名前のない恋人達

 大きなはめ殺しの窓の向こうでは、闇を彩る光の花が咲いている。

 純白のテーブルクロスが目に眩しい。その上に整然と並べられた料理を前に、フォークとナイフを握りつつも、落ち着かない様子で彼女は視線を泳がせていた。向かい合わせでその姿を眺めていると、微笑ましさに思わず笑いがこぼれてしまう。

「ほら、もっと楽にしていなさい」

 私が声をかけると、はっとした様子でこちらを見て、恥ずかしさからか彼女は僅かに頬を染めた。そして小さく頷いてみせる。

 その動きに合わせて、身に着けたドレスと揃いの色をした、ルビーのイヤリングが揺れた。彼女の白い肌に合うようにと、私が選んだものだ。初々しい仕草に、不釣り合いな大人びたドレス姿は、それだけで私の胸の奥で燻る情欲を刺激する。

 美しくも幼さを残す愛しい彼女を今すぐに抱き締め、唇を貪り、その体に舌を這わせ、そして自分自身も同様に弄ばれたい――そんな淫らな欲望が、私の中にふつふつと沸き上がるのだ。

 冷静な表情を崩さないまま、私が心の中ではそんなことを考えていると知ったら、彼女は一体どう思うだろうか?

「やっぱり、落ち着かないよ」

 結い上げた長い黒髪を気にしながら、彼女は言った。羽織ったショールが落ちそうになり、慌てて体に巻きつけている。すると彼女の手が皿の上に置いたナイフに当たり、音を立てて床へと落ちた。眉をひそめ、溜息をつく。

「ほら、もう」

 ディナーは始まったばかりだというのに、その表情には既に疲れが見え始めている。

 給仕の男が現れ、新しいナイフをテーブルに置くと、代わりに落ちたナイフを拾って一礼し、あっという間に去っていった。

 彼女も合わせて、申し訳なさそうに頭を下げた。

 

 彼女をこうして食事に誘ったのは、今日が私の誕生日だからだ。彼女は今日が私の誕生日であることを知らないが、それでも彼女に祝われているかのような甘い夢に浸りたかった。彼女が何も知らずとも、特別に着飾り、グラスを傾け、微笑みかけてくれれば、それだけでよかった。

 そう、全て私の自己満足。けれどそのせいで彼女に辛い思いをさせているのかと思うと、私は何て傲慢な女なのだろうと嫌気を覚える。

 彼女の知らぬところで私が誕生日を迎えるように、私も彼女の誕生日を知らなかった。それどころか、私も彼女も、互いの名前すら知らないのだ。

 彼女は今は私の恋人だが、明日も私の恋人であるかどうかは分からない。彼女は私よりも随分若い。これから異性に興味を持つ可能性だってある。別れがくることを望んでいるわけではないが、そうならないとも限らない。だから、これは私なりの予防線であり、年上としての下らない意地のようなものだった。

 彼女が私の前から去ってしまった時、悲しみに狂わなくても済むように。

「誕生日はおろか、名前すら知らないような些細な関係だったのだ」と、自分に言い訳ができるように。

(卑怯な女ね、私)

 グラスを手に取り、円を描くように揺らす。琥珀色のとろりとした液体が、透明な檻の中でうねりをあげた。腕に着けた飾り気のないシルバーのブレスレットが、いやに冷たく感じた。グラスを口元に運び、一口だけ喉に流し込む。私の想いとはうらはらに、上品な甘い香りが鼻に抜け、爽やかな酸味が口に広がった。

「ごめんなさい」

 俯いた彼女は、消え入りそうな声で言った。

 小さく肩を震わせている。泣いているのだろうか。

 ――私のせいで?

「……どうして謝るのかしら?」

 尋ねた言葉は意図せずも、やや尊大な響きを冠していた。それを誤魔化すようにもう一口ワインを飲む。しかし、これがかえって逆効果なのではないのかと気付いたのは、グラスを置いた後だった。

「せっかく、あなたが……その」

 白いテーブルクロスを彼女の涙が濡らした。少しだけ視線を上げ、彼女は上目使いで私に視線を送った。潤んだ黒い瞳が、どんな宝石よりも美しく輝き、不謹慎にも私の胸を高鳴らせた。

 言い淀む彼女と視線を合わせ、言葉を促す。

「あなたが私のために、色々と用意してくれたのに……私、マナーとか分からなくて……だから、迷惑かけて本当に……ごめんなさい」

 再び謝罪を口にして、彼女はぽろぽろと涙をこぼした。

 彼女の所作を迷惑などとは思ってはいない。最初は誰だって不慣れだ。それを責めるつもりもない。しかし――

「私が、あなたのために……?」

 聞き返すと、子供のように小さく頷いた。

 彼女は何か勘違いしているようだ。このディナーは私のためのものだし、彼女に着せたドレスも、私が単に着飾った彼女を見たいがためにしたことだ。私はいつだって、自分のためだけに動く、貪欲で傲慢な女なのだから。

「今日が、私の……誕生日だから……」

「誕生日? あなたの? 今日が?」

 驚きのあまり、声のトーンが上がる。周囲からの視線を感じ、慌てて口を噤んだ。彼女も私の様子を不思議に思ったのか、顔を上げ、こちらを見ている。

「……あなた、私に誕生日を教えてくれたかしら」

 声をひそめて、彼女に問う。「え?」と首を傾げて、彼女はしばし考え込んだ。もう泣いてはいなかった。

「ええと、教えてないなら、なんであなたが綺麗なドレスを着て、私をこんな場所に誘ってくれたの?」

 きょとんとした彼女を見て、一気に肩の力が抜けた。同時に可笑しくなってくる。私がドレスを纏っているのは、このレストランがそれなりの場所だからだ。それに、彼女だけがドレスを着ていたら、端から見れば私たちはアンバランスに映るだろう。さらにこのレストランを選んだのは、知人が経営する店だから予約がとりやすかったということが大きい。特別な日だからと、ランクの高い店を選んだわけではなかった。

 しかしそれらをひとつひとつ彼女に説明することは、無粋に思えた。

「ふふ、そうね。今日は、あなたの誕生日のお祝い。だから、余計なことなんて考えずに、私だけを見て。二人で、ゆっくり食事を楽しみましょう?」

 私が言い終わると同時に、室内が薄暗くなる。優しげなピアノの音色が聞こえ始めた。このレストランがうりにしている、ピアノの生演奏だ。

 彼女は小さく感嘆の声をあげた。フロアで食事をしている客のほとんどが、ピアノの演奏に聴き入っていた。

 私は席から少し腰を上げ、口元に手を当てて彼女に耳打ちするような仕草をした。彼女は何の疑問も持たずに顔を寄せる。近付いた彼女の顎を指ですくい、唇を奪う。ほんの少し触れるだけの、軽い口付けだ。離れ際に舌先で彼女の唇をなぞり、何事もなかったかのように私は再び席についた。

 本当に私は、狡い女だ。彼女の気持ちを繋ぐことが出来るなら、どんな些細なことも利用する。彼女の純情に付け込むことになったって構わない。

 彼女との別れを想定していながらも、それでも私は彼女を手放したくなかった。

「私だけを見てと言ったでしょう? 食事が終わって、デザートまで頂いた後は……あなたに、特別なプレゼントをあげるわ」

 部屋でドレスを脱いでからね、と付け加えると、彼女は顔を真っ赤にしてするすると大人しく席についた。普段のベッドの中では平気な顔で私の肌に舌を這わせるというのに、こういう初なところが本当に可愛らしくて堪らない。

「改めて、乾杯しましょう。あなたの生まれた、素敵な日に」

 グラスを手にしてテーブルの上で傾けると、彼女も慌ててグラスを寄せた。グラス同士が触れ合って、軽く高い音が鳴る。その中で、琥珀色の液体が室内の僅かな照明を受け、煌きながら揺れた。

 

 名前も知らぬ恋人の誕生日。

 私は自身の名も誕生日も告げぬまま、来年もまた、今日と同じ日を迎えるのだろうか。

 口にしたワインは、先ほどまでより、少しだけ苦い気がした。

(了)

       
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