その指先で狂わせて

 普段であれば消毒液のにおいで満たされている清潔感のある室内に、不釣り合いなバターの香りが漂う。濃厚なそれの中に、華やかなバニラの芳香を感じとれば、にわかに目眩が誘われた。

「注意力散漫。これで何回目だ? 楢崎」

 処置用の丸椅子に腰をおろした男子生徒に声をかけながら、沼倉は薬棚の引き出しを開けた。いくつかある箱の中から、絆創膏を二枚取り出す。

「んー、七……八回かな?」

 指折り数える手、その反対の手の人差し指と中指には、赤いものが滲んでいる。

 楢崎は家庭科部の部員だ。

 家庭科部は、毎週金曜日の放課後に調理実習を行っている。作るのは主に洋菓子だ。今、室内に漂う甘いにおいの正体でもある。彼は実習の最中に刃物で指を怪我しては、頻繁に養護教諭である沼倉の世話になっていた。そしてその度に、差し入れとばかりに菓子を寄越すのだった。

「十回目だ。……ほら、指出して」

「わお。今日は記念すべき日だね、先生」

 絆創膏を手に、沼倉は少年の前で膝を折る。さながら王に仕える従者のようだ。

 王に触れるのは恐れ多いとばかりに、沼倉の手が強ばる。

 沼倉は、楢崎に接するのが得意ではなかった。正確に表現するならば『楢崎の、傷を負った指先に触れること』が恐ろしいのだ。これは好き嫌いの話ではなく、むしろ本能的な忌避に近い。

 沼倉には、楢崎の砂糖菓子のようなその指先から流れ出る血液は甘いのかもしれないと思えてしかたがなかった。褐色に色づき始める一歩手前、限界まで煮詰められた砂糖の、深く、濃厚で、癖になるような、そんな甘さだ。だが、それを確かめることは、沼倉が社会的地位を失うこととイコールである。

 元々、他人の体液への執着がなかったわけではない。それでも対象は恋人や肉体関係のある友人に限られていたから、特段問題にもならなかったし、執着といっても単なる嗜好品のような感覚だったのだ。

 しかし、楢崎の場合は違う。恋人でもなければ、勿論肉体関係だってあるはずもない。そもそも、今年度に入って、楢崎が初めて保健室に訪れるまで、沼倉は彼のことを名前すら知りはしなかったのだ。そんな相手に、本来ならば抱くはずのない衝動を感じている。

 生徒の相談相手になることもある養護教諭として、これはあるまじきことだと彼自身も感じてはいた。

 衝動からくる行動を制御することはできても、沸き起こる衝動自体を止めることはできない。衝動は時に暴走を伴う。沼倉が最も危惧していることだ。だから彼は、目の前の少年に触れることを心から怖れている。

「せーんせ、どしたの? ぼーっとして」

「あ……ああ、悪い」

 差し出された手指に滲む赤は、皮膚の曲線を伝い、今にも落ちんとばかりにぷっくりとした球を作っている。

 慌てて沼倉は、そばの作業台に載ったガラス瓶からアルコール綿を摘まみだすと、二本の指に残る血のあとを乱雑に拭った。血で汚れた箇所は見ないようにしてゴミ箱に放り、新たに血が流れ出てこないうちにと絆創膏を巻く。傷口が見えなくなって、ようやく大きく息をついた。

「こういうのって、ピンセットでするものじゃないのー?」

「どうせ大したことないんだ。絆創膏だって本当は必要ないってのに」

「だって血が出てる手で料理できないし」

 指を伸ばし、巻かれた絆創膏を楢崎は眺めている。その様子をできるだけ見ないようにししつつ、絆創膏のフィルムを捨て、そのままデスクの片付けに移行した。

 六時になれば、運動部も活動が終わり、沼倉も保健室を閉めて帰ることができる。気まずい時間を、ごく自然な形で終わらせることができるだろう。

「衛生面からいったら絆創膏で料理するのもどうかと思うぞ」

 デスクはさほど散らかっていない。常に整理整頓を心がけているのだから当然だ。

 PCの電源を落とす。

 沼倉の目はすぐに次の作業を探しだす。

 窓のカーテンが閉められたままだ。ベッドも、放課後まで生徒が使ったままでまだ整えていなかった。

「手袋するからいいの。……それよりも、さ。片付けはおいといて、先にお菓子食べようよ」

 落ち着かない様子でカーテンを束ねる沼倉に、楢崎が歩み寄る。手にはパステルピンクの紙袋。甘いにおいはここから漂っている。

「いや、今はいい……」

 秋の日暮れは早い。薄暗くなった外の景色は、窓ガラスを鏡のように変えて、ふたりを映し出す。

 そうなって初めて、沼倉は、自分自身が硬く怯えた表情をしていることに気付かされた。

「先生が食べてるとこ、見たいなー」

 楢崎の手が紙袋へと潜り込み、絆創膏を巻かれた指たちが、透明な小袋に入れられたカップケーキを取り出した。

 それすら無視して、ベッドを整理し始める。

 掛け布団を畳み、敷き布団に手をかけたところで、沼倉の肩に手がかけられた。

 背筋にぞう、と痺れが走る。反射的に手を払い除けようとするが、逆にその手を掴まれた。手首に、皮膚より硬いものの感触を感じ、沼倉はついに観念するに至った。

「……分かったから、とにかく座れ」

 はあい、と弾む声もまた、甘ったるさを含んでいた。

「甘い」

 片付けたばかりのベッドに腰をおろした沼倉は、カップケーキを一口かじるなり眉を潜めた。

 鼻に抜けるバターの香りが、舌に張りついた砂糖の甘味に粘り気を与え、微かなバニラの風味を口腔内に留めている。

 甘いものが苦手というわけではなかったが、楢崎が持参する菓子は、市販品に比べとりわけ甘味が強い。

 それでも毎回差し出されるだけ全部食べてしまうのは、半ば自棄になっているからなのかもしれない。或いは、砂糖にあるという常習性によって、とっくに中毒になっているか。

「消毒液臭い部屋でこんなおっさんと一緒に食べるより、部室で女子部員連中と食べるほうが楽しいだろうにな」

 ケーキをさっさと腹に納めてしまってから、隣に並んで座る楢崎を牽制する。

「んー……」

 彼は少し思案する素振りを見せつつ、手にしていたケーキの残りを口に放り込んだ。それを噛み砕き、嚥下して後、空いた指を舌で舐めとる。

 じりじりと目映い蛍光灯の光が、うっすらと指に絡む唾液を厭らしく照らした。

 沼倉の腹の奥に、異様なむず痒さが宿る。

 それを見透かしたように顔をあげた楢崎の視線が、沼倉を捉えた。僅かに覗いた赤い舌先が、濡れた唇をなぞる。

「僕さ、先生の指が好きなんだよね」

「は……?」

 ベッドが軋む。楢崎が沼倉との距離を縮めてくる。だが、沼倉は糸で縫い止められたように、体を動かすことができないでいた。

「ほら、僕の指って細いでしょ。よく『女の子みたい』ってからかわれてたんだよね。だから、最初に怪我して絆創膏を貼ってもらったときから、先生の指、男らしくていいなーって」

 無邪気な口調に反して、目は獲物を狙う獣のそれだ。沼倉は、彼の瞳の奥に、燻る欲の炎を見た。それはたちまちに、沼倉へと飛び火する。

 ふたりの指先が触れた。手を伸ばしたのは、どちらが先だったか知れない。ただ、相手の腕をとったのは楢崎だった。

「はは、先生の指……だあ」

 熱い息が、沼倉の左手にかかる。そうしてまとわりついた吐息の上から、楢崎の舌が指をねぶった。小指から順に、指の股まで丹念に。

 明らかな情欲を滲ませた目の前の少年の姿は、沼倉がこれまで押さえてきた衝動をいとも容易く解放させた。

 舌を這わされているのとは別の手で、沼倉は楢崎の空いた左手を取った。人差し指と中指には、先ほど自らが巻いた絆創膏。それを、歯で無理矢理に剥がす。少しふやけかかった指の腹に、赤い筋。沼倉の口から、深い感嘆の息が漏れた。

「いいよ、先生。『それ』……先生のために、したんだから」

 恍惚に上擦ったせりふが耳に届くと同時に、沼倉は低い唸りをあげて傷ついた指にしゃぶりつく。舌先で傷口を抉れば、ほのかに甘い。

 ああ、やはり、思った通りの味だった。得心がいくと、さらに欲しくなる。丹念に唾液をまとわせ、傷口をこじ開け、品のない音を立てて細い指を啜った。

「今日は記念すべき日だね」

 楢崎は、清潔な白衣を身につけた男が、自身の指に舌を這わせる姿を満足げに見つめて呟いた。

「好きだよ、先生」

 その言葉は、どんな菓子よりも甘い響きをまとっている。

(了)

       
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