春色ピアノ

 制服の上に羽織ったコートのポケットの中で、指先に触れるかさりと乾いた感触が、鋭い刃先のように胸を刺す。けれど、それでもそこから指を離せないのは、彼女が痛みごと、この現実を受け入れようとしているからだろうか。或いは逆に『今ならまだ』『もしかすると』といった僅かな可能性を信じたいと思う彼女の幼さから湧き起こる、淡い期待によるものだったかもしれない。どちらにしろ、今の菜々には、それを判断するだけの冷静さは戻っていなかった。

 午前中、高校の卒業式を終えた菜々は、貰ったばかりの卒業証書を無造作に突っ込んだ鞄を肩にかけ、自宅までの道程をひとり、ぽつぽつと歩いていた。その歩みは、普段の彼女のそれよりもかなり遅い。しかしそんな彼女を追ってくる者はないまま、通学路は残り半分をきってしまっていた。

 彼女が一歩歩く度に、ポケットの中のそれが布地と擦れ合い、存在を主張する。菜々は下唇を噛みしめて、それをゆっくりと握り潰した。手のひら全体に、ざらりとした紙の手触り。彼女の手の中で潰れたのは、一通の手紙だ。もはや行く宛のない、それは死んだ手紙だった。彼女が、菜々自身が息の根を止めたのだ。昨晩、自らしたためたその手紙を、彼女は同じその手で殺した。

 固く握り締めた手の中で、死んだ手紙が嘆いている。何故殺したかと彼女を責める。声なき叱責は痛みとなって、手のひらから、指先から、彼女の胸へと伝わっていく。

 この胸を掻きむしって、痛みごと心臓を毟り取って死ねたら、どんなに楽だろう――菜々の脳裏にぽつりとそんな考えが浮かび、途端に涙が溢れてくる。彼女は両手をポケットに差し入れたまま、コートの肩口で無理矢理涙を拭った。

 三月一日。春の気配は遠い。アスファルトの上を吹き抜けていく風は、彼女の頬を切るように冷たかった。

 寒風に急かされるように、彼女が歩みを早める。

 途端、風の奥底に、冬ではない、何か暖かなものを菜々は感じた。その何かは、風にのって、彼女の周囲を巫山戯た妖精のようにするりと巡ると、耳許をくすぐって、そして振り返りもせずにまた風に流されていった。

 それは音だ。連なるように奏でられるその音は、ピアノの音色だった。耳をすまさねば聞こえぬほど微かなそれに、菜々は思わず立ち止まる。

 どこかの家から漏れてきた音だろうか。周囲を見渡してみたものの、冷たい風が吹きすさぶこんな日に、窓を開け放している建物などどこにも見当たるはずもない。けれど、音は聞こえてくる。

 右から? 左から? 頭上から? 足元から?

 住宅街を貫く狭い歩道で反響する、囁きにも似たピアノの音色に、彼女は惑わされていた。それは妖精の悪戯なのではないかと思わされるほど不可思議な力で彼女を囚えていた。

 音のひとつずつは、ドであり、ミであり、またそれ以上の意味を持たないものだったが、それらが連続し、或いは重ねられることで、細い糸で縫い合わされたように、たちまち精緻な模様が刺繍された一枚の布地へと変わっていくのであった。そしてそれは羽衣のように薄く透け、一見しただけでは捉え所がないようにもある。神話の女神が身に着けるのと同じように、菜々の体へとまとわりつく音の羽衣は、彼女を空へとは導かなかった。しかし、別の場所へと誘った。

 菜々の足は、ふと自宅へ向かう最短の道を外した。直進するべきの道を、そっと左へと折れたのだ。そこからやや細い路地へと入る。二階建ての住宅に挟まれ、日中というのにそこは酷く薄暗かった。ここが普段あまり通らない道とはいえ、全く未知の土地というわけでもなく、そちらに向かえば何があるのか、何がないのかぐらいは、菜々も解っていた。路地を抜けたところが、住宅区画の端なのだ。だから、ピアノの音など、その先から聞こえるはずがないことも知っている。けれど、その知識をもってしても、彼女の足を、彼女自身止めることはできない。音の羽衣によって、彼女はその先に導かれていたからだ。

 路地を抜けると、途端に視界が白む。菜々は眩しさに思わず目を瞑った。

 もはや羽衣は、何処かへと消えていた。彼女を惑わす妖精の妖しい術も、嘘のようにとけている。菜々の体は、自由を取り戻していた。しかしそれらから解放された代わりに、菜々の全身を音の洪水が襲った。これまでとは違い、明瞭な響きをもって耳に届いたその旋律は、水の流れに、積もった雪の軋みに、秋の枯れ草の香りに、そして水平線に沈む夕日に、似ていた。それはさらに北風に吹き上げられ、混じり合い、菜々の髪を激しく揺らした。慌てて両手で顔を覆う。その右手の中には、潰れて皺だらけになった彼女の心の亡骸がある。菜々の口から、ああ、と小さく声が漏れた。その存在を、すぐには忘れることなど出来ないのだと、思い知らされたようだった。

 路地は、中央線のひかれていない車道と、T字に交わっている。風が止むなり、菜々は左右も確認せずに、弾かれたように道路を横断した。ぷぁん、と背中の方でクラクションがひとつ聞こえ、きい、とブレーキ音が続く。しかし彼女は振り返らなかった。

 車道の向こうには、数十センチ高くなった歩道がある。そこを駆け登る。しかしそこで彼女の足は止まらない。ガードレールなどない歩道を越えれば、さやさやと揺れながら群生する枯れた草に覆われた下り斜面に足をとられる。それらが、スカートから露出した菜々の膝を、すれ違いざまに撫でていく。回転するように地面を踏む足を止めることは出来ない。その一歩一歩に、落ちていくような感覚が付随した。緩やかな滑落だった。

 一瞬、体が水平を取り戻した。けれど、すぐに傾く。傾斜は既に終わっている。ただ、代わりに平らでない地面があった。菜々の足元には大小丸角様々な形の石が転がっている。数メートル先には、ゆったりとした水の流れ。川原だ。本来ならピアノの音など、聞こえるはずもない場所。ほらね、と菜々は思った。この川原のどこにだって、ピアノなんて、ありはしないのだ。

 肩で息をしながら、平静を取り戻すために、彼女を惑わした存在を心の中で否定する。

 途端、川が流れる方向を変え、大きく口をあけて牙を剥き、迫ってくるような錯覚を菜々は覚えた。否、それは錯覚などではなかった。しかし彼女を襲ったのは冷たい川の流れではなく、細い糸のようにピンと張りつめた空気と、そこに僅かに混じるどこか懐かしく暖かい何かによる絣であり、それによって織り成された形無いものを、まるで自身に襲い来る怪物であるように彼女は錯視したのである。しかしそれが幻想であったにもかかわらず、彼女の胸の真ん中を、怪物が食い破っていったのではないかと、菜々は感じた。どこか空虚な感覚が、その胸に残されていたからだ。

 そして、その架空の穴を埋めるように、流れ込んでくる旋律。

 それに操られたかのように、菜々は視線を川の流れを遡る方向へと動かした。呼吸が詰まる。冬空の下、吹きすさぶ北風の中、流れる川に、その脚を浸すものがある。華奢な四本の脚のうちの一本を流水で濡らすそれが「春」であると、菜々は漠然と認識した。けれど正確には、それは春ではない。枯れ葉色をした世界に突如として現れたのは、菜の花色をしたピアノだ。立てられた楽譜立ての向こうで、誰かがピアノを弾いているのが僅かに伺えた。突上棒によって固定された屋根を伝って、南風のような暖かな重連音が周囲にその芳香をふりまくように拡がっていく。

 あるはずのないものがそこにあったという、自身の経験則を端とする驚きよりも、その色の鮮やかさと、体中を音に支配される充足感を、菜々は強く感じていた。

 彼女の体が再び、目には見えぬ衣に包まれ、そして天ではない場所へと誘われていく。石が転がる不安定な地面を、ゆっくりと彼女は歩む。肩にかけていた鞄が滑り、落ちる。無造作に放りこんでいた卒業証書の筒がそこから飛び出したが、それらすべてに纏わる音は、菜々の耳には届いていなかった。妖精が、菜の花色のピアノ以外の世界中全ての音を、今この瞬間だけ、不思議な力で消し去っていたのかもしれない。彼女が落下した鞄にも、そこから投げ出された卒業証書にも気付かないまま、ピアノとの距離だけが縮まっていく。今の彼女が持っているのは、ただひとつ、彼女が殺した手紙だけ。

 ずっと演奏されていた曲――菜々が路地で耳にしてから今この時まで同じ曲が奏でられていたが、それは彼女の知らない曲だった――は、ピアノの演奏者がはっきりと彼女の視界に入ってくると同時に、別の曲へ変化した。演奏する曲を替えたのではなく、それは確かに変化であった。昼の蒼い空が夕日の色、そしてやがて宵闇に侵食されていくように、その境は極めて曖昧であるが、夜の帳が下りてしまえば、それが明らかに変化を遂げたことは誰にだって理解できる。演奏される曲の変化も、そういったものであった。

 いつしか奏でられる音は、ずん、と低くなっている。それは、雨に濡れた蝶が地表付近で逃げ惑うような、または空っぽの家に一人残されたような、あるいは見知らぬ人が横たわる棺に花を手向けるような、胸の奥底のほうをきりきりと締め付けられる嫌な感覚を、菜々に植え付けた。そしてその不快感を生み出しているのは、菜の花と同じ色をしたピアノ。そしてその奏者は――真っ黒な学生服と制帽を身に着けた、少年だった。ここまで菜々を導き続けてきた女神の天衣は、その黒に吸い込まれるように消えていった。

 少年の制帽の下には、漆黒よりもさらに黒い髪。肌は雪原よりも白く、彼が身に着ける全ての黒を引き立てている。その肌の白さを借りて、黒よりもさらにその存在を際立たせているのが、薄紅を塗ったように血色の良い唇であった。

 菜々の視線は、自然と彼の口元に注がれていた。彼の均整のとれたそれを 陶酔気味にうっとりと眺めているわけでない。彼女がこのピアノ奏者の少年から受けたのは、旋律から感じられたのと同じく、胸の内をまさぐられるような不快感であった。それはひとえに、少年の唇が、微笑を浮かべていたことによるものだ。

 少年は笑っていた。「こんな曲」を弾きながら、しかし彼の何と楽しそうなことか。そのことが、菜々にとっては極めて不愉快だったのである。彼女は自分自身を、そして彼女の手の中の大切な亡骸までも、この見ず知らずの少年に馬鹿にされているような気分だった。

 菜々はピアノを弾く少年のそばでは立ち止まらず、そのまま彼の背後へと回り込んだ。少年の顔を見ているのが嫌だった。あの微笑のせいだ。けれどそれでも、彼の背中や肩は楽しげに揺れており、菜々はその中に再び少年の憎らしい微笑を見ずにはいられなかった。少年の手元では、鍵盤が彼の指先と舞踏を繰り広げていた。その短い鍵の、本来であれば黒くあるべき部分が桜色をしていることに、菜々は気付いた。そして再び、やはりこれは「春」だと感じるに至ったのだ。だからこそ、この喪服の如き黒で全身を包んだ少年が微笑を浮かべながらこのピアノを演奏することが不快で、許せないものであったのである。

「どうしてそんな顔をしてピアノを弾くの」

 口腔内は酷く乾いていた。張りつく粘膜が、ぱり、とひび割れるように痛み、菜々は思わず顔を歪める。掠れた声が菜々の口からこぼれた。意図せずしてその表情に相応しい、刺のある声色であった。

 しかし、少年は演奏を止めない。彼の指先が、肩が、脚が、背後からの問いを受けて、ますます孤独な旋律を享楽しているように、菜々の目には映った。

「ねえったら――」

 わきあがる苛立ちに声を荒げて言う。その途端、訪れた静寂。ピアノを演奏する少年の指先は、変わらず鍵を捉えているというのに、胸を締め付けられるようなあの旋律はおろか、風の音、川の流れすら世界から消失した。

 それに気付いた菜々の全身を、重苦しい圧迫感が苛む。それは「暴力的な無音」に対する無意識の恐怖であったが、彼女はそこまでを理解することはできなかった。だから今、自身に起こっている全ての事象を把握しながらも、菜々は指一本動かすことができなくなっている。女神の羽衣に導かれたのとはまるで正反対に、洗いざらしの麻布で、体中をぐるぐると巻きつけられているような感覚さえ彼女にはあるのだった。

「君はどうしてそんな顔をしているの」

 背中越しにもかかわらず、それは確かに菜々にも聞こえた。その声は、黒絹に似ていた。光沢がありしなやかですべらか、身震いがするような美しさと高貴さを湛え、全ての人間の注意を惹きつけるのである。菜々もその例外では無く、少年の声が彼女の耳管をじわりと痺れさせ、それが背筋を一直線に駆け抜けていく。

彼女の感じた無音への恐怖は少年の声への畏怖へとすげ変わり、そしてさらに別の何かへと変貌を遂げようとしていた。

 少年の言葉の意味が、彼女の脳内で汲み取られたのは、身震いがようやく収まってからだった。

『君はどうしてそんな顔をしているの』

 少年の言葉を丸ごと胸の中で反芻し、理解した彼女が感じたのは憤りであった。

無理もない。何しろ、問うたのは彼女の方なのだ。それを、この少年はほとんど同じ質問を彼女へと投げかけた。元より、この少年のことを一方的に快く思っていなかった菜々のことである。彼に抱いていた刹那的な畏怖などすっかり忘れ、この失敬極まりない――という、彼女の勝手な認識の――少年への怒りで、彼女の頭の中は溢れていた。彼女が殺した手紙の亡骸が、その怒りに呼応するように、彼女の手のひらへとさらに激しい痛みを加える。

 なぜ殺した。なぜ殺した。私をなぜ、亡き者にした。

 菜々は、自らに向かって糾弾を再開した幻想を、下唇を噛みしめ、その痛みをもって打ち消した。寒さと乾燥でひび割れたそこに、八重歯が刺さり、じわりと血が滲んだ。

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