髪梳きの夜に

 鏡台の前に座わる私の長い黒髪に、背後に立つ彼女が優しい手つきで櫛を通す。

 何かの願掛けであるとかそんな大層な思い入れがあるはずもなく、ただ惰性で腰の辺りまで伸びてしまっただらしのない私の髪は、普段は重苦しく鬱陶しいものでしかない。けれどこうして彼女が櫛で梳いてくれる時だけは違う。私の髪はまるで絹糸のように艶やかで柔らかな手触りに変わり、あっという間にひとつの解れもなくなる。魔法のようだといつも私は思う。

 

「はい、おしまい」

 テーブルに櫛を置いて、彼女は言った。そして綺麗に整った私の髪に、軽くキスをする。これが最後の仕上げ、とでも言わんばかりに。それがなんだかくすぐったくて、私は僅かに身を捩った。

「嫌だったかしら?」

 鏡越しに、彼女が不敵な笑みを湛えているのが見えた。耳元で囁かれ、ぶるりと背筋に甘い痺れが走る。

 背中越しにほのかに漂ってくる、彼女の香り――カサブランカ・オードトワレ。

 ――私の気持ちなんて、お見通しなんでしょ。

 口に出したかった言葉も、蕩けるような白百合の芳香に飲みこまれ、消えていく。

 全身から力が抜け、身体がくにゃりと後ろに倒れる。それをすぐに受け止めたのは、勿論彼女だ。柔らかなふくらみが私を包み込む。その感触に、胸の奥から、彼女に対する愛しさがじわりと滲み出してくる。

 天井を背景に、彼女の顔が私の目に映る。長い睫、切れ長の目、化粧なんてせずとも雪のように白い肌。そしてそれによく映える、紅い唇。その美しさに思わず「ああ……」と間の抜けた声が、私の口から漏れた。

 

「イケない子」

 私を抱きとめたまま、彼女は顔を寄せてきた。互いの鼻頭が触れ合いそうなほど、二人の距離は近い。彼女から漂う濃醇な白百合の香が、胸いっぱいに広がっていく。

「何かが欲しいなら、強請ってみたらどうかしら?」

「ん……」

 目を閉じ、彼女の香りに支配された鈍い脳内で思考する。暫しの逡巡。

 この欲望を口に出してしまうことは簡単だ。けれど、口にしてしまえば最後、それ以上自分を抑えきれる自信は、私にはなかった。

「ねえ」

 低い声だった。普段の声の高さをずっと抑えた、響くような彼女の低音。私はこの声の意味を、よく知っている。

「もっと貪欲になっても、いいのよ」

 ――これは、彼女なりの御強請りなのだ。私よりずっと年上の彼女が、自らの自尊心を傷つけることなく、年下の私を求める時の、求愛の声。

 吐息のような彼女の声が、私の耳朶を叩き、麻薬のように理性を壊しながら、全身を駆け巡る。火がついたように、身体が熱い。

「あなたが欲しい」

 僅かに開いた私の唇から、熱と共に掠れた声が漏れる。

 返事も聞かずに、私は彼女の頭に腕を回した。

 目を閉じたままぐっと彼女を引き寄せ、その唇を奪う。舌を差し入れ口腔内を蹂躙すれば、彼女もすぐ答えてくれる。

 二人の中で高まっている熱を交換し合うように、舌と舌が、絡まる。

 

 ああ、彼女の梳いた私の髪は、彼女の膝の上からも零れ、床の上で乱れ、また解れていくのだろう。今の私たちのように。

 けれど、いい。それでいいのだ。

 きっとまた、彼女が優しく、私の長い髪を梳かしてくれるのだから。

 

 夜の闇に見立てた黒い髪を免罪符に、私たちはまた、深く深く、愛に溺れる。

(了)

       
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