冬を愛した人

 アスファルトの表面に、ゆらりと陽炎がたっている。それは決して幻想などではなく、夏特有の強い日差しで道路が熱せられたことで起こった、紛れもない現実だ。

 立ち並ぶ街路樹からは、蝉の鳴き声が聞こえる。

 自分に背を向けて立ち去っていった男を、千夏は熱に浮かされたようにぼんやりと眺めていた。男は数分前まで千夏の恋人だったが、たった今別れを告げられた。これもまた現実のことであるが、千夏の頬を伝っているのは悲しみの涙ではなく、額から滝のように噴き出している汗だ。

 恋人だった男とは、これから共に買い物に出かける予定だった。けれど待ち合わせ場所に現れた男は、千夏に一言、言い放ったのだ。

『やっぱりもう、無理だわ』

 それが別れの言葉なのだと、千夏にはすぐ察しがついた。過去に付き合った数人の男たちからも同じようなことを言われたことがあったからだ。しかし去りゆく彼らの背中に縋りついて制止するほど、千夏は恋人という存在に執着していなかった。そうして何人かの男が、千夏の前から消えていった。勿論、その後一切連絡をしたりはしない。携帯電話に登録していた連絡先も、その場ですぐに消してしまうからだ。

 去る者追わずが、千夏の信条だった。

 今回とて例外ではない。元恋人が視界から消えるまで見送った後、すかさず携帯電話を操作する。

 手慣れた作業はあっという間に完了し、折り畳んだそれを、ハンドバッグに乱雑に放りこむ。

 そして大きく伸びをしてから、手近なベンチに腰を下ろした。汗はまだ止まることなく流れ続けている。

 千夏は、夏が嫌いだ。うだるような暑さは、気力を根こそぎ奪っていくし、強い日差しが降り注ぐのを見ただけで、外出するのも億劫になってしまう。

 かといって逆に冬が好きなのかというと、そうではない。

 千夏は冬も嫌いだった。痛みを感じる程の寒さが、うっすらと地面に積もり、汚れ、消えていく雪が、嫌いだった。

 要は、極端なものを好まない質なのだ。季節に関しては、ずっと春や秋のような穏やかな季節が続けばいいのにと、千夏は常々思っている。

 そんな性質だからこそ、特別な『恋人』という存在一人に極端に愛情を注ぐというのは、彼女にとって非常に難しいことでもあった。

 ジィジイと街に響く蝉のコーラス。盛夏の風物詩も、度を過ぎれば騒音だ。景観を重視して多く植えられている街路樹は、夏限定でノイズを吐き出すスピーカーと化している。

 千夏はハンカチで汗を拭いながら、じっとりとした忌々しげな目で騒音製造機を睨んだ。勿論、蝉の声が収まるはずもない。

 駅舎の外壁に設置された時計は、午後二時を告げている。

 この時間帯、最も気温が高くなるのは誰もが知るところだ。けれど元恋人が、この時間と場所でと指定してきたので、断れず渋々外出してきた。それなのに、告げられたのが別れの言葉なのだから堪らない。「買い物を」という約束も、結局は千夏を呼び出す口実が欲しかっただけなのだろう。

 しかし千夏にとっては、別れを切り出されたことより、眩い陽光が降り注ぐ中、駅まで二十分もかけて歩いた挙句、午後の予定を失ったことのほうがショックだった。

 駅舎に入れば日差しも防げるが、電車を使う予定のない千夏には、それは何だか冷やかしのように感じられて、仕方なしにベンチを離れられないでいる。暑さと脱力感から、立ち上がって帰路につく気力も湧かない。目の前のロータリーにはタクシーさえ止まっていなかった。バッグに入れておいたペットボトル飲料も、とうにカラだ。

 ベンチの背もたれに体を預け、ゆっくりと空を仰ぐ。ペンキで塗り潰したような鮮やかな青が目に痛い。あまりの眩しさに目を閉じたが、刺すような鋭い日差しは瞼の裏からでも感じとれた。

 街路樹で唄う蝉。

 ――うるさい。暑苦しい。

 駅の向こうから、電車の発車音。

 ――冷房、きいているだろうな。

「いらんかね……いらんかね……」

 どこからか、物売りの声。

 頭の芯が蕩けたように呆けたまま、千夏はその声を耳にした。

 人も疎らな真夏の午後二時に、駅前で物売りをする人間などいるはずもないのだが、今の千夏にその考えに至るほどの思考力は残っていなかった。

「いらんかね……」

 再び同じ声が聞こえる。

 ――何を売っているのだろう。

 ぼんやりと霞がかかったような頭で、千夏は考えた。

 夏だから、手押し車を引いてアイスキャンディを売っているのかもしれない。かき氷という線もある。いや、贅沢は言わない。せめて、水でも売っていれば――。

「……つめたい……は、いらんかね……」

 計ったかのように耳に飛び込んできた四文字に、千夏は弾かれたようにベンチから立ち上がった。そして慌てて周囲を見渡す。しかしそれらしき姿はどこにもない。

(確かに、冷たいナントカって聞こえたのに……)

 あまりの暑さに幻聴が聞こえたのだろうか。がっくりと肩を落とす。

 そんな千夏を嘲笑うかのように、蝉が一際甲高く鳴いた。

 ぞわ。

 突然、千夏の背中に悪寒が走った。否、悪寒ではなくそれは冷風だ。まるで冷凍庫の吹き出し口に立たされたような凍てつく風を、千夏はその背に感じた。暑さですっかり弛緩しきっていた体は、鉄筋でも埋め込まれたかの如く一瞬で固く強ばった。

「な、何?」

 短い袖から露出した腕に、鳥肌が立つ。それをさすりながら、冷気の漂ってきた方向を確認する。そこには二階建ての不動産屋と、数軒の飲み屋が入った雑居ビルが立っており、建物同士のすき間には、暗く細い道があった。

「いらんかねー……」

 路地の奥からは、また同様の声がした。そして声に合わせるように、冷たい風が流れ出してくる。

 ――これは、おかしい。

 もし路地の奥にいる物売りが、アイスや氷を売っていたとしても、ここまで冷風が漂ってくるなど有り得るはずがない。路地の入口から千夏が座るベンチまでは、五メートルほどある。真夏に炎天下のこの場所まで運ばれてくる冷気があるとしたら、それはきっと真冬に発生する寒気団並の力ぐらいのものだろう。

 そっと路地の様子を窺うが、昼間だというのにそこは夜のように暗い。入口から遠くなるにしたがって闇が深まっており、物売りがいるであろう場所は確認できなかった。

「もう、本当にどうなってるのよ」

 千夏はその場で地団太を踏んだ。深い闇に対する怖れより、正体不明の何かが存在するという不愉快のほうが勝っていたのだ。

(アイス屋か氷屋か知らないけど、一言文句を言ってやらなきゃ気がすまないわ)

 ベンチに置いていたハンドバッグを、千夏は掴んだ。そしてゆっくりと路地へと近付く。至近距離で見る闇は、圧倒的な存在感を持って、そこに鎮座していた。思わず、唾を飲み込む。先程より和らいだ冷気が、千夏の体を抱き寄せてくる。そして彼女は誘われるままに、闇の中へと足を踏み入れた。

 路地裏は、予想に反して長く続いていた。

 歩を進めながら、時折背後を振り返る。細く縦に伸びる外界からの光が、まやかしじみたこの場所を辛うじて現実と繋ぎ留めている。それを確認しては、また暗い道を進んでいく。

 建物と建物の間の狭い空間にいるというのに、不思議なことに千夏の体はこれまで一度も壁にぶつかっていない。しかし壁の存在を確認することはしなかった。

 左右に伸ばした手が、もし何にも触れることがなかったら――。

 千夏は出来るだけ無心で歩いた。感情の赴くままこの場所に足を踏み入れてしまったことを、若干ではあるが後悔し始めていたからだ。

 何度も背後を確認するうちに、光はどんどんと小さくなっていく。すっかり頼りなくなってしまった光に心細さを覚えつつも、前へ進む。

「見つけたら、絶対怒鳴りつけてやるんだから」

 揺らぎそうになる意志を奮い立たせるように、誰にともなく呟く。

 すると小さなその声に呼応するように、無限とも思えた暗闇がゆらりと蠢いた――気がした。少なくとも千夏の目には、確かにそれが動いているように見えたのだ。

(何か、いる)

 足を止め、じっと目をこらす。

 そして、おそるおそる闇の中に手を差し入れた。

「誰か……いるんでしょ」

 とん、と指先が固い物に触れた。ハッと息を飲む。

 顔があった。老人のそれだ。暗闇からぽつんと浮かぶように、皺だらけの顔が、突如として現れた。

 ひい、と小さな悲鳴をあげて、千夏はその場に尻餅をついた。

「お嬢さん。ひとつ、どうだい」

 豊かな白いあごひげをたたえた爺は、地面に転がる千夏に視線を落とし、静かにそう言った。

 爺の前には木で作られた小さな机があり、揃いと思われる低い椅子に彼は座っている。

 机は狭い路地の幅とほぼ同じで、左右には高いコンクリートのビル壁が迫っていた。それを上へと目線で追えば、そこには青い夏の空が広がっている。

 爺の背後には、薄汚い路地が続いてはいるが、その向こうには明るい光の差し込む出口が見えていた。得体の知れぬ深い闇は、もうどこにも存在していなかった。

(さっきまでは、確かに真っ暗だったのに……)

 首を傾げながら、千夏はゆっくり立ち上がった。両手を左右に伸ばし、確かにここにある壁の力を借りながら。

 疑問を抱きながらも、内心は安堵していた。正体は解からないが、とにかく目の前には人がいる。暗闇の中ひとりでいることがこんなにも心細いことだとは、千夏は今日まで夢にも思わなかった。

 汚れたジーンズを手ではたき、改めて爺を見る。頭髪のないその頭を、見下ろす格好だ。机の上には、小さな瓶が――それは土産物売り場でよく見る星の砂が入った容器によく似ていた――置かれていた。

 どうやら彼は、アイス屋でもかき氷屋でもないらしい。けれどもまだ、周囲は冷たい空気で包まれていた。陽光が差し込まないがゆえの肌寒さとは違い、じわりと体の芯から熱を奪われるような、そんな寒さだ。

「あの」

 千夏は思い切って、爺に声をかけた。そもそもこの冷気と物売りの正体を確かめるために、この場所に踏み入ったのだ。

「いらんかね」

「おじいさん」

「お嬢さん、いらんかね」

「もう! 『いらんかねー』だけじゃ、わからないでしょ!」

 ここに来ても同じ言葉を繰り返すだけの爺に腹が立ち、千夏は机を両手で叩いた。どん、と大きな音がしたが、爺は微動だにしない。机の上に置かれていた小瓶のひとつが、軽い音と共に倒れた。

 ちらとその机上に、千夏は視線をやった。そして四つの瓶が横一列に並んだその手前に、何かが書いてあることに気付く。机の表面に直接、小さな字で。

「『季節、売ります』……?」

 文字を読み上げながら浮かぶ疑問に、思わず語尾が上がる。

 季節とは、春夏秋冬の、あの季節のことであろう。それは子供でも解かる。しかし同時に、それがコンビニやスーパーで買える類のものではないことを知らぬ者などいない。

 爺は膝にのせていた右手をゆっくりと動かし、倒れた小瓶を節くれだった指先で摘んだ。そしてそのままそれを、千夏の目の前に差し出した。

「冷たい冬は、いらんかね」

 千夏の喉からあっと声が漏れる。

 透明な容器の中には、小さな男の人形が入っていた。雪のような肌。長さこそ短いが、絹のようにしっとりとした真っ白な髪。瞳は、静かな冬の湖のように穏やかで深い青色をしている。

 その真っ白な人形が、ガラスの壁に張り付くように立ち、じっと千夏を見ていたのだ。首を傾げ、はっきりとまばたきをしながら。

 人形が動くはずがない。しかしそれは間違いなく動いたのだ。けれど、親指の先程度の小さな瓶に入ったさらに小さな人形に、一体どれほどの仕掛けが施せるというのか。とても現代工学の成せる技ではないことは、千夏にも察しがついた。だから思わず、口を噤んだのだ。

「どうだい、お嬢さん。極上の季節はいらんかね」

 爺は手にしていた瓶を机の上に元通りに立てた後、そう言いながら、かっかっかと豪快に笑った。

「ねえ、季節を売るって、どうやって?」

 人形の正体を尋ねたくはあったが、極めて上機嫌そうな露天商の話の腰を折らないように、千夏は尋ねる。

 投げかけられた質問に、爺はきょとんとした表情をしながらも、

「どうやっても何も、四季にわけて、切り売りするのさ」

 さも当たり前のように答えた。

 ――切り売りなんて、西瓜じゃあるまいし。

 心の中でそんなことを思いはしたが、千夏は口にしないでおいた。何しろこの老人は、薄気味の悪い路地の奥に店を構えるような露天商だ。とても普通の神経をしているとは思えない。売っているものも、小瓶に詰まった動く人形だ。先程は思わず啖呵をきってしまったが、今ではそれを後悔する程に、千夏は彼を怪しい人物だと認識していた。余計な口を出して、その逆鱗に触れでもしたら一体何をされるか。

 爺と視線を合わせないことが不自然にとられないように、千夏はじっと机上に並ぶ四つの小瓶を見た。

 口ぶりからすると――それが本当に販売可能なものかどうかはさておき――彼が売っているのは『季節』だ。しかし机にあるのは、これっきり。

「あの、おじいさん、もしかしてこれって」

 恐らく彼の言う『切り売りしている季節』とは、これらのことだろうと予想は付いていた。机の周囲にはこれ以外売り物らしいものはなかったし、演劇の黒子のような衣服を身に纏った爺に、何かを隠し持っているような様子は見られない。

 千夏は並んだ小瓶を指さしながら尋ねた。勿論視線は、已然机上に落としたまま。

「そうさ、これが季節さ。今なら、春夏秋冬、全部取り扱っとるよ」

 爺が得意気に張り上げた声が狭い路地に響く。そして彼はごほん、とひとつ咳払いをした。

「アー、アー、うん、よし。……さて! いらんかね、いらんかね、極上の季節はいらんかね! 古今東西駆けずりまわって探しても、他では絶対に手に入らない貴重な品だよ!」

 声の調子を確認するよう喉の辺りをさすった爺は、太い声で高らかに唄うように口上を述べはじめた。

 視線を外した千夏の顔を覗き込むように、爺が語る。元から皺だらけの顔を、さらにしわくちゃにして。

「さあさあ、お嬢さん。見てください、さあ! お手に取って、とくとご覧あれ!」

「えっ!?

 言うと爺は千夏の手を取り、戸惑う彼女を露とも気にせずに、摘み上げた四つの瓶を無理矢理掴ませた。決して大きくはない千夏の左手のひらの上には、ころころと四つの瓶が揺れている。どの瓶の中にも、先程見たのと同じような小さな人形が入っているようだった。温かいような冷たいような不思議な感覚が、手のひらいっぱいに広がっていく。

「季節を切り売りするなんて馬鹿げている? そもそも季節が売れるはずない? お嬢さん、そう思っているんだろう? ああ、ああ。いいのさ、大丈夫、わしには最初から全部お見通しなのさ。隠さなくてもいいさ、いや、隠したって分かるからね、うん。

 その瓶の中身を見て、お嬢さんは人形だと思ったんだろう。ところが、それこそが季節、そう、季節なのさ。そいつらは人形なんかじゃあない。季節の結晶さ。季節という曖昧なものが、ぎゅーっと瓶の中に凝縮されてできた、結晶なのさ。何でも、凝縮されたら結晶になるだろうさ。つまり塩みたいなものなのさ、こいつらは。塩の結晶は、大きく綺麗な宝石のようだろう? それと同じなのさ、季節の結晶は。

 冬になると、寒いだろう。雪が降るだろう。冷たい風が吹くだろう。空気が乾燥するだろう。それは何故か、考えたことがあるかい? え? 北から流れてきた寒気のせい? いいや、そうじゃあない。あれはすべて、こいつら季節の仕業なのさ。季節が冷たい風を吹かせれば冬になるし、逆をすれば夏になる。季節の力が、世界中を包み込むように薄らと広がっているのさ。世界は季節に支配されているといってもいい。……もっとも、季節なんて名前は人間が勝手に決めてしまったもの。その実、こいつらの正体なんてワシにだってわからんのさ。

 まあ、それはいい。それじゃあ、その世界中に広がっていた力を、一箇所に集めてしまえばどうなると思う? 結局はさっき言った通り、塩となんら変わらないのさ。凝縮された力は結晶となって、わしらにも見える形で現れるのさ。それが、この瓶に入っている人のなりをした存在だ。

 この瓶には、季節を閉じ込める力があるそうだ。ああ『何故か』なんて訊かんでくれよ? ワシにだって、わからん。ワシはただ季節売りとしての仕事を全うしているだけにすぎんのさ。

 さあお立ち合い、お立ち合い! お嬢さん、よおく、見てご覧なさい。こいつらは一見人形のようだが、人形じゃあない。人のなりをしているからといって、人間でもない。あくまで、季節、季節の結晶さ!」

 白ひげの露天商が語ったのは、極めて荒唐無稽な話で、俄には信じ難いものであった。

 瓶の中身が『季節』であり、この人の形をしたものによって、世界の気候が左右されている。

 爺の言葉を要約し、自身の中で咀嚼する。

(そんな話、信じられるわけないじゃない)

 内心呟いて眉根をひそめつつも、手のひらの上にある瓶を見た。彼の話を信じるかは別として、現実に瓶の中には人の形をした何かが存在しているのだ。

(季節の結晶……ねえ)

 手のひらの上で横倒しになっている瓶に、千夏はじっと目を凝らした。

 ひとつめの瓶には、ふわふわとした桃色のウェーブヘアをした少女がいた。瓶底を背もたれにして、足を投げ出して座っている。薔薇色に染まった頬を緩ませ、微笑んだその表情はとても愛らしい。イチゴのように赤い大きな瞳で、時折思い出したように千夏を見やっては、くすくすと笑っていた。

 次の瓶に入っていたのは、小麦色の肌をした少年。細く伸びた四肢が印象的だ。スポーツマンのように刈り上げた黒い髪はツンツンと立っている。けれど彼は見た目とは裏腹に、うつ伏せになってぐうぐうと気持ちよさそうに寝入っていた。育ち盛りの子供のようだと、千夏は思った。

 健康的な小麦色の後、目に移り込んだのは、まさに鮮烈な秋の景色だ。三つめの瓶の中で、それは千夏に背を向けて座っていた。艶やかなストレートヘアは栗色と赤色、そして黄色が混じり、静穏な山間の紅葉を思い起こさせる。こちらに見向きもしないその様から、きっと気位の高い女性であろうと、千夏は勝手に想像を膨らませた。

 そして残った瓶の中身を、千夏は既に知っていた。しかし、既知の存在であったにも係わらず、その姿を再び目にした千夏の唇からは思わず感嘆の溜息が漏れる。綺麗だ、と心の底から感じた。彼は瓶の中から、やはり千夏を見つめていた。青の瞳は、吸い込まれそうなほど深い。憂いと不安が入り交じったような、複雑な表情を彼は見せている。

 これが、冬なのだろうか。千夏の心に、ふとそんな疑問が湧いた。彼は確かに外見こそ雪原のように純白ではあるが、その表情や仕草から冬を思わせるような冷たさは見て取ることができなかったからだ。

(冬には、見えないけどな)

 瓶の外側からほんの一分程度眺めていただけだというのに、千夏は彼にそんな印象を抱いた。

「お嬢さん」

 瓶の中身から視線を逸そうとしない千夏に痺れを切らしてか、露天商が声をかけてきた。

 千夏はハッとして、手の上にある瓶から視線を上げた。

 無理矢理瓶を渡されたとはいえ、これらが売り物だったことを思い出す。慌てて瓶を机上に戻した。瓶底が机に触れ、コンと軽い音がたつ。

(しまった)

 千夏は思った。瓶の中にいる彼は大丈夫だろうか、と。

 元の場所に戻したばかりのそれを、思わずまた手に取り、中を覗き込んだ。何事もなかったかのように、彼は相変わらずそこに存在していた。ガラス壁に張り付くように立って、物悲しげな表情で。

 彼の無事を確認し、千夏は安堵の吐息をこぼした。

 そして再び、小瓶を机へと戻しかけた時。

「気に入ったのかい」

 爺の言葉に、思わずその手が止まる。

 千夏は、それまであまり見ないようにしてきた露天商の顔を、そっと窺った。頬を緩めて、穏やかな笑みを浮かべている。初めに彼を見たときの不気味さや、口上を述べながら見せた圧倒されるような勢いは、今はない。そのかわりに、縁側で茶をすする老人のような温厚な空気を、彼は纏っていた。先程までとはまるで別人のようだ。

「そういうわけじゃ……」

 自分の中にある感情が『気に入った』という表現とは少し違う気がして、千夏は口ごもる。何かが違うのは分かっているのだが、それに代わる的確な言葉が出てこない。

 明瞭とした答えを寄越さない千夏に対して、露天商は笑みを絶やさぬまま、ただ、うんうんと頷くだけだった。

「いいのさ。今は、それで」

 言葉を選ぶように、白ひげの爺はゆっくりとそう言った。

 そして小瓶を摘んだまま机の上で惑っていた千夏の手を、やんわりと両手で包み込んだ。節張ったその手は思いの外固く、そして温かかった。手の中にある小瓶から伝わる不思議な冷たさが、それを更に際立たせている。

「瓶は――冬は、持っておゆき。お金はいらないよ」

「え? でも……」

「きっとそいつは、お嬢さんの役にたつはずさ。遠慮せずに、貰っておくれ」

 老人は言いながら千夏から両手を離し、そしておもむろに千夏の肩を押した。

 驚く間もなかった。肩を押された僅かな衝撃によって、千夏が一歩後ろによろめいた、そのたった一瞬で、露天商の姿はぐんと遠ざかり見えなくなった。それは、搭乗したジェットコースターが猛スピードで逆走するような――或いは露天商の方が、すり鉢状の闇に高速で吸い込まれていくような、これまで千夏が目の当たりにしたことのない異様な光景だった。

 千夏の前には、薄暗い路地が広がっている。左右にはコンクリートの壁があり、十数メートル先には出口の光も見える。背後を振り返れば、そう遠くない距離に路地の入口があった。そこから鋭い陽光が差し込み、千夏を照らす。眩しさに眉をひそめる。蝉の声が、千夏の耳に届いた。つい先程までの出来事が、白昼夢であったようにも感じられる。

 それほどまでに遠くなっていた平穏な夏の午後が、そこには在った。

 それを認識すると同時に、ふわりとした優しい肌触りの冷気が、千夏の体を包み込む。

 左手の中が、氷を握ったように冷たい。千夏は胸の前で、握った手のひらをそっと開いた。

 透明なガラス瓶の中で、雪のように真っ白な青年は穏やかな微笑を浮かべていた。まるで初春に咲き綻ぶ梅の花のような、そんな笑みだった。

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