変わらずに、変わりゆく
つけっぱなしのテレビで流れているのは、年末の忙しない商店街の様子。しかし、それを伝えるレポーターの声はほとんど聞こえてこない。限界までボリュームを絞っているためだ。
そもそもこの部屋で、まともにテレビを観たためしがない。いつだってこうして、僅かばかりの賑やかしの材料として用いられるだけだった。
カーペット敷き六畳間の洋室。勉強机に書棚、テレビ。それらだけでも十分に部屋を圧迫しているというのに、部屋の中央にはこたつが我が物顔で鎮座している。
洋室には、明らかに不似合いなそれだ。しかし、こたつで暖をとりながらの読書は、この季節ならではの格別な味わいがあると、草太はかねがね思っていた。
「草太、みかん」
草太から向かって右側には、背の中程まですっぽりとこたつ布団に埋もれたうつ伏せの青年。手元の文庫本に視線を落としたまま、ページをめくっている。
「は? 何個目なん? そろそろ止めとき。手ぇ黄色くなる」
こたつの上には、積まれた文庫本、籠に入ったみかん、そしてこれまでに草太が剥いたみかんの皮。山を成すそれを、いくつ剥いたかはもう覚えていなかった。そしてそれらはひとつとして、草太の口には入っていない。
「けち」
ちらと恨めしげな視線を向けられる。
「けちやない。大河、絶対後から文句言うやろ」
軽い溜息を吐く。
毎年冬になると、草太は必ず大河のために、こうしてみかんを剥く。そのたびに、手が黄色くなったと後になって嘆かれていたのだから堪らない。
だが、今年に入って草太が県外の大学に進学したため、地元就職した大河とは物理的距離があいた。大河以外の多くの人間と交流を持つことによって、草太はようやく理不尽な八つ当たりのいなし方を覚えることができたのだ。
「なあ大河、今どれ読んでるん?」
不自然にならない程度に、話題をそらす。
読書は元々草太の趣味だ。積まれているのもすべて草太が蒐集したものである。
一方大河は、本を読むより、ゲームをしたり映画を観たりといったことを好んだ。しかしこの部屋に遊びに来る時だけは、静かに読書をする。夏にはクーラーと扇風機で涼み、冬はこうやってこたつで暖まってミカンを食べながら。
それらはあまりに自然な光景になりすぎて、いつから習慣づいたのかは、もはや定かではない。
「んー、明智小五郎が犯人を追い詰めるやつ」
話を変えられたことに、特に疑問も抱かなかったらしい大河が答える。
「多いからわからん」
今日の読書にと用意したのは、すべて江戸川乱歩の著書だ。『カタいけどカタくないやつ』という大河からの曖昧なリクエストに、草太が応じて用意した。文句を言わずに黙々と読んでいるところをみると、この選択は彼のお眼鏡にかなったのだろう。
気に入られたことは何よりだが、大河の返答には流石に草太も困惑した。乱歩作品の代表的キャラクターである明智小五郎が、推理によって犯人を追い詰める作品はいくつもある。それこそ、たったこれだけの判断材料では、天下の明智小五郎であっても迷宮入りになってしまう事案ではないだろうか。
だらだらと横になっていた大河が、突然身体を起こす。そうしてその場に座りなおし、
「ん」
手にしていた文庫本を、草太に向かって掲げてみせた。
明かりの灯るトンネルが中心に描かれた、黒い表紙。上部には金の箔押しで『江戸川乱歩傑作選』とある。
「……ああ、それか。乱歩の中でも解りやすい話がまとまってて良いやろ」
乱歩の作品は短編が多い。その中でも、著者の代表作ともいえる数編が、彼が手にした一冊の中に収められている。表紙の装丁も含め、草太が気に入っている本の一つだった。
「うん、面白い」
表情こそ変わらないが、特段読書が趣味というわけでもない大河が下した評価は、草太が胸を撫でおろすには十分すぎる程だ。
「それなら良かったわ」
思わず表情が綻ぶ。
嬉しくないはずがない。何しろ、彼のためにと選んだのだから。
浮き立った気持ちは、山積みになったみかんの皮をゴミ箱へと片付けることで、何とか落ち着かせた。
ウェットティッシュで丁寧に拭った手を、卓上に積んだ文庫本に伸ばす。
ちらと確認した壁掛け時計の針は午後四時を指している。大河が帰宅するまで、あと一時間ほど。
少し思案し、用意した本の中から、比較的薄いものを選び取る。
表題作のほか、多数の短編で成り立っている一冊だから、キリがいいところで中断しやすいだろうという判断だ。
「草太」
表紙を捲ったところで呼ばれ、顔を上げる。
「うん?」
声をかけてきた当人は、卓上に開き立てた文庫本で顔を隠すように伏せたままだ。
こたつの中で胡坐を組んだ足を、横からちょいちょいと軽く蹴られた。
「足が邪魔」
今まで触れてもいなかったのに、邪魔だなど。思いはすれ、怒りは沸かない。恐らく、もう集中力切れなのだろう。
「我慢しい。これ、一人用のこたつなんやから」
まだ読み始めてもいない本を閉じる。そして、もはや用済みであろう大河の手元の本もそっと取り上げた。抵抗はない。一応、開いていた部分にスピンを挟み、二冊重ねて置く。
「草太」
「今度は何よ?」
完全にだれた様子で、右頬をべったりと卓上につけた彼が、ようやく上目に草太を見た。
「みかん……」
乞うような視線と声で訴えられる。
こたつの天板上に落ちた髪。木目とその色調、柔らかくうねった髪の黒。そのふたつが、草太の心を酷く震わせた。
小さく喉が鳴る。そっと目を逸らす。彼を視界から外さない程度に、ほんの僅かだけ。
「草太」
――名前を呼ばないでほしい、と思う。本意ではないが、切実な本心だった。
甘えた声が、訴えかけるような目が、室内に漂う空気を変えていく。
視界の端で、テレビが瞬く。光や色が、移り変わる。大河の視線だけは、草太に向けられたままだ。
「……もう、何なん?」
無性に顔が熱い。
こたつのせいだ。そう決めつけながら、顔を隠すように動かした手を掴まれる。
思わず、大河を見た。見て、しまった。
「こっち、いつまでいるの」
大河は身体を起こし、先程までとはうってかわって真剣な声色で問うてくる。さほど強い力で掴まれているわけではないが、振りほどこうという気にもならない。
「あー……」
気まずさから、言葉に詰まる。何年も続いてきたように、この部屋で読書をして、時間が来れば「それじゃあ、また」と別れられたらよかった。――だが、直接尋ねられては、もはや誤魔化すことは不可能だ。
「三日には帰るわ。バイト、あるし」
年末年始、大河の家は、毎年家族旅行に出かける。故に草太の帰省中にふたりで会うのは、今日が最初で最後だった。
「次はいつ帰ってくるの」
「さあ……二月頃には帰ってくるかもしれんけど、はっきりは判らんわ」
「そっか」
淡々と答えれば、大河からも短い返事。
掴まれた手は、意外にもすぐに離された。触れられていた部分に、大河の温度が残っている。
完全なる無意識。反対の手で、草太はそのぬくもりに蓋をしていた。無作為の行動を自覚した途端、酷い羞恥にかられる。
「草太」
心臓が跳ねた。
「何――」
聞き返した瞬間、大河の両腕が草太の方へと伸ばされるのを見た。気づいた時には、既に背中にカーペットの感触。そして上半身にのしかかる、決して不快ではない重み。
「……は、ちょ、おま……」
拒絶の意図を含んだ発語ではない。ただ、唐突なことで混乱していた。
胸元に額を擦りつけられ、柔らかい黒髪が喉元をくすぐる。
些細な触れ合いに背筋が小さく震えて、思わず身をよじった。
「すごく、寂しい」
ぽつり、耳元で囁かれる。その弱弱しい声が、草太の心臓をきつく締めあげて、そこから甘く切ない痛みが全身に広がっていく。
「……俺だって、平気やったわけじゃないんやけどなあ」
進路が分かれることは、互いに納得のうえだった。そしてそれに伴って草太が実家を出なければならないことも、大河は了承していた。だが、物心ついたころから毎日顔を合わせていた相手と、急に何か月も会わないでいると、どう接するのが正解かなのか、判断がつかなくなってしまった。
かといって今日、久々に顔を合わせた彼を、避けていたわけではない。むしろ、幼馴染としては、真っ当なやりとりができたと思う。――幼馴染として、は。
「でも、あんまり帰って来れんくて、ごめんな」
恐る恐る、彼の頭に触れる。拒否される様子はない。
小さく安堵の息を漏らす。五指で髪を梳くようにしながら、手のひら全体でゆっくりと撫でる。
「連絡もなかった」
ふてくされた口調の彼は、しかし甘えるように、手のひらに頭をぐりぐりと押しつけてきた。
裏腹な態度に、思わず吹き出してしまう。
「もー、ごめんて。これからはなるべく毎日連絡するし。そのかわり、時間が遅くなっても怒らんでや?」
手のひらを滑らせて、指先で前髪を掬う。艶のある黒に、草太はそっと唇を寄せた。そこからは、ほのかにみかんが香る。甘く爽やかな冬の匂いだ。
「連絡来るまで起きてる」
大河が顔を上げ、上目に視線を送ってくる。口ぶりも上目遣いも、まるでこどものそれだった。
「いや、まあ、無理せん程度にな?」
つられて草太も、こどもにするように、大河の背を撫でる。それが心地いいのか、胸元に頬を擦り寄せられた。
堪らなくなって、両手を彼の背に回し、抱きしめる。彼が身動きできないほどに強く。
「そうや。今日出してる本、みんな大河に貸しとくわ。そんで毎日ちょっとずつ読んで、電話で感想聞かせてや」
我ながら、丁度いい理由を思いついた。草太は内心自讃する。
これまで彼と電話で話すという習慣がなかったため、電話をしても何を話していいかわからず、そのため忙しさを理由に連絡を怠りがちになっていた。
だが、本の感想を聞くというはっきりとした目的があれば、話題に事欠くことはないだろう。
「……わかった」
彼は小さく頷いて、
「草太」
甘えた声で名前を呼んでくる。
「……ちゃんと好きやから」
単なる幼馴染としてではない草太の言葉に、大河は満足そうに「うん」と小さく頷いた。
「ねえ、草太」
強請るような視線。
「みかん……」
幼馴染であり、恋人でもある彼が呟いた。
「みかんは、だめ」
ぴしゃりと言い切れば、急に可笑しくなってくる。
ふたりで目を合わせたまま、どちらともなく声をあげて笑った。
大河の頬が、うっすら上気している。恐らく、自分もそうだろうと、草太は思う。
誰の視線も寄せられていないテレビは、下げられたままのボリュームで、いまだ年末の喧騒を伝えて続けていた。
ふたりの元にも、もうすぐ新しい年が訪れる。
(了)