終わる夏と終わらないもの

 花火が散る音と共に、俺の中で、もやもやとした不定型の感情が渦巻いていく。

「あの、さ――……」

 続く沈黙の中で、何か、口にしなければいけないと感じた。

 しかし、意思とは裏腹に、唇が戦慄く。喉が乾いていた。言葉がうまく紡げない。掠れた声は、あっけなく花火にかき消される。

 不意にあさひが立ち上がった。

 数歩、前に進み、くるりと振り返る。

 手首に提げた袋の中、金魚が尾を揺らし、じゃれあっている。あさひが貰った分、そして俺が貰った分、合わせて四匹の金魚たち。

 インターバルだろうか。花火の音が止む。

 屋台の賑わいが、どこか遠い。

 三人の視線は、自然とあさひに集まる。

 彼は笑っていた。それなのに、泣いているように見えるのは、俺だけの錯覚なのだろうか。

「ねえ、卒業したら――もう、みんなと会えなくなるのかな?」

 その声は、微かに震えていた。

 二年前の四月。校区外の高校に通い始めた俺の周囲は、見知らぬ顔で溢れていた。

 どこに住んでるの? 趣味は何? 好きな漫画は? どんなタイプの女子が好み?

 物珍しさから浴びせられる質問に曖昧に答えていったら、俺に近付くクラスメイトはどんどん減っていった。きっと面白みのない奴だと思ったのだろう。

 それも仕方ないことだ。付き合って利益がないような人物と関わる時間は無駄でしかない。それくらい俺にも理解できる。だから、このまま高校三年間をひとりで過ごすことも致し方ないと思っていた。

 そんな中、最後まで残ったのが、あさひだった。

 彼は頻繁に俺に声をかけてきたが、だからといってこちらから特別気の利いた返しをするわけでもないし、むしろ適当にあしらうことの方が多かった。それでも、あさひは俺から離れていくことはなかった。

「俺といても、何の得もないだろう」

 一度、そう彼に訊いたことがある。

 周囲から距離を置かれている人物と親しくすることは、自分自身も同じ扱いを受けるということだ。それは彼にとって損でしかないはずだった。

 あさひは、小首を傾げると、こう口にした。

「得って何?」

 その答えに、俺は思わず吹き出していた。

 どうやら、あさひの中に損得感情というものは存在しないらしい。純粋、という言葉が、彼には相応しいように思えた。

 その一件以来、俺は徐々にではあるが、あさひと打ち解けていった。

 あさひは、俺と同様に周囲の輪から外れていた一条窪と水口にもよく声をかけていたようで、そのうちに、彼らとも時折会話をするようになった。

 俺たちの中心には、常にあさひの存在がある。あさひによって繋がれた関係と言い切ってしまってもいい。

 けれど、あさひだけがいればそれでいいかと訊かれれば、それは何かが違う気がしていた。水口が欠けても、一条窪が欠けても、どこか落ち着かない。

 きっと、四人でいることに慣れすぎてしまったのだ。

 花火による彩りを失った夜空には、無数の星が絨毯のように敷き詰められている。その瞬きのひとつひとつは、小さな宝石を思わせた。

 さぁ、と木々が風に揺れた。昼間と違い、肌に触れるそれは涼しく心地よい。

 木々のシルエットと星空、そして石段の下で灯るぼんやりとした橙色の明り。それらを背景に立ち、あさひは応えを待っている。

 四人の進路は、それぞれ違う。だから卒業すれば、バラバラになる。分かりきったことなのに、それを考えるほどに、胸が締めつけられたように痛む。胸の中に、ぽかりと大きな穴が開いた気さえした。

 当たり前だったものが当たり前でなくなる、喪失感。

 別れの時期が確実に近付くことへの焦燥感。

 今日一日の中で感じた、どこかもやもやとした苛立ちも、全てそれらのせいだったのではないか?

 不意に、花火の発射音。

 インターバルを経て、打ち上げが再開されたようだ。

「そんなわけない!」

 ぱぁん、花火が弾ける。

 それに負けぬほどの大きな声を張ったのは、水口だ。立ち上がった彼は声を震わせ、体の両側できつく拳を握り締めている。

「何でそんなこと言うの? あさひくんは、卒業したら終わるような、その場だけの友達のつもりだったの?」

 水口が、一歩、あさひに近寄る。その背が、いつもより大きく見えた。

「違うよ、そんなつもりは――」

 あさひが慌てて首を左右に振って否定する。

 水口も、きっとあさひがそんなふうに思うような奴じゃないということぐらい、分かっているはずだ。

 きっと、俺が抱えているようなものが、水口の中にもあり、彼は普段自分自身のことを口に出さない分、それらに背中を押される形で、衝動的な言葉がこぼれたのだろう。

 そして多分、水口が吐き出さなければ、それを口にしていたのは恐らく俺だった。

「僕は、みんながいたから、初めて学校に通うのが楽しいと思ったんだ。あさひくんがいて、一条窪くんがいて、田辺くんがいて……僕らが、四人だったから。なのに――これきりなんて。卒業したら、もう会えないなんて……絶対に嫌だ!」

 言葉に重なるように、また、花火。

 それが、あさひの、水口の、俺の、そして視界には入らないが一条窪の体を、赤や緑の光で照らし、浮き立たせていた。

 水口が肩で息をする。

 花火と花火の合間の僅かな隙に、割り込んでくるのは秋の虫たち。

「会えばいいんじゃない」

 一条窪が静かに言った。

「卒業しても」

 彼はそう続けて、後ろから俺の肩を軽く叩いた。

 連続する発射音。幾重にもなった花火が辺りをほのかに明るく照らす。石段の下からは、沸き立つような歓声が聞こえてきた。これがクライマックスなのだろう。

 あさひは、不安そうな目でじっと俺を見つめていた。彼に対して抱いていた違和感は、やはり気のせいではなかったのだ。

 あさひが俺たちを祭りに誘った理由が、今になってようやく理解できた気がした。

「まあ……」

 それを意識すると、緊張し、余計に喉が乾いた。唾をひとつ、飲み込む。涼しい風がゆるゆると吹いているにもかかわらず、額から汗が垂れた。

 だから夏は嫌いなんだ。

 心の中で呟き、小さく肩を落とす。しかし、口元は自然と緩む。

 ぱらぱらぱら。夜空に残る最後の花火の余韻。

「――その、何だ。会いたくなったら、また今日みたいに呼べばいいだろ。……今度は、断らねえし」

 思っていることを口に出すのは、意外と気恥ずかしいものなのだと、俺は今、身をもって実感した。

 尻すぼみになった俺の言葉に、あさひと水口がきょとんとした後、互いに顔を見合わせ、くすくすと笑う。

「って、何でそこで笑うんだよ! 水口まで!」

 こっちは慣れないことを口にした恥ずかしさで、穴があったら入りたいような気分だっていうのに。

 しかしそんな俺の心中などお構いなしに、

「ごご、ごめんね、田辺くんっ、……でもなんか、つ、つられちゃって……」

「あのね、耕ちゃん……これは、う、嬉しくて、その……つい……っ」

 ふたり揃って腹を抱えて笑い始めた。目尻には涙まで浮かべている。

 背後でくつくつと、喉が鳴る音。

 振り返れば、一条窪までが笑っている。俺から顔を背けているのは、彼なりの気遣いのつもりなのだろうか。

 そういえば、一条窪が嫌味抜きで笑うのを見るのは、もしかすると初めてかもしれない。小刻みに肩を揺らすその姿を見れば、何だかこちらまで笑いが込み上げてくる。

「あー、もういい、好きに笑えっ!」

 俺の一言で、堰を切ったように笑い声が溢れ出す。俺もそれに混じって、声をあげて笑う。

 薄暗い周囲が、花火よりも明るい光で照らされたような錯覚があった。

 もはやほんの数分前まで辺りを漂っていた沈痛な空気なんて、夢の中の出来事のように感じられる。むしろ、それは夢のまま忘れてしまった方がいいのだと思った。

「ねえ、このあとみんなで花火しようよ!」

 境内の石段を下りながら、あさひが提案してきた。大袈裟に手を動かすものだから、その手首に提げたビニール袋の中に大波がたつ。

「花火って。金魚どうすんだよ」

 俺が尋ねると、

「どこでやるの? 僕たちだけで危なくないかな?」

 水口が重ねて問う。

「大丈夫!」

 石段を三段残し、参道の石畳に飛び降りると、くるりと回転してこちらを向き、あさひは、ニッ、と両口端を上げた。右手で大きくブイサイン。左手は腰に。

 俺はただ、あさひのその激しい動作によって振り回されるビニール袋の中の金魚だけが心配で仕方なかった。

「うちでやろうよ、すぐそこだから! ね!」

 あさひが声を弾ませる。

「あさひ、家の人には」

「実はもう、帰ったらうちで花火するって言ってあるんだよねっ」

「遅くに、迷惑じゃないかな」

「お母さんもお姉ちゃんもお祖母ちゃんも、みんなが来るの楽しみにしてるよー」

「俺は構わないよ。祖母に連絡だけしておくから」

 言って、一条窪は残りの石段を下りながら携帯電話を取り出す。そしてキーを操作しながら、ちらと俺に視線を寄越した。

「……次は断らないんじゃなかった?」

「時々本気で腹立つなお前……」

 既に通話を始めている一条窪の背を、俺は睨みつけた。

「田辺くん。僕も家族に連絡してから、あさひくんの家にお邪魔しようと思うけど、田辺くんは――」

「そもそも、俺は行きたくないなんてまだ一言も言ってないからな。ただ俺はどこかに寄り道をするとか花火をするとかしてたら折角俺がとった、っていうか貰った金魚が死んじまうんじゃねえかって思っただけで――って何でまた笑うんだよ!」

 再び笑い出した水口とあさひに向かって吼えると、肩を叩かれる。一条窪だ。通話は既に終えたらしい。

「田辺って、結構天然なとこあるよね」

 俺を見るその目が細められる。

「その憐れみに満ちた目はどういうことだ、一条窪」

「ところで、そろそろイカ焼きを買わないといけないんじゃない?」

「……イカ焼きのことは忘れろ」

 そんな俺たちの周りでは、屋台の店主たちが、出店に並べた商品を片付け始めている。俺たちがこうして立ち止まって騒いでも迷惑がかからない程度には、客も少なくなっていた。

 もう、祭りも終わりなのだ。

 しかし俺の中にもやもやとした不安や苛立ちなんて、もう、ひとかけらもない。高校最後の夏が終わっても、終わらないものもあるのだと気付いたからだ。

 夏は嫌いだ。日差しが強く眩しいし、何より暑い。俺は暑いのが苦手だから、夏を好きになることなんてありえない。けれど、こんな時間が過ごせるなら、夏も悪いことばかりじゃない――そう、心から思えた。

 それを口に出すことは、もう絶対にないけれど。

(了)

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