不器用な君と恋していく方法

 鳥羽千波ちなみの記憶は、幼馴染みである伊勢嶋史樹ふみきの花綻ぶような笑顔で始まっている。

『ちなちゃん、これ、もらってくれる?』

 まだ小学生にもならなかった頃、史樹から突然差し出されたのは、ジュズダマで作られたブレスレットだった。それを大事そうに載せた小さな両手。十指のあちこちには絆創膏が貼られていた。

『ジュズダマ……? ふみくんが作ったの?』

『うん。女の子が持ってるの見て、ちなちゃんがかっこいいって言ってたから。でも、ごめんね……あんまり上手にできなくって』

 ジュズダマの連なりは、確かにどことなくぎこちなかった。だが、慣れない針と糸で、史樹が自分のためにそれを為したのだという事実は、幼い千波の心を奪うには充分すぎた。

『ううん……すごくかっこいい。ありがとう、ふみくん』

 ブレスレットごと、千波は史樹の手を握りしめた。彼の手の感触、体温。硬く艶やかなジュズダマ、傷を覆う絆創膏。はにかむ史樹の、うっすらと染まる頬。

 千波は、胸に何か熱いものが込み上げてくるのを感じていた。

 ――それが恋に落ちた瞬間なのだと気付いたのは後々になってからだが、その感情自体は、出会いから二十年以上経った現在でも色褪せていないままだ。

 窓のない白い壁に囲まれた四畳ほどの空間。天井と壁の上部は接面していない。入り口から左手には、三台のハンガーラック。そこには二十着ほどのスーツと、同数以上のワイシャツが掛けられている。

 地下鉄の駅二つ、その丁度中間辺りに位置する、便利とは言い難い立地のトランクルーム。予備のスーツやオフシーズン衣類保管庫として契約された一室だ。――建前上は。

 部屋とは言い難い、単に区切られただけのこの場所に、微かな衣擦れと粘着質な音が混じる。フロア全体を適温に保つための空調が生み出す風音が、それらを浚っていく。

「っ……ァ、ふ……」

 押し殺した甘い声だけが、狭い空間に残る。或いは脳に直接響いているような気さえするが、淫熱に浮かされた思考ではもはや判断がつかない。

 史樹は上半身にワイシャツのみを辛うじて身につけ、力の入らない右手で壁にすがり、震える両足で何とか体重を支えていた。空いた左手は口許に当てられ、隙間からは熱い吐息が漏れ出す。

 背後から覆い被さるように身体を密着させ、千波は自身の昂りで史樹の後孔を穿っている。

 抽挿はないに等しい。硬いそれで内部をゆるゆるとかき混ぜ、腰を押し当てる力を僅かに変化させながら、最奥への愛撫のみをひたすら繰り返す。粘膜の摩擦によって発生する淫猥な水音や、強い快楽によって押さえきれない嬌声が、外部に漏れ聞こえるのを防ぐための、極めて静的な性交だ。

「く、ぁ、……ぁ」

 激しい行為ではないが、しかしそれでも史樹は十分すぎるほど性感を刺激されている。現に彼の下腹に宿った熱は屹立し、ゴム製の皮膜越しでも分かるほどに脈打ち、存在を主張していた。

「は……、史樹、きつくないか?」

 耳元で尋ねると、小さく頷きで返答がある。幼子のような仕草に、堪らず千波は眼前で艶めく黒髪に何度もキスを落とした。

「……――っアぁ!」

 汗に濡れたワイシャツの張りつく背が弓なりに反り、全身が大きく震える。堪えきれずに漏れだした声が、彼の絶頂を示していた。

 千波の動きが止まる。代わりとばかりに、その両腕は史樹の身体をそっと包み込んだ。

「……悦かった?」

「ち、な……ぁ――っ!」

 熱い吐息混じりの低音に耳朶をくすぐられ、史樹はその場に崩れ落ちる。拍子に千波の性器がずるりと抜け出、瞬間の摩擦に史樹の背は再び震えた。下腹で息づく屹立がついに精を吐き出し、薄膜の先端にたっぷりとした液溜まりが生まれる。

 粘膜によって繋がれていた二人の身体が分かたれた後、場を支配したのは、荒い呼吸と空調の音。

 十数分後、微かな振動音が史樹をようやく絶頂の余韻から呼び覚ました。

 音の出所は床に放られた史樹のビジネスバッグの中だ。鳴りやまないそれに、困惑気味の視線が千波に寄せられる。いいよ、と唇だけ動かして答えれば、史樹は表情を緩め、四つん這いでそろそろとバッグに向かっていった。どうやらまだ腰が立たないらしい。

 取り出されたスマートフォンのディスプレイには、史樹の勤務先の名が表示されている。彼の指先を目で追うと、なぞられた画面のあちこちが白っぽい円形に浮き上がっているのが見てとれた。貼られた保護フィルムの中に空気が入ってしまっているのだ。

 相変わらず不器用だな、と千波は思う。おかしくなると同時に、堪らない気持ちになった。

「ぁ……、――もしもし、い、伊勢嶋、です」

 受話口に向けられた声がまだ艶を纏っている。散々に煽られた熱が冷めきっていないのだろう。

 電話に出なければ出ないで彼は気にしてしまうだろうが、こんな調子であれば無視をしたほうが却って良かったかもしれない。史樹にとっても、千波にとっても。

 現に、情欲の滲む声を自覚した史樹は耳まで紅潮させていた。そんな彼の、様々な液体で濡れた尻や性器がワイシャツで隠しきれず、すっかり露になっている。先程までの行為で史樹は達していたが、千波は一度も射精していない。我慢など、できようはずもなかった。

「いえ、構いません……はい、はい、それでした、ら――ァっ……!」

 千波の指先が、史樹の内腿を撫で上げる。不意の刺激に声を乱し、史樹は振り返った。質の悪い悪戯に見開かれた両目には、じわりと涙が滲む。下唇を噛み、どうにか刺激を逃そうと必死だ。

「え、ああ、大、丈夫です……ん、――ぁふ、……第一倉庫の、ええ……そ、そうで……す――ァ、あ、い、一番奥のファイル棚の……確かB列に……ああ、ありました? いえ、見つかってよかったです。はい、は……ぃ、ぁあッ――」

 それでも史樹は通話をやめなかった。しかし電話越しの会話中でも、侵略の手は止まらない。内腿から脚の付け根、尻たぶをゆっくりと撫で回し、双丘の間へと指が埋められると、さすがの史樹も一際高い声を上げ、スマートフォンを床に取り落とした。

「すみません、ちょっと手が滑って……それでは……ぁ、あとでまた……ッ!」

 慌ててそれを拾い上げ、雑に会話を切り上げる。微かに震える指先が終話ボタンを押すのを確認し、千波は史樹の手からスマートフォンを奪い取ってバッグの上へと放り投げた。そしてそのまま背後からのしかかる。

「史樹――ッ」

「――ふあぁ、アっ……!」

 熱い怒張で一気に奥まで貫かれ、史樹の喉が大きく反った。

「悪い、激しくしたい」

 言い放つ声は掠れ、切迫した情欲を孕んでいた。

「ちょっ、ちな、……ひあ、あァ――!」

 許可を得ることなどせず、腰を打ち付ける。

 肌同士がぶつかる度に、粘り気を含んだ接触音。史樹はもはや漏れでる声を押さえることすらできない。

「ち、……な、ちなぁ、ぁ、も……、ィ、っく――ッ!」

「史樹、史樹――ッ」

 史樹の身体が強張り、床に白濁が吐き出される。

 筋肉の収縮によってきつく締め付けられた千波自身も、すぐに精を放った。

 二人の身体が一気に弛緩し、重なるように床に横たわる。

「……好き。すげー好きだ」

 荒い呼吸の合間に、千波は呟いた。

「珍しいね……客先?」

 床に腰を下ろしたまま、濡れタオルで身体を拭う史樹は、スマートフォンを操作する千波に上目で視線を寄越す。

「いや、会社から。午後の営業出る前に一旦社に戻れってさ」

 溜め息が溢れる。

 千波は史樹の前では殆どスマートフォンを触ることがない。それは、彼と過ごす時間を大事にしたいからという理由からだ。本心をいえば電源すら落としてしまいたいところだが、昼休み中とはいえ就業時間内、残念ながらそれは叶わない。

「あ……、それ」

「ん?」

 史樹の目線が、千波の手元に移っていた。白いスマートフォン。その下部には、青がかったグレーの歪な珠が輪となったストラップが結わえ付けられている。

「まだ持ってたんだ」

「ああ、これか。さすがに小さくてもう付けられないから、ストラップに改造したんだ」

 ジュズダマを糸で繋げて作られたそれは、幼い頃史樹から千波に贈られたものだ。珠の表面は、二十年以上前に作られたものとは思えないほど艶が残っている。

「捨ててもいいのに……下手だし、恥ずかしいよ」

 目の前に掲げられたそれからふいと逸らされた顔が赤い。誤魔化すように、衣服を身に付け始める。

「不器用なお前が一生懸命作ってくれたんだ。捨てるどころか、墓ん中まで持ってくつもり」

「……ばか」

 決してふざけてるとは思えない千波の口ぶりに、史樹もそれ以上のことは言わなかった。

「お前に対しては馬鹿にもなるさ。惚れた弱味ってやつ。――じゃなきゃ、」

 身を屈め、床に片膝を付く。顔を覗き込めば、目線が合った。

「こんなとこでセックスなんてしないだろ?」

「っ……」

 耳まで紅潮させた史樹の、羞恥と情欲とが滲む、くしゃりと今にも泣きだしそうな表情。

 ――こういうところが本当、堪らない。

 澄ました顔で表面上はやり過ごしてはいるが、心臓は激しく脈打っているし、とっくに欲を吐き出しきったはずの下半身には新たな疼きが宿る気配さえある。

 この場所で身体を重ねることを提案してきたのは、事実史樹の方からだった。

 二人の関係が幼馴染みから恋人に変わったのは、高校生最後の年。もともと千波が史樹に想いを寄せていたのだが、付き合い始めてから熱を上げたのは史樹だ。

 史樹は良くも悪くも素直だ。隠し事なんてできる性格ではない。千波との関係に夢中になりすぎた結果、史樹の両親に二人の関係が知られるまで長くはかからなかった。厳格な彼の父によって、高校卒業と共に史樹は家を追い出されてしまった。

 そのことを、史樹は酷く気に病んでいる。――自分がもっとうまく振る舞えたら、周囲を傷つけることもなかったのに。そう言って、一時は千波から離れようともした。だが、自分から関係を清算できるほど器用に感情を制御することも、史樹にはできなかった。

『離れなきゃだめなのに、離れられないよ』

 別れよう、と言った口で続けざまにそう言葉を紡いで、不器用な彼は笑顔を繕いながら涙を浮かべた。

 そういった経緯を踏まえつつ、二人の関係にルールを設けることを提案したのは千波だ。

 自宅に行き来しない。互いの生活圏では会わない。

 これで史樹の不安も解消されるだろうと、互いに納得して決めたことだ。

 ――結局、こうして千波の職場からさほど離れてもいない場所で繰り返し会うことになってしまってはいるが。

「千波ごめん。面倒なやつで、本当に……」

 千波のスーツの袖口を引っ張りながら、史樹が口ごもる。

「ん、どした?」

「夜、……また、したい」

 俯いたまま、ぽつりと呟かれた。

「ああ。勿論、いいよ。じゃあ今晩またここで――」

 今すぐにでも押し倒したい欲求を必死に押し殺す。自然早まる口調を、

「ホテル、行く」

 史樹の一言が断ちきった。

「でも」

 知人に目撃される可能性を考えて、元々ホテルでは会わない約束だ。

「…………さっきみたいに、してほしい、から」

 蕩けた視線ですがりつかれ、くらくらと目眩がする。だが、午後の業務を考えれば、ここで無理をさせるわけにはいかない。

「……了解。車借りてくるから、市外まで出よう」

 性的な衝動を何とか堪え、史樹の頭を幼子にするように撫でる。

「ごめん」

「いいって。ワガママ言ってくれて嬉しいし。でも、そうだな」

 タオルで拭かれたせいか、やや湿った髪が手のひらに吸い付く。その感触すら、今や千波を煽る材料でしかない。

「お前のエロい声が聞けるって考えたら、仕事中勃っちゃうかもな?」

「な……っ、千波っ!」

 冗談で濁し、彼から離れる。どうやらこれ以上は我慢できそうになかった。

「はは、悪い、先に出るよ。あとで連絡するから。愛してるよ、ふみ」

 放っていたビジネスバッグを拾い上げ、千波は逃げるように部屋をあとにする。甘い言葉をせめてもの置き土産に。

 トランクルームのあるビルから通りへ出ると、瞬間、眩しさに目が眩んだ。室内も決して暗いわけではなかったが、それでも南中近い太陽の光には負ける。

 昼食時も終わりに近付き、これから職場に戻るであろう人々の姿がちらほらと見えた。

 千波の職場はトランクルームからさほど離れていないが、帰社する前に、先ほどの行為で汚れてしまった衣類をクリーニングに出さなくてはならない。最寄りのクリーニング屋は駅前だ。午後一番のアポイントの時間を考えると、あまりゆっくりもしていられない。

 ふと、スラックスのポケットから、小刻みな振動が伝わってくる。

 立ち止まって歩道の端に避けてからスマートフォンを取りだし、指先で操作する。通知欄にはメッセージが一件届いている旨が記されていた。

 送り主は史樹だ。

『ちなちゃんごめんね、ぼくもずっと愛してる』

 画面に表示された恋人の素直な言葉に、自然口許が緩む。

 メッセージは、千波が目を通すなり消えてしまった。送信側から消去されたのだ。史樹からのメッセージは決まって読了後に削除される。曰く、目に見える形で自分の言葉が残るのは気恥ずかしいからだという。結果、一覧画面にあるのは、千波の送信したメッセージのみ。入力した本人ですら、一見一方通行な履歴に時折可笑しくなる。――それでも。

「口で言えよなー、ったく、可愛いったら」

 愛しい、と思うのだ。不器用で、恥ずかしがりで、それなのに千波を欲しがることだけはやめない恋人のことが、好きで堪らない。

 千波はメッセージが表示されていた箇所に、軽くキスをした。

 スマートフォンに結わえつけられたジュズダマのブレスレットが揺れている。

 画面上に再び指を滑らせる。受話口からコール音が鳴り始めるのを確認すると、それを耳に当てた。

「もしもし? 普通車を一台予約したいのですが――」

 緩む頬を整えながら、事務的に言葉を選ぶ。

 退勤後のことは、今は意識しないように努めなければならない。

 通話しながら、千波はようやく歩きだした。

(了)

       
« »

サイトトップ > 小説 > 同性愛 > 単発/読切 > 不器用な君と恋していく方法