彼は月になりたかった

 山あいの集落は日暮れが早い。高い山が、地平線に沈むより先に太陽の光を遮ってしまうからだ。秋ともなれば、それはなおさら顕著になる。
 狭い農道の周辺には、既に稲刈りを終えた田が広がる。刈田特有の、稲わらと土の匂いが、いまだ辺りに漂っていた。
そんな田園地帯ゆえ、街灯はない。夜道において頼れるのは、ただ空に浮かぶ満月の淡い光のみだった。
「すっかり夜が早くなったな、澪」
 暗い空を見上げながら青年が呟く。胸元に校章が刺繍された白い半袖のシャツが、月の光によってぼんやりと視認できる。背にはリュック、肩にはエナメルバッグをかけ、いかにも部活帰りといった出で立ちだ。
「もう秋だからね。……月が綺麗だ」
 隣を歩く、澪と呼ばれた少年は、道の先をただ見据えながら、ぽつぽつと口にした。身につけたシャツは、デザインこそ隣の彼と同じだが、こちらは長袖、荷物もリュックひとつきりだ。
「お、本当だなぁ」
 いまさらのように、月の存在に感嘆の声をあげる。ずっと空を見上げていたというのに、彼の気には留まっていなかったらしい。
 道端の土手から、鈴虫の鳴き声。幾重の涼やかな音色が、ふたりの足音を軽やかに彩る。
「お前さ、あれ出した? 先週配られたやつ」
 ちらと澪の顔を見やりながら、彼が訊ねた。
「進路調査? 当日に出したよ」
「はやっ!」
 素っ気ない返答に、驚きを露にする。
「葉介は?」
 反対に澪から聞き返され、
「今日」
 短く答えた。
「しっかしさあ、もうちょっとこう、悩むもんじゃねえの?」
 わからんなあ、と漏らし、葉介はガシガシと頭を掻いた。拍子にずり落ちかけたバッグを、肩にかけなおす。
「悩む?」
 ぴたりと澪の足が止まる。 
 怪訝な表情で葉介を見、その視線はついと地面へと移る。空から落ちる月光が、その顔に暗く影を落とした。
「そんな必要、僕にはないから」
「うーん……」
 きっぱりと言い切られ、葉介は困惑気味に首を捻る。
「な、大学進まないってマジなん? 地元就職って」
 わずかに声の調子を落として問う。
 そうしてしばしの沈黙。虫の声が、静寂を浚う。
「何だ、そのこと。……うちの親からなんか言われたんでしょ」
 呆れた物言いで、澪は肩をすくめた。
 ふたりは幼い頃から家族ぐるみの付き合いだ。それゆえ、澪の母親は、直接澪に言いにくいことを、時折葉介伝てに訊ねてくることがあった。澪と親が、特段不仲なわけではない。ただ、それ以上に、葉介一家と懇意であるというだけだ。
「それもあるけど。お前、勉強できるんだから、いい大学入って、それからいい会社入ってさ」
 葉介に悪気がないことは、澪にだって解っている。彼は彼なりに、澪の人生を真剣に考えてくれているのだと。だからこそ、
「そんな人生」
 心底不満げな溜め息が溢れた。
「興味ない」
 呟いて、澪は視線を上げた。ただ真っ直ぐに、葉介の瞳を見る。小さな夜がそこに存在し、その中に、遠い月が確かに映りこんでいた。
「僕は、さ。月になりたいんだよ」
「は……、月?」
 唐突で、突拍子もない澪の言葉に、葉介は呆けたようにぽかんと口を開けた。 
「そう」
 立ち尽くす幼馴染の周囲を、澪はゆっくりとした足取りで、円を描くように歩く。
「ずっと地球のそばから離れずに、暗いときには静かな光を与えるだけの、そんな存在」
 ぽつり、ぽつりと言葉を落としながら、幾重にも。
 月光が生み落としたふたりの影が、地面の上で繰り返し交わる。
 はたと視線を下げた葉介は、それに気づいて、思わず澪の手首を掴んだ。偶然にも、ふたつの影が重なり合って、ひとつになった瞬間だった。
 足を止めた澪と、葉介の視線が、影と同様に交わった。
 互いの間で視線は絡まり、ひとつになり、しかしそこにあるのは全くの無為だ。葉介が澪を見、澪が葉介の姿を捉える。それ以上の意味は、存在などしていない。
「地球のために生きて、地球のためにだけ輝きたい。月が月であるために必要なのは、地球だけだから」
 澪の口元が、ふ、と緩んだ。
「……ごめん、変なこと言った。忘れて」
 逆光で陰る顔が僅かに伏せられる。
 鈴虫の声が沈黙を誘う。
 風がそよぎ、土手の草葉を揺らす。
 乾いた夜気と稲わらの匂いが混じりあえば、夜空と大地、両者の蜜月を思わせる。
「あのさあ」
 葉介が、ぽりぽりと頬を掻いた。
「めちゃくちゃ自惚れかもしれんけど……、その、お前が言う地球って――」
 澪自身が月であるとするならば。
 そう仮定して考えると、導き出せる答えはひとつだけだ。
 葉介の言葉の先を予想してか、澪がぱっと顔を上げる。暗く陰になりながらも、表情は既に晴れやかだ。
「自惚れてくれるんだ? 葉介にしては、察しがいいね」
 澪の右手が、葉介の顔へと伸びた。指先が耳朶に触れ、そこに唇が寄せられる。
「……君は僕の地球だよ。出会ってからずっと、死ぬまで」
 それは、月光のように、唯一に向けられた囁き。
「はは……、すげえ殺し文句」
 風の音も、鈴虫の声も、今のふたりには届かない。
 ただ互いの声と姿だけが、互いにとっての全てだ。
 月が落とした影は、いまだひとつ、重なったまま。

(了)

       
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