支払いを済ませ、片割れが熊手を持つと、逃げるようにその場をあとにした。
 

 境内に並ぶ露店、行き交う人々。
 鳥居とは反対方向、祭り会場を奥へと進めば、祭囃子はどんどんと近づいてくる。食べ物屋台も増え、鉄板から立ち上る甘いタレやソースの香りが辺りに漂う。
 境内を闊歩しつつも、そういった祭りの醍醐味には目もくれず、男の片割れは、購入したばかりの熊手にすっかり夢中だ。
 歩きながら自分の目線の高さに熊手を掲げ、じっくりと眺め、突然「そうだ」と表情をひと際輝かせた。
 隣だって歩く男を覗き込み、
「二人の墓に、この熊手、飾ろうか」
 さも名案とでもいった口ぶりの提案。
 あまりに純粋な目を向けられて、男は苦笑する。
「先にちゃんと店に飾ってからな」
 わかった、と素直な返事。
 辺りを照らす提灯の光が、男の片割れの瞳をより煌めかせている。
 祭囃子に誘われて顔を出した非日常に、もう少しだけ浸っていたい。男は、酷く穏やかな心持ちで願った。

(了)

       
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