季節と共に移ろいゆくのは
早朝の空気が、きん、と澄んだ冷たさを纏っていた。呼吸のたびにそれが肺を満たす感覚が酷く心地よく、走る足取りも軽くなる。
見慣れた川べりの土手を横目で捉えれば、ちらほらと鮮やかな赤が見えた。前日まではなかった、まだ小さなつぼみのそれらは、明らかな秋の色だ。
それを認めると同時に湊は思った。もうすっかり衣替えの時期だ、と。
「ただいま」
健康づくりのためだけを目的に始めた日課のジョギングから戻ると、奥の部屋からは慌ただしい物音がしていた。声をかけた相手の代わりに玄関で湊を迎えてくれたのは、パンパンに膨らんだゴミ袋が三つ。透明なビニールの中に詰まっているのは、全て衣類だ。
「あ、みっくん、おかえり~」
ジョギングシューズを脱ぎ、シューズボックスにしまう間に、彼は奥の部屋から出て来てのんびりとした口調で言った。派手な柄物のTシャツと暗赤色の短パンというラフな格好だ。ゆるいウェーブのかかった明るい色の短髪のあちらこちらには未だ乱れが残っている。その両手には、左右ひとつずつ、計ふたつの新たなるゴミ袋。お世辞にも広いとは言えない玄関スペースは既に足の踏み場もないが、彼はそこに容赦なく山を築いていく。
「ただいま、南雲。……こうなってると思った。今朝は外、寒いくらいだったから」
「ねー。急に冷え込むからびっくり」
ゴミ袋の山を乗り越えて脱衣場に向かう湊と会話しながら、南雲は部屋から玄関へ続く廊下に荷物を次々と運び出していく。カラフルなチェスト、夕焼けに染まる空と海がプリントされたタペストリー、ガラス天板のローテーブル。白地に赤いチェック柄のカーテンも外されて、それらとひとまとめにして床に置かれた。唯一、イチゴ味のキャンディーが詰まった瓶だけは、ダイニングテーブルの上に避難させられている。
「ごめんね、すぐにどかすから」
湊がシャワーを浴び、身支度を整えて戻ってくると、玄関で南雲が靴を脱いでいるところだった。ゴミ袋の山はなくなり、諸々の荷物も、申し訳程度にだが廊下の片側に寄せられている。
「急がなくていい、歩ければ充分だ。いつも通り、南雲のペースでやってくれて構わないから」
淡々と応答しながらキッチンに移動し、冷蔵庫から食パンの袋を取り出す段になって、彼は手を止めた。ちらと同居人の顔を窺い見るが、廊下と部屋とを行ったり来たりしているだけだ。こちらを気にする様子はない。
それだけを確認さえすれば、湊は安心して朝食の準備に取りかかれるのだった。
「衣替え、夜までには終わるよ」
向かい合って座る食卓で、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲み干してから、南雲は湊を見やった。
「分かった」
手にしたカップに口をつける。特売で買った安価なインスタントコーヒーが舌に与える大雑把な風味と苦味は、居心地のよい食卓から立とうという気に嫌でもさせてくれる。嗜好品としてではなく、ただそういう理由として、それは湊の好みではあった。
一気に中身を空にして、そのままの流れで南雲のカップと二人分の皿を手にして立ち上がる。
「みっくんは、全部いつも通りでいいからね」
「ああ、そのつもりだ」
追うように席を立った南雲に背中越しで返事をしながら、食器を流しへ運ぶ。
南雲との共同生活において、家事はほぼ湊の役割だ。しかしそれは同居人への気遣いによるものではなく、彼の一日の行動として家事がすっかり組み込まれていて、彼自身がその流れを変えることを望んでいないだけである。
変化を好まないのは、家事に限った話ではない。学生時代に体調を崩したことをきっかけに周囲に勧められるままに始めた早朝ジョギングは、惰性だけで十年以上続けている。朝食のブラックコーヒーも、実家暮らしの頃から朝食で出され続けていた名残だ。現在の務めている予備校講師という職でさえも、学生時代のバイトからの流れで就くことになっただけなのである。
彼――河北湊は、極端な安定志向の持ち主だ。自閉的ともいえる性質の彼が、しかし唯一抱える不安定要素がある。それが同居人、木野下南雲の存在だった。
「じゃあ、行ってくる」
「はーい、いってらっしゃい、みっくん。気をつけてねー」
最低限のやりとりだけをして、玄関を出る。背後でドアがあっさりと閉まる音がした。きっとすぐにまた部屋の片付けをはじめるのだろう。
南雲に見送られての出勤は、三日に一度あるかないかだ。南雲はアルバイトをしているが、勤務時間がまちまちで、早朝から出勤していることもあれば、深夜までの勤務で疲れきって昼頃まで眠っていることもある。だが、互いの生活サイクルが合わないことは、同居を決める際には既に分かっていたことで、湊も納得していた。そもそも見送りの有無や南雲の在宅状況に影響されて、湊の行動が変わることはほぼない。せいぜいもう一人分の食事の用意や、南雲との会話が発生するといった程度だ。彼との同居に伴う些細な生活の変化に、特段の煩わしさや不快感はなく、湊にとってはそれこそが何よりも重要だった。
自宅アパートを出てから職場までは徒歩で四十分。距離としては駅ひとつ分ほどはあるだろう。最寄り駅から電車を使えば格段に早いが、様々な理由で遅延や運休が予想される。その点歩きであれば、よほどの嵐でもない限り所要時間に大きなズレはないから、湊にとっては都合が良かった。
職場である予備校に出勤したあとは、テキストやプリントの準備。時間が来れば時間割に沿って夜までひたすら授業が続く。間で昼食を挟むが、まれに質問に訪れる生徒もいるため、席を外すことはできない。よって、通勤経路にあるコンビニで適当に惣菜パンと缶コーヒーを購入しておき、それで簡単に食事を済ますことにしている。
今日もその習慣通り、コンビニの自動ドアをくぐった。時間帯もあり客は多い。二台のうち一台しか稼働していないレジには短い行列ができているし、目当ての棚の前も他の客が陣取って商品を吟味していた。
仕方なしに店内をぶらつく。こういうことはままある、想定内の出来事だ。
だが今日に限って、それがふと湊の目に留まったのは、何故だったか。
他よりやや低めな拵えの棚には、デザート類が並んでいる。その中でも、真っ赤なそれが一際目を引いた。
イチゴのショートケーキ。透明なプラスチックカバーの下、白いクリームを彩るイチゴは、店内の照明を受け艶やかに輝き、鎮座している。
きっとどろりと甘いのだろうと想像する。それを手に取るものはみな、もれなくその見た目から期待される味を求めているに違いない。甘味を好んで摂取しない湊にとっては、まず手を伸ばさない商品だ。だが、ふと思い付く。南雲ならばこれを手に取っただろうか。
「ありがとうございましたー」
デザート棚に釘付けになっている間に数人が会計を済ませたらしく、店内の客は減っていた。パンの棚の前も無人だ。通勤時間帯であることを考えれば、すぐに別の客が入店してくるだろう。湊は手早く商品を選んでレジへと急いだ。
すっかり日が暮れるのが早くなった、と湊は思う。職場から自宅へと向かう時間は毎日同じだというのに、周囲は既に薄暗く、一定間隔で設置された街灯だけが、歩行者の頼りだ。
淡い光に誘導されるように、湊はまっすぐに帰宅する。普段通りの彼であれば、今日だって間違いなくそうしていた。
酷く落ち着かない気持ちだった。疲れていたのかもしれない。
講義の合間に、生徒がひとり湊の元を訪ねてきた。講義内容についての質問かと思いきや、受験に対する不安の吐露だった。試験で上手くやれるか心配だ、どうしたらいいか、と生徒は言った。
そんなもの。口には出さない。けれどうわべだけを繕った言葉を選ぶこともしない。
「不安を圧倒するほどの自信をつけることだ。講義内容を踏まえてひたすら問題を解くしかない」
相手の感情に寄り添いもしない素っ気ない返答に、しかし生徒は憤るでも肩を落とすでもなくただ「そうですよね」と頷いた。相談相手なら、他に親切そうな講師もいるだろうに、それでも湊を選んだということは、もとより親身な対応を望んだわけでもないのだろう。生徒は簡単な礼をするとすぐに立ち去った。それはものの二、三分ほどのことだ。
にもかかわらず、この対応によって酷く疲弊したのは、過去を思い出してしまったからだ。それは三年前、湊と南雲が知り合ったきっかけとなった出来事でもある。――南雲は、かつて湊の生徒だった。
……切れかかった街灯が、ちらちらと明滅している。体が重い。それでも帰らなければ、と思う。足取りは鈍い。
視界の先に、今朝寄ったコンビニが見えてくる。無意識に湊の足は、店内へと向かっていた。
普段より三十分ほど遅れて開かれた玄関扉の奥は予想に反して暗かった。廊下から続くリビングには、常夜灯の明かりもない。
「おかえりなさい…………河北先生」
暗がりの中から湊を呼ぶ声は、懐かしい響きを纏っていて、湊の胸に不思議な安堵をもたらした。
「ああ、南雲。ただいま。衣替えは――」
「もう終わりました」
革靴を脱ぎ、手探りでシューズボックスに放り込む。電灯のスイッチはすぐそばの壁にあるが、湊の手で明かりをつけることはしない。
「そうか」
暗い廊下で、ただ待つことしか湊にはできない。同居を始めてからは、『衣替え』した南雲の姿を無理に暴くことはしないと決めていた。それはつまり、湊が南雲の変化に期待していると捉えられることを防ぐための措置である。
――南雲は、自己分離感に長年悩まされている。それは薄膜の中から、外にいる自分を眺めているようなものなのだという。
まず自身の感情がうまく把握できない。それゆえ口にする言葉との間でズレが生じ、常に違和感に苛まれ続けている。『好ましい』『面白い』などといった感覚もよく理解できないらしく、彼にとってはすべてが空虚なものに思えるのだという。
かといって、そこで腐ったりすべてを投げ出したりしないのが木野下南雲という人間だった。彼は常に模索していた。本来の自分の姿を追い求めていた。そうして辿り着いた手段が『衣替え』だ。
「……南雲?」
いくら待てども、明かりは一向に点かない。
返事の代わりに微かな衣擦れの音、そして床が僅かに軋む。
「せんせ……い」
弱々しい呼び声が湊の胸を押し潰した。酷く息苦しい。初めて耳にする薄弱とした声色に困惑する。暗闇でその姿も捉えることができない今、『南雲は変わらず間違いなく南雲である』と常に抱き続けてきた確信が揺らぎそうだった。
「先生、僕、もう――」
彼にその先を言わせてはならない。
思った瞬間、反射的に電灯のスイッチを押していた。
「ぁ……」
淡く黄味がかった明かりが、廊下に座り込む彼の姿を露にした。
「見ないで、ください……」
南雲は一瞬、目を見開いて驚いたような表情を見せたが、すぐに俯き、消え入りそうな声で呟いた。
落ち着いた雰囲気の黒い髪、赤白ボーダーのロングTシャツにジーンズというシンプルでどちらかといえば地味な外見は、今朝玄関先で別れた彼とはまるで正反対のスタイルである。まるで別人のような変化だが、これが南雲の『衣替え』なのだ。季節ごとに服装の傾向からヘアスタイル、部屋の装飾に、さらには口調まで変えてしまう。そうやって、彼は本当の自分を探している。パズルのピースがぴったりと嵌まるように、心と言動が一致する瞬間を。
湊が彼の『衣替え』に初めて遭遇したのは三年前、湊の勤める予備校に南雲が生徒として通っていた時のことだ。
四月から入校してきた南雲は、丁度今と同じような外見の目立たない生徒だった。それが七月が過ぎた頃、突然髪を脱色した。服装も、オーバーサイズの真っ赤なパーカーにダメージ加工の入ったデニム。チェーンやリング等シルバーアクセサリをいくつも身に着け、挙句先週まで傷一つなかった耳にはピアスまで開けていて、まるで別人のように様変わりしていた。
講義が始まってすぐ、湊は南雲の変化に気付き、関心を持った。極端な変貌を遂げた彼を駆り立てたものが何なのか。ただそれが気になって仕方なかった。講義が終わり、教室から退出していく南雲を湊が呼び止めたことは、当然の帰結といえた。
「心境の変化か」
前置きのない不躾で乱暴な質問に、南雲は答えた。
「変化するような心境が理解できたら良いんですけどね」
伏せ目がちに漏らされた自嘲の混じる苦笑。その表情に、湊は胸を掻き乱される心地がした。
これをきっかけに南雲と頻繁に会話を交わすようになり、その後彼の心理的及び家庭事情を汲んだ結果、現在の同居という選択に至ったのだった。
この選択を、間違いだとは思っていない。だが、それでも湊は時々考えてしまうのだ。南雲本人にとって、本当に正解だったのかと。
――ともあれ『衣替え』を確認すれば、とりあえずの安堵は得られた。現在の南雲の心境はどうあれ、とにかく今は彼が彼であることに改めて確信が得られさえすれば良いのだ。
「南雲」
「…………はい」
「ただいま」
「お、おかえりなさい……」
おずおずと、南雲の視線が上がる。潤んだ目が赤い。それを視認して、ああ、泣いていたのか、と思う。同居を始めて二年になるが、彼の泣き顔を目にするのは初めてだった。
「食事は」
ほんの僅か、半ば無意識的に目線を逸らす。途端、罪悪感に襲われた。
「いえ、まだ」
「……そうか」
湊は、床に座りこんだ南雲の目の前に握った左手を差し出した。そこにはレジ袋が下がっている。視線はまだ合わせられなかった。南雲の表情を伺うことが、酷く恐ろしいことのように感じられた。
「その、良かったら……一緒に食べないか。コンビニで買ったもので悪いんだが。弁当と、ケーキがあるんだ。ああ、でも食欲がなければ別に――」
妙なことを口走っている自覚はあった。
一緒に暮らしていながら、これまで彼を食事に誘ったことなどなかった。同居している以上、食事の時間帯に二人とも在宅であれば、揃って食事をとるのが効率的に当然だと思っていたから、特段誘うことも、それこそ要不要すら問うたこともなかったのだ。ただ「食事の時間だ」とだけ口にすれば済む。だから今だって、南雲に伺いをたてずにそう言えばよかったのだ。
普段通りに接することができなかったのは、恐らく彼に対して抱いた罪悪感のためなのだろう。だが、その罪悪感の正体を、湊は知らない。
暫しの沈黙の後、ふ、と南雲が小さく笑った気配がした。
「ありがとうございます。先生、……ありがとう、本当に」
南雲がレジ袋を受けとる。互いの指が微かに触れた。冷たく乾いた皮膚の感触。接触したほんの一部分が、ぴり、と痺れたように感じ、湊は反射的に南雲の顔を見た。
途端、ど、と大きく心臓が打つ。
合わさった視線の先、南雲はまだ赤く潤んだ目をしかし柔らかく細め、微笑んでいる。
湊はまた、彼を真っ直ぐに見ることができなくなってしまった。
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