今夜も、フロントカウンターで。

 酷い雨の音が、ガラス一枚隔てたロビーにまでも届いている。エントランスの自動ドア越しに、濡れたアスファルトに反射する街頭の光が、じわりと滲んでいるのが窺えた。

 フロントカウンターの内側で、笹山はそれをじっと恨めしげに眺めている。

 今日は、夜九時頃から強まった雨の影響で、終電を前に鉄道路線の多くが運転見合わせになってしまった。そのため、交通手段をなくした人々が、急遽駅周辺のホテルに流れ込んだ。

 平日なので、通常は駅前であれ、どこのホテルもまだ空室があっただろう。しかし運悪く、明日から近くの展示場で大きな催しがあり、その関係者の宿泊によって、駅前にあるホテルはほとんど満室状態だったのである。

 だから、駅からはやや離れた立地の、笹山が勤めるこのホテルにも、遅い時間になって飛び入りの宿泊客が相次いだ。

 その客らのほとんどがビジネスマンであったため、チェックインのラッシュが落ち着いてからも、やれ「ズボンプレッサーを貸してくれ」だの「ルームサービスを頼む」だのといった内線がひっきりなしにかかり、結局、ナイトフロントの勤務に入っていた笹山ともうひとりの社員は、日付が変わるまでその対応に終われる羽目になったのだった。

 なぜ、今日に限ってこんなに大雨になってしまうのか。

 笹山は、内心そうぼやきながら、深く溜息をつく。

 気分が酷く鬱々としていた。

 今日は、笹山にとっては特別な勤務だった。

 ナイトフロントのシフトに入るのは、週の半分ほど。フロント担当は五人で、それらのメンバーの中から、二人ずつ入れ替わることになっている。だから、特定の人物とペアになることは、多くて月に三日。そのうち最低でも一日は、宿泊客の多い週末や祝祭日に重なる。

 だから、望んだ人物と、平日に同じシフトに入ることは多くない。

 そして今日こそが、その貴重な一日だったのだ。

 不意に、ドアが開く音が、雨音に混じる。

「定期巡回、終わりましたよー。館内まったくもって異常なし、です」

「ああ、おつかれ」

 背後から肩を叩かれ、高橋はそう口にしながら振り返った。

 笹山と同じ濃紺のスーツタイプの制服を身に着けたその男は、今晩、共にナイトフロントのシフトに入っている高村だ。笑顔を浮かべているが、数時間前の予想外の激務によるものか、疲労の色が僅かに滲んでいる。

 高村は、椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。両手を挙げ、背を伸ばす。窮屈なのか、上着のボタンが外されていた。

「研修帰りなのに、ツイてないなー、俺。平日の深夜勤だし、もう少しゆるーくできると思ったんですけどね」

 愚痴をこぼす彼の、その上着の内側に覗くYシャツの白が、頭上から落ちる暖色のダウンライトを反射し、くらくらと目が眩みそうで、笹山は高村に気付かれぬよう視線を逸した。

「……人員が足りてないわけでもなし。東京から戻った当日に深夜シフトなんて、変えてもらえばよかっただろう。まだ若いからといって、お前に無茶をさせすぎなんだ、江島は」

 高村は、東京本社で行われたサービス研修に、三日前から参加しており、今日の夕方に、こちらに戻ってきたばかりだった。事務方の江島によってシフトが組まれるのが一ヶ月前。研修はそれより前から判っていたことだ。

 笹山は、腕時計に目を落とす。深夜一時半。ナイトフロントの勤務は午後九時から翌朝六時まで。その間に交代で休憩を一時間ほど取ることになっている。

「高村」

「何ですか、笹山さん」

「……先に休憩したらどうだ」

 きい、金属性の椅子が軋む。視線をやらずとも、高村が立ち上がるのを、笹山は気配で感じとる。

「嫌です」

「今晩は忙しかったし、きみも、疲れてるだろうから」

「俺がシフトを変えなかった理由、笹山さんにも解るでしょ。休憩よりも……ね?」

 不意に高村の手が、笹山の手を捉える。

「高村……っ」

 笹山は僅かに身を捩るが、その手を振り払うことはしない。

 顔を寄せられ、互いの体が密着する。後退った拍子に、カウンターの内側に備え付けの作業デスクに、笹山の尻がぶつかる。

 高村の口元が、意地悪く歪んだ。

「笹山さんも、期待してたくせに。俺との、平日の深夜勤」

「そんな……ことは」

 笹山の口から漏れるのは、形ばかりの否定だ。

 すべて高村の言う通りだった。

 笹山は今日の勤務を心待ちにしていた。少ない宿泊客で終始のんびりとした業務状況の中、やや照明が落とされたロビーで、高村とこうして、フロントカウンターの内側に立つ時間を。そして、高村の指先が、自分自身へと伸ばされてくるのを。

「隠さなくてもいいんですよ。俺だってあなたと同じ気持ちだから、シフト変更を頼まなかったんだし。……ま、一時は忙しくてどうなることかと思いましたけどねー。笹山さん、俺が疲れて使いものにならなくなるんじゃないかって、思いました?」

 くすくすと、揶揄うように笑う高村の息が、笹山の耳朶をくすぐる。それが故意だと理解した途端、笹山の頬に朱が差した。

「ここじゃなくて、うちに来てくれれば、毎日だって満足させてあげるのになー。ねえ、笹山さん、いい加減オチてくれません?」

 高村は言って、笹山の首筋に唇を押し当てる。

 笹山の背筋が、待ちわびた感触にふるりと震えた。奥歯を噛みしめ、高村の問いに首を左右に振って答える。

 高村と笹山はもう一年以上、職場でこのような行為を繰り返す、爛れた関係を続けていた。けれど、決して恋人などという甘い結び付きではない。むしろ、そうなってはいけないのだと、笹山は思っていた。

「……あー、まだダメ? 体はこんなに俺のこと欲しがってるのに、強情だなあ。でも笹山さんのそういうとこ、好きですよ」

「ばっ……、も、噛む、な……っ」

 耳朶にやんわりと歯をたてられ、自然と腰がひく。デスク上に置かれていたペン立てが倒れ、転がったペンが数本、足元に落ちた。

「……な、らない……、っく」

 引き出されたYシャツの裾から、高村の手が進入し、笹山の腹部に触れた。笹山の言葉に滲む官能の色に、高村が満足そうに小さく笑いをこぼす。

「好きに、なんて……っ、なら、ない……」

「はいはい。そーいうことにしときましょうね」

 高村は言って、子供でもあやすように、笹山の背をぽんぽんと軽く叩いた。

 拒絶の裏の本意など、彼はとっくに見抜いているのだろう。そのことは、笹山も充分理解していた。しかし自分の中の感情を率直に認めてしまえば、高村の接触に素直な反応を示す肉体に引きずられて、精神も、あっという間に堕ちてしまうのではないか。それが、笹山の懸念だった。仕事場でしか肉体関係を持たないのも、その罪悪感によって、自分自身を保つための手段に他ならない。

 いっそ堕ちてしまえば、楽なのだろう。

 何度も考えはしたが、その度に、笹山の中にある、年上としての下らない自尊心が邪魔をした。

 だから笹山は高村に対して、表向きは、拒絶の言葉を吐き続けるのだ。好きじゃない、好きにはならない、と。心の奥では、それとは正反対のことを叫びながら。

「淫乱な笹山さん。愛してますよ」

 笹山の耳元から頬、頬から口元へ、高村が唇を滑らせる。囁いて、見つめ合うのはほんの一瞬。視線が絡み、蕩け、そしてふたりの唇が重なる。

 会話が切れた途端、笹山の耳にまた、雨音が聞えてくる。

 まだ、止まないのか。

 笹山はふと、そんなことを思った。

 けれどそれも、ねっとりと口腔を犯す高村の舌によって、すぐに掻き消されていった。 

(了)

       
« »

サイトトップ > 小説 > 同性愛 > 単発/読切 > 今夜も、フロントカウンターで。