季節と共に移ろいゆくのは

「あの、先生がどうぞ」

「遠慮しなくていい」

「でも……」

 テーブルで向かい合った二人に挟まれるように、皿に載ったショートケーキがひとつ。

 弁当を平らげた後、湊はケーキを取り出しながら、それが一個入りの商品であることに気付いた。だが、元より湊は甘いものが好きなわけではない。数が足りないなら、南雲だけが食べればいいと、彼の前に差し出した。

 今朝までの南雲であれば、言われるままにケーキを自分の腹に収めただろう。しかし、今の南雲にそれは難しいようだった。

「やっぱり、先生が食べてください。僕は……その、甘いもの、好きかどうか……分からないので」

「好きなもの以外食べてはいけないということもないだろう」

 明らかに困惑の表情を浮かべる南雲に、湊は思う。彼とのやりとりはこれほど難しいものだっただろうか。苛立たしいのではない、ただ、焦る。自らの言動が、彼を不快にさせてしまっているのではないかと。そして同時に困惑もしていた。他人の言動によって自身の感情が揺らいだことなど、かつてない。今はただ、必死だったのだ。これ以上南雲の表情が曇るのを、見たくない一心で。

「『好き』という感情は解らないのかもしれない。ただ、俺はお前が悪しからず思っているものを知っている」

 虚をつかれた顔で湊を見返してくる彼が、否定の言葉を紡ぐより先に続ける。

「色なら赤だ。どれだけ『衣替え』しても、服装やインテリアのどこかしらに赤を取り入れてる。食べ物なら、甘いもの。部屋から飴玉のストックを切らしたことはないし、朝食のコーヒーには必ず砂糖を三杯。だから」

 無様だ、と湊は内心苦笑する。普段は冷静な大人を装っている自分が、みっともなく言い訳のように早口で捲し立てる姿を、南雲は一体どう思っただろうか?

 一旦、言葉を区切って息をつく。

「……だから、このケーキも嫌いではないはずだ。それと、本来こういう言い方は好かないが」

 落ち着かない。南雲の返答が望むものであってほしいと願うばかりだった。

「――南雲に食べて欲しくて買ってきた」

 ここまでくれば、もはや体裁など気にするだけ無駄だ。湊が心情を素直に吐き出せば、南雲はふ、と頬を緩めた。

「ありがとうございます。……じゃあ、いただきます」

 生クリームで包まれた先端部分が、南雲の手にしたフォークでゆっくりと切り落とされる。そこだけが、皿の上にぱたりと倒れた。銀色が、白い切れ端に埋もれる。そうしてそれは、控えめに開かれた口へと運ばれていった。

 伏し目に彼が行った一連の動作を、湊は凝視した。南雲の喉元で嚥下を確認すれば、たちまち陶酔にも似た充足感を覚える。

「美味しい」

 緊張がほどけ、緩んだ口許。クリームの油分で、その唇はしっとりと濡れている。

 フォークがイチゴに刺さる。

 艶めいた唇が、赤く熟れた先端を食んだ。

 白い歯が、遠慮がちに果肉を齧りとる。

 彼の些細な所作のすべてを、一瞬でも逃してはならない気がした。

「先生が僕のことを見てくれていたなんて、意外でした」

 空になった皿に置かれたフォークが、かちりと控えめな音を鳴らした。

「てっきり僕には、興味がないものだと」

「俺はどうでもいい人間を家に住まわせるほどお人好しじゃない」

 あまりに心外な言われように、思わず嘆息する。彼の評価は、実際とは全く正反対だ。むしろ南雲は、湊が明確に興味を抱いた初めての人物だろう。そこに付属する感情に、かつてと現在で多少の変化こそあるが。

「……ごめんなさい」

 深い溜息が威圧的に感じられたのか、南雲が体を縮こめる。その姿を目の当たりにして、湊は思う。これまで気付かないうちに、無意識的な自身の振るまいによって彼を恐れさせていたことがあったのかもしれない、と。

「謝らなくていい。そう思われても仕方ない態度だったんだろう」

 口に出して、酷い自己嫌悪に襲われる。この言動こそが、まさしくそういった態度そのものではないか。

 すまない。ぽつりと一言呟いて、口をつぐんだ。いたたまれなかった。彼の表情をちらと窺うことすら申し訳ないことのように感じられた。これまでの自分が、いかに自分本位で生きてきたか、そしてその愚かさを思い知らされる。他人に寄り添うことのできない自分自身への怒り、やるせなさ。諸々の感情が合わさったものが、昼間感じた疲労感の正体でもあったのだろう。

 しかし、今更、とも思う。過去は戻らない。今後の身の振り方にしたって、変えられるとも思えなかった。だからこそ、湊の胸には後悔だけが残る。

「……本当は」

 すっかり黙りこんでしまった湊の様子を伺うように、南雲がゆっくりとした口調で切り出した。

「全部、やめてしまいたかったんです。衣替えも、……も」

 ど、と大きく心臓が跳ねた。

 聞いてはいけない。この先を、言わせてはいけない。彼の言わんとすることを、湊は察していた。恐らくそれは、先程玄関口で湊が遮った言葉の続きなのだ。

 だが、咄嗟に口を開くことができなかった。顔を上げることすら躊躇われた。

「本当の自分なんてどこにもなくて、空っぽで、生きてる意味なんてないんじゃないかって……先生にも、迷惑……かけてばかりだって……」

 小さく鼻をすする音。

「でも、ごめんなさい、僕は先生から離れられなかった。それだけは、どうしてもできなかったんです。考えるだけで苦しくて、体が動かなくなって……先生と離れて生きていくなら、……し、死んだほうがましなんじゃないかって――」

「死ぬなんて!」

 思わず声をあげた。同時に南雲を見やる。見開かれた目も、頬も濡れていた。胸が締め付けられたように酷く苦しかった。

「……冗談でも、言うな」

 絞り出すように、辛うじて言葉を吐く。

 どの口が、と南雲は内心自嘲する。彼をここまで追い詰めてしまったのは自分自身ではないか。同じ部屋に住まわせ、ただ見守るだけで、すっかり庇護した気になっていた。一歩間違えば、その傲慢さが彼を死に至らしめたかもしれないというのに。

 愚かしい自分が憎かった。しかし、それでもなお変わらないであろう自らの性分を、湊は改めて自覚した。人が変わるのは、それだけ困難なことなのだ。……南雲は衣替えによって、一体どれほどの苦痛を味わってきたのだろうか。

「南雲も知っていると思うが……俺は、基本的に自分の生活リズムを崩されるのが嫌いだ」

「だったら――」

「話は最後まで聞きなさい」

 すかさず南雲を遮る。

 自分の根本的性質は簡単に変えられない。かといって、南雲の衣替えを止めさせる権利もない。――だが、彼との生活で変化したものは、湊の中に確かに存在した。

 湊はぐっと息を飲み込んだ。

 はく、と動かした口から呼気だけが漏れる。

 膝の上で拳を握る。

 窺うように、南雲を見た。

 彼はただ静かに、湊を待っていた。涙は既に溢れてはいない。否、これ以上南雲を泣かせてはいけない――泣かせたくない。湊自身、強くそう願った。

「一緒に暮らすと決めたときから、お前はもう俺の生活の一部だ。だから、勝手にいなくなることは……許さない」

 早鐘を打つ心臓が煩かった。

 湊が意を決して放った言葉に、対して南雲はぽかんと呆けた表情を浮かべる。意図するところが理解できていないといった様子だ。

「え、と……、それって、いつまでですか?」

「少なくとも、お前が俺といることが嫌になるまで」

「もし、生きている間ずっと嫌にならなかったら?」

「死ぬまで一緒に暮らせばいい」

「死ぬまで……」

 そこまで問答を繰り返し、さらに湊の答えを反芻してから、ようやく発言の重大さに気がついたらしく、南雲は一気に顔を赤らめた。

 そうして困惑を浮かべながら、

「……先生」

「なんだ」

 胸元を掻き抱いた。

「心臓、痛い」

「そうか」

「え、何、分かんない、どうしよ、せんせ、これ何? 痛い、怖い……」

「俺も同じだ」

「え?」

「心臓が壊れそうで、……怖いよ」

 大きく上下する胸元にやられた南雲の手を、湊は掴んだ。ゆっくりと引き寄せ、テーブルの上で握る。はっきりと感じる彼の体温に、堪らず親指の腹で手の甲を摩ると、南雲は全身をふるりと震わせた。

 交わった視線は、蕩けるような熱を帯びている。

「ぁ……、僕ら、このまま、一緒に死んじゃうのかな」

 南雲の言葉は、激しい脈動の行く末に真実味を持たせた。

 彼とならばそれもいい、と湊は思う。だが、しかし、今は。

「許されるなら、――一緒に生きたい」

 絞り出した声は微かに震えていた。

 南雲が、湊の手を遠慮がちに握り返してくる。

「うん……うん……」

 小さく何度も頷く南雲はまた目を潤ませていたが、瞳の奥には喜色に彩られた安堵が、確かに滲んでいた。

 ふたりは、しばらくそのままで時間を過ごした。けれど次第に鼓動が落ち着きを取り戻すにつれ、何となく気恥ずかしさが場に流れ始め、どちらからともなく手を離した。

「あの、

 先に口火を切ったのは南雲だった。

「……って、呼んで、いいかな……いい、ですか?」

 おずおずと遠慮がちに訊かれ、湊は小さく笑う。今朝まで、何の承諾もなく人のことを『みっくん』だなんて呼んでいたというのに、今更許可を求めるのかと少しばかり可笑しくなった。

 だが、これは彼が初めて湊に示した明確な意思だ。衣替えのために設定された偽の性格によるものとは違う。

「そうしてくれ。先生は流石に他人行儀が過ぎる。それに、そのほうが……俺も嬉しい」

 テーブルを挟んで向かい合う、近いようで遠い距離がもどかしく感じた。今しがた離したばかりの手を再び握りなおすのも、少しばかり気が引ける。

「…………すき」

 ぽつり、南雲の口から溢れた言葉に驚いたのは、湊以上に南雲本人だった。

 信じられないとばかりに、自身の口に手を当てて、その出所を必死に確認している。

「あれ、これって、『好き』……なの? 胸が苦しいのも、心臓が痛いのも、せんせ――湊さんのことが、好き……だから?」

 肯定を求められているのだとすぐに察した。しかし、首を左右に振って答える。

「お前の気持ちは、お前にしか解らない」

 昼間、生徒の相談に応じた時と同じで、繕った答えは湊には選べなかった。嘘がつけない。だから、他人に寄り添えない。しかし南雲はそんな湊の性分を解っていながら、湊が好きかもしれないと言う。

「ただ言えるのは――俺は、南雲が好きだってことだけだ」

 自分の言葉ではっきりと口にし、南雲に対する感情のすべてが湊の中でようやく形を成して発露した。

 南雲は目を見開いて呆然と湊を見つめていた。しかしすぐに耳まで赤くして俯き、縮こまってしまった。

 告白の返事は必要なかった。湊は自身の感情を口にしただけのことだから、そもそも返答を前提としていないのだ。

「ああ、そうだ。明日の朝、一緒に散歩に出かけないか。川辺に彼岸花が咲き始めて綺麗なんだ」

 脈絡のない提案に、南雲はしばらく黙ったままだったが、そのうちに小さく一度だけ頷いた。

 それを認めた湊の口許が、穏やかに緩む。

 朝露に濡れた鮮やかな赤色を、彼は気に入ってくれるだろうか。

 これまでの人生の中で二番目に変化に富むであろう明日という日の訪れが、湊は酷く待ち遠しかった。

(了)

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