クリスマスイブは終わらない

 普段より、街を行き交う人が多いような気がしていた。それは今日が三連休最終日だからか、あるいはクリスマスイブという特別なイベントによる賑わいなのか、それとも年末独特の背中を押されるような慌ただしさなのか、はたまた、そのどれもなのか。いずれにしろ、私には判断のつかないことだし、そもそも理由なんてどうだっていい。ただ、人出が多いせいで、私は今、少しばかり問題を抱えるはめになってしまっている。

「はよ歩きいや。電車がなくなるやろ」

 私の前を足早に歩くその男は、急に立ち止まったかと思えばくるりと振り返り、肩を竦めながら言った。振り返った拍子に、彼の首に巻かれたマフラーが揺れる。数十分前に私が巻き直したばかりだというのに、それは既にほどけかかっていた。一体どういう動きをすれば、こんなにすぐマフラーがほどけてしまうというのか。

「――っと、すんません」

 彼が突然立ち止まるものだから、すぐそばを歩いていた中年男性の肩が彼の腕にぶつかる。彼は小さな声で謝罪したが、男性は立ち止まりもせず、ぶつかったことなど気にもとめない様子で、あっという間に人混みに紛れてしまった。

 それを見て、私は大きく溜め息をつく。これで今日、何度目だ。彼が歩行者にぶつかるのは。

「あのねえ」

 彼の腕をひき、歩道の端に避ける。移動したそこは駅ビルの外壁のそばで、私たちの他にも、携帯電話の画面に釘付けになっている待ち合わせ中と思しき女性や、複数人でかたまって会話に花を咲かせている学生の姿がある。楽しそうだな、と少し羨ましく思う。私とて、今はこの目の前の男(彼は一応、私の恋人だ)とデート中なのだから、一般的には楽しくて然るべき時間なのだが――。

「何なん、はよせんにゃ」

 悪びれずに言う彼の姿に、軽い頭痛を覚える。先ほど食事を終えてから、彼はずっとこの調子なのだ。

 クリスマスイブだからふたりでどこかで食事をしようと誘われ、いつもは行かないような、少しかしこまったイタリアンでランチをした。

 クリスマスイブに、イタリアンだ。

 これがベタな少女漫画だったら、この後はクリスマスソングが軽快に流れるショッピング街でウィンドウショッピングをしながら、私が気に入ったものを彼が「クリスマスプレゼントだよ」などと言って贈ってくれたりして、日が暮れてくれば「実は夜景の見えるレストランを予約していたんだ」なんて展開になって、宝石のように煌く街を横目に美味しい食事するなんてことになってもおかしくないだろう。

 しかし、漫画みたいな展開なんて、私ももちろん鼻から期待などしていない。上京して半年以上経っても、この東京砂漠で遭難しかけることが度々ある彼に、土地勘を要する高度なデートなど、申し訳なくて求められるはずもないのだ。今回のイタリアンだって、探すのに随分苦労したことだろう。

 それでも、だ。ランチを終えるなり手を引かれ「帰ろう」とは、あんまりではないか?

「急に立ち止まったりしたら、迷惑がかかるでしょ」

 首から下がっただけになっている彼のマフラーを巻き直しながら、言う。

 彼は歩くのが速い。男だから、というだけではない。

 彼は今でこそ東京二十三区内に住んでいるが、つい去年までは田舎の、それも随分山奥で暮らしていており、移動は大体徒歩だったらしい。田舎の人間はみな車に乗ってドアトゥドアな生活を送っていると私は思い込んでいたのだが、彼曰く「まだ車乗れんし、一番近いバス停まで歩いて四十分やけえ」ということだった。ドアトゥドアは、どうやらおとなだけの特権らしい。さらに彼が住んでいた場所は雪が多く積もることもあるそうで、そんな道をほぼ毎日歩き続けていたのだから、自然と足腰も鍛えられ、結果私は、彼に遅れをとることが多かった。

 それでも普段並んで歩く時は、一応気を遣ってくれているようで、今日ほど距離が開いたりはしない。足早なだけなら対処のしようもあるのだが、彼は急いでいるわりに私と距離が開くと、その都度さっきのように振り返って、私を急かすのである。ただ言葉で急かすだけなら文句のつけようもあるが、それができないでいるのは、振り返った瞬間、彼が一瞬だけ、心配そうな目で私を見るからだ。そんな顔を彼がするのは初めてで、だから私は怒鳴りつけたりせずに、何とか必死に彼についていこうとしていた。

 今日の彼は、とにかく、色々とおかしい。

「やから、はよしいって言うちょったやん。駅は……ん、さんきゅ」

 反論しようとするが、それと同時に私がマフラーを巻き終えたため、彼は話を中断してからその結び目に触れて、そして満足そうに口元を緩める。その様子に、むうと口を噤まざるを得なかった。私は、彼に出会った当初から、こどものようにころころと変わる彼の表情に、弱いのだ。

 初めて彼と会ったのは大学の食堂。そこで彼は友人らしき数人とともに食事をしていた。そんな彼を一目見たときから私は――なんてロマンティックなことはなく、私も彼と同じように、友人とともにランチの真っ最中で、彼は視界に入る位置にいたにもかかわらず、私の目にはこれっぽちも入っていなかった。

 しかし、私たちがランチを終え、さあ席を立とうかという時、それは聞こえてきたのである。

『はあ、なんなんよ、そんなん知らんっちゃ』

『うおー、ちゃ、だって。ちゃ。あれじゃね、お前ラムちゃんなんじゃね?』

 明らさまに面倒臭そうな色を帯びた訛り言葉と、それを揶揄する声。

『なあなあ、もっと喋ってくれよ』

『いやいな』

『いいじゃんかよお、ちょっとぐらいー』

 どうやら田舎から出てきた学生が、訛りのせいでからかわれているようだ。年度の初めあたりには、毎年見られる光景で、特段気にするようなものでもないのだが、しかしこの時ばかりは、からかう側の男がやたら大声で喋っていたものだから、周囲で食事をしていたほとんどの学生の視線が、彼らに向いていた。からかわれていた彼は、それに気付き、恥ずかしそうに俯き、黙り込んでしまっていた。

 その、彼の表情が、なんというか――結局、ロマンチックな話になってしまうが――無性に、気になってしまったのだ。

 だから無意識のうちに、

『ちょっと、そこのあなた?』

 私は、彼らの前に、でん、と仁王立ちになっていた。

『な、なんなんすか』

 先ほどまでひとをからかい、けらけらと笑っていた男は、私のただならぬ様子にたじろいでいた。けれど、その目だけはキッと細められている。一応、威嚇しているつもりだったのだろう。なんて弱い男だ、と私は思った。だから、鼻でふんと笑ってやって、そして、言い放ったのだ。

『ラムちゃんの語尾は、ちゃ、じゃないわ。だっちゃ、よ』

 ――場の空気が、おかしな具合に凍り付いたことは、言うまでもない。

 けれど、あの場は仕方がなかったのだ。ラムちゃんも、彼も、バカにされるべき存在ではなかったのだから。あれで彼をフォローできたかどうかは謎だが、それでもその後から彼に懐かれるようになったのだから、結果としては私の行いは間違いでなかったのだろう。

 後日、再び食堂で出会った私に、彼は、はにかんだような微笑をわずかに浮かべ、言ったのだった。

『ありがとう、ございました』

 と、一言。その呟くようにぽそりと発せられた言葉が、どれだけ私の心を捉えたかというと、今のこのふたりの状況が、それをすべてを物語っているだろう。

 結果オーライ。終わりよければ、すべてよし、なのだ。

 ……否、終わってなどいない。私の闘いはこれからなのである。

 現に、私はまたもや、彼の微笑みによって心を乱されていた。

 だめだ、こんなことではだめだ。誤魔化されてはいけない。彼がどういうつもりなのか分からないまま、一方的に踊らされているようでは、年上としての威厳も何もないではないか。

「え、え、駅が、どどどどうしたの」

 彼の表情にときめいてしまったことを出来る限りの努力で精一杯隠しつつ、私は彼の言葉を促した。

「あー、いや、駅がすぐそこやから。がんばりいやって。……もう、えらいんか?」

「つ、疲れてなんてないわっ」

 ああ、彼は、本当にずるい。こんな風に気遣われて、嬉しくない女などいるものか。しかもそれが、意図的なものでなく、ごく当たり前のように行われているのだから、なおさらだ。ちなみに、彼の言う『えらい』は『疲れた』とか『しんどい』とかそういう意味である。

「ねえ」

「ん」

 気遣いは、確かに嬉しい。しかし、彼が私に気を遣わなければいけない事態になった根本的な理由が分からないことが、そもそも大問題なのだ。

「何で、そんなに早く帰りたがるのよ」

 私は彼の目を見つめながら、抱えていた疑問を、ついに彼に投げかけた。距離を詰めたせいで、背の高い彼を自然と見上げる格好になる。

「何でって」

「ランチ、そんなに退屈だった? それとも、これ以上私と外を歩くのが嫌なの?」

 思い返せば、食事中、彼はなんとなくそわそわしていた気がする。

 そういえば、店を出てから、最初は手をひかれていたけれど、そのうち彼と私は数メートルも離れて歩いていたじゃないか。

(もしかして、飽きられた?)

 今自分から言い出したことなのに、それをきっかけにして悪い方向に想像がいってしまって、全身がどんよりと重くなる。目の前にいる彼の姿が、じわりと滲んだ。慌てて右手の甲で目をこする。朝早く起きて気合いを入れて化粧をしたというのに、これではすっかり台無しだ。

「こすりんなよ」

 私の手首を、彼が掴む。そしてそのまま、ゆっくりと下ろされた。

「目ぇ痛む」

 手の甲の代わりに、彼はハンカチで、私の目元を拭う。

「なんも言わんと、悪かったいね。泣きやみ。な?」

 ハンカチからは、ふわりと洗剤の匂いがした。

「泣いて……なんか、ない」

 ぐずぐずと鼻をすすりながら、説得力のない言葉を返す。彼の手からハンカチを奪って、目から溢れていた汗をぐいと拭う。ハンカチはぎこちなく折り畳まれてはいるが、その匂いとはうらはらに、あちこちしわだらけだった。

「洗って返すわ」と言うと、彼は「うん」と相槌を打つ。私が彼のハンカチをバッグにしまう間、彼は私の頭を、ぽんぽんとこどもにでもするように撫でていた。それが嬉しくも、公衆の面前ということもあり、やや恥ずかしく感じられ、

「私、こどもじゃないのよ」

 反抗してみせる。彼はまた「うん」と言いつつも、その手をとめない。キッと睨むように彼を見れば、彼は困ったように首を傾げてみせる。そしてようやく、手を下ろした。

「ケーキ」

 なんの脈絡もなく、彼は突然そう言った。

 結局私たちはそのまま家に帰ることもなく、駅ビルの中にある喫茶店に入っていた。店内は濃厚なコーヒーの香りで満ちていて、しっとりと暖かく、私の心を落ち着かせてくれる。――崩れた化粧は、先に直し済みだ。

「え? ケーキ、食べたいの? じゃあ、どれにする?」

 席の端に立てられていたメニューを取りだそうとすると、彼は難しい顔をして「いや」と漏らした。

「届くんちゃ、ケーキ」「届く? ケーキが? どこに? 今日? なんで? 誰から」 

 そんなこと、初耳だ。

 驚いた私は矢継ぎ早に質問をぶつける。

 彼はコーヒーを一口啜って、その苦さにか、それともそれ以外に対してか、眉を潜めた。

 かちん、とソーサーとカップが触れ合う音がやけに大きく聞こえる。

「うちに、ケーキが届くんよ。クリスマスやけえ。ケーキ屋から。……もうすぐ」

「もうすぐ!?」

 取り出した携帯電話に表示された時刻を確認しながら、淡々と言う彼に、私は思わず身を乗り出して聞き返していた。

 これはもしかして、もしかすると――?

「だ、だから、早く帰ろうって? そういうことだったの?」

 私の言葉に、彼は大きくしっかりと頷いた。それを見て、一気に脱力する。

 彼は、私とのランチがつまらなかったわけでも、私と歩くのが嫌なわけでも、私に飽きたわけでもなかったのだ。ただ、今日届くケーキのことが気になって、早く帰りたがったり、無性にそわそわしていただけだったのだ。ああ、私はいらぬ心配でひとり心を痛めていたのか。しかし、悪い想像が現実にならずに、それはそれで良かったといえば良かったのかもしれない。

「それなら、そうと……言ってくれればよかったのに……」

 もはや、気の抜けた声しか出ない。

「やから、黙っとってごめんっちゃ。クリスマスやし、驚かせたかったけえ……ごめん……」

 私が言うと、彼は顔をくしゃりと歪め、しゅんと項垂れると、縮こまってしまった。

(またそんな顔してっ!)

 胸が苦しい。そんな顔しないで欲しいと思うのに、いつも言い出せないのは、私が彼に甘いせいもあるが、彼の色んな表情を見てみたいという思いも少なからず私の中にあるからだ。

 なんだか顔が熱い。この店は、少し暖房が効き過ぎではないか?

「い、いい? よく聞きなさい?」

 手扇で風を送って顔を冷ましながら、しょぼくれた彼に向かって言う。

 彼は縋るような目で、私を見た。その純朴な輝きに、目眩がしそうだ。

「あのね、驚かせようとしてくれたのは、嬉しいわ。ありがとう。でもね、あなたが急いで歩いたら、私、ついていけないのよ」

 彼の不安げな表情につられて、それでも必死についていこうとしたことは内緒にしておく。

「でも、あなたが急ぎたいんだったら、それでもいいの。私だって、できる限り速く歩くわ。ただし、今度からは、私と手をつないでおくこと。じゃないと、急に立ち止まったりしたら、あなたも他のひとも、危ないでしょ? いい? 分かった?」

 先ほどは彼が私をこども扱いしていたが、今度は逆だ。普段からこうありたいものだが、なかなかうまくはいかないのが現状である。しかしそれもまた、彼との付き合いの中で、楽しい部分であったりもするのだが。

 私の言葉に、彼は何度も頷いた。不器用なところも彼の魅力だが、この素直さもまた、彼の美点のひとつだ。

「よし。……じゃあ、ケーキが届く前に急いで帰りましょ」

 私が立ち上がると、彼はぱっと表情を輝かせて席を立つ。

 会計を済ませて、店の戸を押す。からんからんと、戸についた鐘が鳴り、客の退店を告げた。

「はい、手」

「うん」

 喫茶店を出てすぐ、左手を差し出すと、彼の右手がすぐに重なった。大きく温かい手に、胸の奥をくすぐられたような気分になる。

「あ」

 一歩踏み出した瞬間に、私は肝心なことを彼に尋ねるのを忘れていたのを思い出した。

「どうしたん」

 会話をしながらも、ひとにぶつからぬように、私たちは足早に歩く。

「ケーキ」

 握った手に込める力を、少し強める。

「誰と食べるつもりなのよ?」

 そんなこと今更訊くまでもないだろう。それでも、他でもない彼の口から、答えを引き出したかったのだ。

「……そんなん、あんたしかおらんやろ」

 そうして彼もまた、私の手を強く握り返してきた。

「よろしい」

 それを確認して、私は満足げに言ってから、小さく笑った。

 駅の改札は、もうすぐそこに迫っている。そこでは、握ったこの手を離さなければいけないのが、少しだけ名残惜しかった。

 けれどもう、落ち込む必要はないだろう。

 私たちのクリスマスイブは、そのあとも、ちゃんと続くのだから。

(了)

       
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