冬を愛した人

 熱に浮かされたようにぼんやりとした頭で、千夏は辛うじて帰宅することを思いついた。ほんの僅かだが暑さも和らいだようで、自宅に向かう千夏の足取りも軽かった。

 安い賃貸料だけがウリの、築年数のかさんだアパートの三階に、千夏は部屋を借りている。就職に際して一人暮しをすることになったのだが、それほど多くない初任給ではロクな物件も紹介してもらえず、仕方なく四畳半の部屋を選んだ。間取りは狭いものの、唯一ユニットバスが付いていることが、千夏にとって魅力だった。

 住み始めた当初は、ある程度資金が溜った段階でもっと良い物件に引っ越そうと考えていたが、なかなか実現されないまま、もう三年も惰性でここに住みつづけている。

 自室のドアを開け放った瞬間、千夏の体はねっとりとした熱気に包まれた。思わず表情が歪む。玄関でサンダルを脱ぎ捨て、バッグを放り、狭い室内を横切って大きな窓に飛びつく。勢いよくそれを開け放った後、部屋の隅に設置してある扇風機のスイッチを『強』で入れた。

 窓に向けられた扇風機が、室内の熱気を外へと逃していく。まとわりつくような暑さはすぐに落ち着いた。千夏は大きな溜息をこぼし、部屋の中心でへたりこんだ。――ここまでが、真夏限定の帰宅時恒例行事だ。

「ああ、無性に疲れたわ……」

 消え入りそうな声で漏らし、千夏は畳の上にぱたりとうつ伏せに倒れた。そのまままぶたを閉じる。背中にかいた汗で張り付く衣服が不快だったが、それ以上に疲労感の方が勝っている。千夏はあっという間に寝息をたて始めた。

 室内が夕陽で真っ赤に染まった頃、ようやく千夏は目を覚ました。

(ん……、なんか、ちょっと寒い)

 体を起こしながら、身震いをする。汗で濡れた体が冷えてしまったのかもしれない。

 網戸を閉め、窓にカーテンをひく。ユニットバスはあるが脱衣所がないため、千夏はその場で衣服を脱ぎ始めた。

 ジーンズを下ろしかけた手に、ふと固いものが触れる。ポケットに無造作に指を入れると、冷たく硬質な何かがそこにあった。ポケットからそれを取り出す。

 それが一体何なのか、千夏は気付いていた。路地を出た後、手の中にあったそれをポケットに捻じ込んだことも、本当は覚えているのだ。けれど全ての出来事が唐突過ぎて、整理の付かない千夏の頭は、これらを出来ればなかったことにしたがっていた。酷い暑さで見た幻覚だと、思い込もうとしていた。

 ――そんなこと、出来るはずもなかったのに。

 服を脱いでしまえば、ポケットに入れたものの存在が明白になるのは、予想にたやすい。否、それ以上に、あの青い瞳の青年の姿を忘れられるはずがないと、千夏自身自覚していた。

 千夏は脱ぎかけていた衣服を再び着てから、小瓶を取り出し、衣装ケースの天板に置いた。ジーンズのポケットに入っていたそれは散々揺れただろうが、青年は昼間となんら変わらぬ様子で、そこにいた。

「あの、ごめんね」

 小さな青い瞳と視線の高さを合わせて、千夏は言った。

 その言葉に、瓶の中の青年は、首を傾げた。

「急にポケットに突っ込んだりして。狭かったでしょ……って、元々瓶に入ってるんだから関係ないか」

 あははと空笑いして、千夏は頬をぽりぽりと掻いた。

(何言ってんだろ、私)

 これまで、恋人という関係の男は何人かいたし、学生の時も社会人になってからも、異性と喋った経験は数え切れない程ある。けれど、千夏は今日ほど言葉に窮したことはなかった。何せ、目の前にいる男は、人間ではないのだ。昨日観たバラエティ番組の話だとか、道端で可愛い猫を見ただとか、そんな何気ない話題が通用するとも思えない。

「ええっと……」

 ひとしきり考えを逡巡させた後。

「はじめまして。……青山千夏、です」

 千夏は衣装ケースの前に正座をして、頭を下げながら名を名乗った。彼は人間ではないが、とりあえず初対面だ。千夏が散々思考して出した結果が、これだった。

 この行動が正解だったとは千夏も思っていない。他に妙案が浮かばなかったというのが本音だ。

 額が畳に付く程お辞儀をしてから、おずおずと頭を上げる。

 ――一体彼は、どんな顔をして私を見ているのだろう。

 そんな思いで、瓶の中に視線を向けた。

「ええ?」

 千夏は目を疑った。口からは素っ頓狂な声が上がる。

 瓶の中の白い青年は、千夏を全く見ていなかった。見えるはずもない。彼は正座をして、頭を瓶底に擦り付くほど下げていたからだ。

 驚く千夏をよそに、彼はゆっくりと頭を上げた。絹のような髪が揺れる。伏せたまぶたが開かれると同時に、青い宝石が姿を現した。

 彼の所作は美しく、神秘的という言葉が似合った。千夏と全く同じ動作だったというのに、青年の一挙一動からは溢れんほどの清廉さが感じられた。

「はじめまして」

 低く安定感のある声で、青年は言葉を紡いだ。

 不思議な響きだった。音は瓶の中から発せられているというのに籠りはなく、冬の青空のように澄み切っていた。それは千夏の中に、自然に入り込んでくる。じわりと胸の奥が温かくなるのを、千夏は感じた。

「僕は、冬。チナツ……さん、僕は冬、です」

 少し照れ臭そうに、しかし言い聞かせるように繰り返し、彼は自身の名を告げた。

(ああ、本当に、冬なんだな)

 彼の言葉で、千夏の中にあったいくつもの疑問は、春の雪解けのように消えた。何故なのかは千夏にも分からなかったが、ただ漠然と『理由なんてない』のだと悟った。

 千夏がどれだけ考え込んでも、今日起こったことは全て現実だし、瓶の中に入っている青年が冬であることもまた事実なのだ。余計な理由付けなど無粋なだけで、重要なのは『そこに在る』ということだけだ。それは千夏や他の全ての人間にも言えることで「あなたは何故人間なのか」と尋ねられて答えられる者なんて一人もいない。それと同じなのだ。

 納得すると同時に、笑いが込み上げてくる。大口を開けて声を上げて、千夏は笑った。それを見ていた冬も、そのうちくすくすと笑い始めた。四畳半の部屋はあっという間に笑いで溢れていく。

 しばらく笑ったところで、部屋の壁からドンと大きな音がした。隣人からの苦情だ。思わず二人の笑い声もおさまる。けれど互いが目を合わせたところで、どちらからともなく噴き出した。今度は声を殺しながら、千夏と冬は笑った。

 ゆっくりと夕陽が沈んでいく。二人が笑い疲れる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 シャワーを浴び、適当に食事を済ませ、畳の上に広げた敷布団に千夏は横になった。

 その体を、心地よい冷風が包み込む。その風は窓から入り込んでくるものでも、扇風機が作り出したものでもない。枕元の冬が生み出したものだった。

 瓶詰めにされた季節は、瓶の周辺の空気ぐらいであれば操れるようで、夏なら熱風を、冬なら冷風を作り出すことが出来るのだと、彼は言った。

 食事中にそれを聞き、千夏はようやく合点がいった。路地から流れ出してきた冷気は、彼の仕業によるものだったのだ。

 体にかけたタオルケットに巻き付くように、千夏はごろごろ転げた。仰向けになったところで、枕元に置いた冬を見やる。いつからそうしていたのかは定かではないが、彼は正座したまま、千夏を見ていた。当然のように視線が合うと、冬は嬉しそうに笑った。青年のはにかんだような笑みを目にして、千夏の頬が紅潮する。

(もう、何で赤くなってるのよ私は!)

 悟られまいと顔を逸すが、既に遅く。

「チナツさん、顔が赤いです。暑いのですか?」

 出られない瓶の中から、冬は千夏を覗き込んでいた。

「大丈夫、何でもないから!」

 早く治まれとばかりに、手で顔を扇ぐ。

「そうなのですか」

 それ以上は冬も詮索してこなかった。もしかすると気に障っただろうか、と不安に思い、横目で瓶の中を窺い見るが、彼は黙って正座をしたまま静かに微笑んでいるだけだった。

 手扇が風を送る音だけが、室内を支配する。

 窓は締め切られ、扇風機も回っていない。冬の入った小瓶からは、僅かだがひんやりとした空気が漂っているため、部屋の中は心地よい温度に保たれていた。

 ――夏だというのに、暑さに苦しまなくていいなんて。

 思いつつ、うっとりとした心地で季節外れの涼しさにとっぷりと浸かる。そしてふと、先程出会った露天商の爺の言葉を思い出す。『冬は千夏の役に立つはずだ』と爺は言った。もしかすると、彼が言いたかったのは、こういうことだったのだろうか。暑さに弱い千夏にとって、冷風を自在に作り出すことが出来る冬は心底ありがたい存在に感じられた。

(でも、それじゃあクーラーと同じじゃない)

 この部屋にクーラーはない。ないものと比べることは出来ないが、設置すればきっと今のような涼しさを、たとえ夏であっても手に入れることができるだろう。

 冬はクーラーと同様に冷気を生み出すが、機械ではない。クーラーならば機械でなければいけないが、この冬は人のような姿で喋るし、瓶の中でだけだが動くことだって出来る。だから彼はクーラー代りにはなりえないのだ。それでは彼は何なのかと訊かれれば、冬であるとしか言いようがない。

「ねえ」

「はい、なんでしょう」

 顔を合わせないまま声をかけると、冬は間髪入れずに答えた。

「あんた、名前はないの?」

 上気した頬はようやく落ち着きを取り戻し、手扇をやめた千夏は、天井から下がる電灯をぼんやりと見つめながら、尋ねた。円環状のそれは普段より眩しく感じられ、少し目を細める。

「名前……は、冬ですが……?」

「うーん、そうなんだけどさ……。もっと、ほら、ね」

 彼は確かに冬だ。冬の名前は冬に決まっている。それは千夏という存在が、決して千夏以外の人間には取って代われないのと同じことだ。それは理解しているが、しかし。

「あんたは冬だけど、でも人の姿をして、こうして私の目に見えてるわけでしょ? 秋のあとにやってくる冬とは違うじゃない。冬だけど冬じゃないっていうか……いや、冬なんだろうけど。うーん、何て言ったらいいのか」

 自身がひどく混乱していることを、千夏は今になって実感した。今日起こった全ての事象を冷静に受け止めているつもりではあったが、それでも脳はうまくついてきていないらしい。このもやもやとした悩ましい思いを表す言葉すら思い浮かばない。

「何て言うんだっけ、こういうの。ほら、犬に犬って名前つけたらおかしいでしょ。変でしょ」

「うーん……『ヤヤコシイ』?」

「そう! ややこしいのよ、名前が!」

 ぽつりと冬が漏らした言葉に便乗する。同時に薄らと閉じていた目をカッと見開き、タオルケットを跳ねのけ、飛び起きた。わっ、と冬が声を上げる。瓶の中で、彼は尻餅をついたように倒れていた。

千夏は構わず、それを覗き込む。

「名前、つけよう」

「名前……僕にですか?」

 冬は小首を傾げながら尋ねた。その言葉端には、僅かな喜色が窺える。

「そうよ、他に誰につけるの。どんな名前がいい? やっぱり、うんとカッコいい名前がいいわよね」 

 おまかせします、と冬は言った。そして体を起こし、足を再び正座に整える。

 千夏はしばし唸ったあと、ぽんと手を打った。

「よし決めた! あんたの名前は――」

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