祝福された僕たちの終わり

 同性結婚が、ついにこの国でも法で認められることとなった。

 世界の風潮を鑑み、さらに国内の人権団体からの度重なる抗議運動も影響してのことだと、法案が可決される前後は、どのメディアも法案成立までのいきさつについてをこぞって報道した。その勢いたるやいなや激しく、『これまで虐げられてきた同性愛者がついに解放され云々』とテレビアナウンサーが繰り返し、視聴者は毎日同じセリフを聞かされ、半ば辟易としていた者も多いだろう。

 この過度な報道体制は、目新しく極めてセンセーショナルな法案に、各報道機関が食いついただけにすぎず、事実法律施行の際には、もはや多くの国民は(というよりは、異性愛者が)同性婚が認められたということなど覚えていない。実際に婚姻関係を結んだ同性愛者を目にして「ああ、そういえばそういうこともあったね」と思い出される程度だった。

 とはいえ、この国では、大体の法律が報道などされないまま、大多数の国民の知らぬ内に可決施行されているのだから、そう考えれば、この件だけが特別というわけではないだろう。

 こうして、静かに始まった同性婚という新たな社会システム。けれど、新たなシステムが構築された直後は、システムの穴をついた問題が必ず起こるものだ。今回のことに関しても、例外ではなかった。

「じゃあ、俺今日も遅くなるから。お前も適当にやってくれよ」

 そう言って、彼は玄関で見送る僕を振り返りもせず、出て行った。

 彼の言葉が示す通り、昨日も帰りは午前零時を回っていた。一昨日もだ。三日前は――珍しく家にいたが、その前は数日帰って来ていなかった。

 僕と彼は、賃貸マンションに二人で住んでいる。この暮らしは半年前から続いているが、彼とはルームメイトだとか、どちらかが居候であるとか、そういった関係ではない。

 彼とは、友人だった。いや、きっと彼は、今でも僕はただの友人であると思っているだろう。けれど、戸籍上、僕と彼は配偶者という関係だった。つまり僕たちは、結婚しているのだ。

 この結婚に愛があるのか、と問われれば答えはノー。僕たちは、互いに望んだ生活を手に入れるために共謀し、施行されたばかりで穴だらけのこの同性婚というシステムを利用したのだ。

 * * *

 僕たちふたりは大学で知り合った。それまで勉強ばかりに傾倒していた僕に、様々な遊びを教えてくれたのが彼だった。彼は明るくこどものようで、それでいて社交性がある。さらに、その言葉端からはいつだって悪意のひとつも感じられず、それ故誰からも好かれる男で、僕もその例にもれず、彼に友人として好意を抱いていた。

 知り合ってから、十年弱。ふたりの友人関係はまだ続いていた。互いに社会人として会社勤めをしていたから、学生時代よりは会う時間も少ない。それでも、彼は僕に定期的にメールを寄越し、他愛もないやりとりを続けていた。基本的に人付き合いが不得意な僕にとっては、数少ない友人のひとりである彼からの連絡は、非常に嬉しく、ありがたかった。ここまで親しく付き合っていた友人は、彼だけだ。

 ――だから、僕は彼から持ちかけられたある提案を、断ることができなかった。

「なあ、結婚しようぜ」

 客もまばらな小さな喫茶店の隅で、ブラックコーヒーを一口啜ってから、彼は言った。言葉の意味とは裏腹に、随分と気軽な口ぶりだ。まるで「ちょっとそこらを歩こうぜ」程度ののりで、彼はいとも簡単に重要なことを口にした。

「ごめん。もう一回言って」 

 聞こえていなかったわけではない。単純に、驚いていただけだ。

 僕が訊くと、彼は身を乗り出しながら、

「だーかーら、結婚しようって言ってんだよ」

 先ほどよりも、真剣味の増した表情を見せた。

「え、……そういう、アレ?」

 ――どういうアレだ。

 我ながら間抜けなことを言ってしまった。だけど、それも仕方ないだろう。何せ、ずっと友人だと思っていた男から、まさか求婚をされるなんて、誰が思うだろうか?

「なんか変な想像してるだろ。……そうじゃなくてさ、お前、今度の春から税金増えるの知ってる?」

「ああ、独身税?」

 来春から施行される改正税法により、二十五歳以上の独身者には税金がかけられる。未婚率の上昇及び出生率の低下を抑えるために、政府がとった対策だ。しかし同時に施行される同性婚の認可が大きく報道されてしまったこともあり、この独身税は知名度が低いのが現状だった。

「そうそう。だから俺、結婚しようと思うんだよ、お前と」

 うんうん、とひとり納得したように彼はしきりに頷いている。

「いや、でも恋人、いるんでしょ。ならその人と結婚すればいいじゃないか」

 同性愛者でもないのに、何故彼がそんなことを言い出すのか、僕には理解できないでいた。同時に、先ほどの求婚の言葉に、動揺もしていた。

 テーブルに備え付けの容器から角砂糖を取り出して、ひとつふたつと自分のコーヒーの中に放りこむ。スプーンでぐるぐるとかき回して、カップを手に取った。とにかく落ち着こうと、中身をぐいと喉に流し込む。甘ったるさの中に潜む僅かな苦みを、舌が感じとった。その段になって、指が小刻みに震えていることに気付く。

「いるけど、結婚はちょっとな。だって結婚したら、そのうちこどもが欲しいとか言い出しそうだし。俺、縛られるのって苦手なんだよ。いつまでも自由に生きたいっていうか。でも独身のままだと税金かかるから、やっぱり結婚しなきゃまずい。で、最近は男同士でも結婚できるようになっただろ? だから、仲良い友達と結婚してさ。どっかに部屋借りて、同居だけして、あとは互いに好き勝手に生活すれば、税金はかからない上に自由も保てるって寸法。……な、一石二鳥だろ?」

 僕の様子には気付かず、彼はその計画を自慢気に披露する。恐らく、誰かの受け売りだろう。彼は、僕が知る限り、そんなに知恵が回るような男ではなかった。

 彼の話を聞く短い間に、僕のカップは空になっていた。それをソーサーの上に戻し、今度は氷がすっかり溶けてしまった冷水入りのグラスを手に取る。何だか、無性に喉が乾いていた。不思議と体が熱い。その熱を冷ますように、グラスの中の冷水を一気に飲み干した。

「それで選んだのが、僕?」

 恐る恐る尋ねる。

「ああ。お前だったら、他のやつといるより気楽だし」

 彼は笑う。出会った頃と変わらない屈託のない笑顔で。彼は今でも、冒険心を失わない少年のようだった。誰よりも純粋で、悪なんてないときっと彼は心から思っているのだ。

 そして僕は、彼の申し出を、その場で受けた。

 役所に届けを提出したのは、それから一ヶ月後。向こう側が透けそうなほど薄っぺらいたった一枚の紙切れによって、僕たちの関係は、友人から配偶者へと変わった。

 役所の担当職員は、僕たちに向かって「おめでとうございます」と事務的な祝福を述べたが、その言葉が彼にどう響いたのかなんて、僕に分かるはずもない。

 * * *

 今日は日曜日だった。友人も多く恋人もいる彼は、朝からそそくさと出かけていき、行く宛のない僕は、ただその背中を見送ることしかできなかったのである。玄関の扉を、僕はぼうっと見つめていた。頬を涙が伝っていく。胸の奥を、ぞわぞわと不安が撫ぜた。

 同じようなことはこれまで何度もあった。それどころか、互いの仕事の関係で、丸一日顔を合わせないこともあるのだから、こうやって朝出がけに顔を見ることができただけでもいいほうだ。それなのに、今日はいやに気分が沈む。

 結局僕は玄関でしばらく泣きはらした後、気怠さに背中を押されてベッドに潜り込んで、食事も取らず、かといって眠るわけでもなく、陰鬱とした気分で、虚しい休日を過ごした。

 僕には、彼のように行く場所なんてなかった。彼と暮らすこの部屋だけが全てだった。勿論、仕事をしているから平日であれば一日の半分は職場で過ごすわけだが、僕はその職場での人間関係が極めて希薄であった。誰かと親しくなるわけでなし、かといって、嫌われているというわけではないとは思う。文句も言わず黙って淡々と仕事をこなしていくから、扱いやすい便利な人間ぐらいには考えられているだろう。とにかく僕にとっては、彼と過ごす時間だけが唯一の楽しみだったのだ。

 だから、僕は彼の提案を受け入れてしまった。彼が危惧していた独身税なんて、僕にとってはどうでもよかったが、それでもこの偽りの結婚を機に、これまで以上に彼が僕に構ってくれるのではないかと期待をしたのだ。

 けれど結局、僕の考えとは裏腹に、彼の提案は、彼が示した以上の意味を持たなかった。

 彼は、僕が同じ家の中にいるというのに、僕をおいて、僕ではないひとと時間を過ごすために、出て行ってしまうのだ。いつだって「お前も適当に遊んでこいよ」と、笑って言う。悪意のかけらもない、あの顔で。

 それを向けられる度に、胸が苦しくなる。

『お前だったら、他のやつといるより気楽だし』

 彼も、職場のやつらと同じなのだろうか。

 僕が反抗しないから。扱いやすいから。

(だから、結婚相手に僕を選んだ?)

 背筋が震えた。慌てて首を左右に振って、その考えを打ち消す。

 彼に限って、そんなことがあるはずないと、自分自身に言い聞かせる。

 彼が裏表のある人間じゃないということは、僕はちゃんと知っている。彼は本当に僕を信用し、気を許してくれているのだ。彼は、浅はかな策略を巡らしたりするような男じゃない。絶対に、そんな男じゃない。そうであるはずが、ない。

 眠っていたわけではなかった。ただ、どろり粘つく頭で思考していただけだった。しかし、ベッドで横になりじっと動かない僕が、彼には眠って見えたのだろう。

「寝てるのか?」

 いつの間にか帰ってきていた(そのことにすら気付かなかった僕は、やはり眠っていたのだろうか)彼は、寝室の奥にふたつ並んだベッド――つまり、僕がいる場所へとゆっくり歩み寄ってくる。床板が、きいと僅かほど軋み、彼が精一杯慎重に足を運んでいるのが分かった。その気遣いが嬉しく、しかし申し訳なくもあり、僕は早々に「起きてるよ」と返事をして、ベッドの上で上半身を起こす。ベッドサイドの目覚まし時計をちらと見やる。出かける前の彼の言葉とは裏腹に、時刻はまだ夕方の五時だ。

 僕の顔を見て、彼はすぐに怪訝な表情を浮かべた。

「やっぱり、具合悪いのか?」

「……やっぱり?」

 訊き返す間に彼はベッドのすぐそばまでやって来て、急にしゃがんだかと思うと、僕の額にぺたりと手のひらをあてた。突然の行動に驚き、心臓がどきりと大きく脈打つ。

「な、な……何」

 動揺する僕をよそに、

「うーん、熱はないなあ」

 手を離すなり彼は言って、首を捻る。

「ま、熱がないなら大丈夫か。飯は?」

 ひとりで話を進めながら、今度は僕がいるベッドの端へと彼は腰を降ろした。

「た、食べてない、けど……、今日、遅くなるんじゃ」

「ああ、そのつもりだったんだけどさ。なーんか、お前の様子が変だから、気になって帰ってきた」

 僕の問いに、彼はぱっと表情を明るくして、答えた。

 確かに、変だったかもしれない。彼が外へ行ってしまうのが、嫌だった。悲しかった。どうしようもなく苦しくて、年甲斐もなく泣いてしまったくらいなのだから。それはともかく、そんな僕の様子に、彼が気付いていたというのが意外だった。そして、僕を気にして、僕の元に戻ってきてくれたことも。

 彼は、僕を心配してくれたのだ。ひとりの友人として。

 そんな彼の純粋さは、かつての僕にとっては、救いに他ならなかった。けれど今の僕には、それは残酷なものでしかない。

 速い鼓動に合わせて、胸が痛む。吐き気を催すほどに。

 思わず、彼の腕を掴んでいた。

「どうした、気分でも悪いのか?」

 彼は再び心配げな顔をしていた。 

(違う、そうじゃない)

 心の中でそう叫んだ。そこで、僕の中の何かが壊れた。

 気付けば、僕は彼をベッドから突き落として、そのまま床に組み敷いていた。

「っつ、何して……っ」

 彼は床に体を打ち付けた痛みに顔をしかめながらも、僕に食ってかかろうとしたようだ。けれど、僕の顔を見るなりすぐに言葉に窮した。この状況と、僕の行動から、鈍感な彼もようやくすべてを察したようだった。彼の表情が、みるみる恐怖の色を濃くしていく。初めて目にするその表情に、これですべてが終わった、終わってしまったと、僕は思った。

「なあ、冗談だよな? だって、俺たち……友達、だろ?」

 口端をひきつらせながら、彼は空笑いを浮かべてみせる。

「友達……ね」

 彼の腕を押さえつける力が自然と強くなる。

 彼にとって僕は、大勢の友人の中のひとりだったかもしれない。けれど、僕には仲の良い友人は、彼しかいなかった。

 証明することのできない愛を唯一の証明とし、そうして結ばれた偽りの契約。

 きっとあの時受けた形だけの祝福が、僕をおかしくしてしまったのだ。

 祝福なんて、いらなかった。

 僕はただ彼と、少しでも長い時間を、友人として共に過ごしたいだけだったのに。

 その想いは、自分でも気付かないうちに歪んでしまった。

 怯える彼に、顔を寄せる。僕の下にある体が、大きく震えた。その耳許で、僕は囁く。

「何、言ってるの? 友達じゃなくて、夫婦、でしょ?」 

 口に出してしまえば、最後。やるせなさから込み上げる笑いと涙を、僕は抑えることができなかった。

 彼の唇から、ひ、と小さく漏れた悲鳴を、僕は自分の唇をもって、静かに殺した。

(了)

       
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