暗褐色の海

 遮るもののない澄みきった蒼空を背景に、大輪の朝顔がいくつも咲いている。紫苑色や紅の花弁は、空の青に良く映えるものだ。陽光をさんさんと浴び、露に濡れた朝顔は、萌黄色のその蔓すらもキラキラと輝いている。

 木で組んだ簡素な椅子だけが置かれた小さな庭を囲うように数十本の支柱が立てられ、それに沿うように朝顔は植えられている。

 その生垣から庭の外を覗けば、そこにあるのは雲の端だ。千切れた雲のかけらだけがふわふわと浮き、空と大地の境がない。空は果てなくどこまでも続き、じっと見つめればその鮮やかな青に吸い込まれそうになる。そのたびに、ここは確かに空の上なのだと再認識させられるのだ。

 木組みの椅子に座り、東雲祐司はぼんやりとそれらを見ていた。ただ、見るだけだ。それらに対して思考することはない。

 早朝、朝日が昇るとともに朝顔は開き、日が暮れるころにゆっくりと花弁を閉じる。その後ろで空は金色に輝き、徐々に色味を青に変え、そして茜色に染まっていく。その光景を、東雲は毎日眺めていた。飽きはない。自らの人生は淡々とし、決して起伏のないものなのだと割り切っているのだ。東雲は、母から道具屋『越後』を継いでからずっとそう考えていた。

 

 * * *

 

 東雲の母が彼に遺したこの道具屋は、天空街の果てにあるという立地上、ほとんど客が訪れることはなかった。それ故商品は埃をかぶり、最後に仕入れをしたのがいつだったのかすら、東雲は忘れていた。

 道具屋を開いたのは、母の意向によるところが大きい。父親はあまり家に居付かず、東雲と父親が顔を合わせるのは年に一度ほどだった。そんな父親が、母の提案を否定するはずもなく――興味があったとは東雲には思えなかったが――あっさりとこの道具屋は開店した。

「もっと、街中に店をかまえたらいいんじゃないか?」

 東雲は一度、母にそう言ったことがあった。店を構えた場所があまりにも街から離れすぎていていたため、客はほとんど入らず、さらには仕入れの度に手押し車を押してかなりの距離を歩かなければいけなかったからだ。そしてその仕入れは、店主である母ではなくなく、なぜか東雲の役割になっていた。

 ウンザリした顔で問いかけた東雲であったが、そんな彼の心中を母が察するわけもなく。

「あら、ここ、空が《海》みたいに見えていいじゃない」

 子供のような笑顔で、彼女はそう答えたのだ。

 

 東雲の母は、元々地上の人間だった。

 地上とはその名の通り、紛れもなく大地の上に存在していて、この街のように空の上にあるわけではない。彼女が言うには、地上は空に浮かぶこの街よりも、ずっと下にあるのだという。そこから彼女はさらわれてきたらしい。詳しいことは東雲もよくは知らない。ただ、この雲上の街ではよくあることなのだと父から聞き、以来何の疑問を抱くこともなくなった。

 地上にある彼女の家は代々古道具屋を営んでおり、その店は《海》に面して建てられていた。

 そのせいか、母はまだ幼かった東雲に、たびたび《海》の話を聞かせた。

 ――白い砂浜の向こうに《海》が広がっているの。ざざん、ざざんと寄せては返すのが波。《海》は綺麗な青色で……海の端は、そう、まるで空と繋がっているみたい。

 そして時には、紙に《海》を描いてみせることもあった。植物の絞り汁で色を付け、空と《海》が混じる真っ青で美しい景色を、母は東雲に伝えた。

 本当に《海》が好きな人だった。

 空が《海》のように見えるこの場所で、そんな彼女が道具屋を始めたことは当然といえるかもしれない。

 現に東雲は母からその話を聞き、それから店に対して一切の口出しをすることがなくなった。否、できるはずもない。かつて親しんだその場所に、彼女は決して戻ることはできないのだ。遠く離れた世界で、故郷に似た景色をせめて眺めていたいという母親のささやかな想い。息子である東雲にすら、それを邪魔する権利はない。

 

 しかし道具屋『越後』が開店して五年が経った頃、東雲の母はあっけなく逝った。店の中に埃だらけのガラクタじみた商品と、庭に植えた色とりどりの朝顔たちを残して。しっとりとした肌触りの風が優しくそよぐ午後だった。

 その日も父は家にいなかった。埃を避けるように店内の隅に敷かれた布団の上に母は横たわり、東雲は弱った母をじっと見つめていた。延命の手立てがないのはもう分かっていた。寿命だったのだ。地上人は、天空に住まう人々よりもずっと寿命が短い。両者の混血が進んだ今でも、やはり天空人のほうが緩やかに老いる。

 皺だらけになった母の手を、東雲はそっと握った。まだ辛うじて残るその温度を確かめるように。

「ああ、《海》が見えるわ、祐司……。綺麗ね、本当に綺麗……」

 白く濁った目で宙を見ながら、母は消え入りそうな声で言った。その視線の先には勿論海どころか、暗く煤けた天井があるだけだ。

 東雲は悔しさに奥歯を噛んだ。

 母はここにさらわれてくるべきではなかった。そう痛感した。それが例え自らの存在を否定することになろうとも。《海》のそばで古ぼけた道具屋を営みながら、望んだ相手と結ばれ、子供をもうけ、ゆっくりとした時間の中で穏やかに老いてゆくことが出来たなら、母はどんなに幸せだったことだろうか。

「祐司、ほら、あれが《海》よ」

 肉が削げ節ばった指で、母は空いた右手で足元にある箪笥を指さした。

 東雲は一言、ああ、と漏らした。胸が詰まり、それ以上の言葉が出てくることはなかった。

 そして母の手は力なく垂れ、布団の上に落ちた。

 日が落ちるまで、東雲は項垂れたまま動くことが出来なかった。夜の帳が下りた頃、握ったままだった母の手は冷たく硬くなってしまっていた。そうなって、ようやく東雲は母の死を受け入れた。

 

 次の朝、東雲の父が店に現れた。母の死を告げると、父は「そうか」と呟き、母と二人きりにしてくれるよう東雲に頼んだ。東雲は了承し、一人庭へと出る。

 母が庭に植えていたたくさんの朝顔は、こぞって白い花弁を広げていた。葬送の白だ、と東雲は感じた。

 庭に置かれた木組みの椅子に座り、大きく息をつく。空を仰げば、深い青が広がっていた。

 父は母に別れを告げているのだろうか。

 母は生前、ほとんど家に戻ってこない父を責めることも、愚痴を零すこともなかった。「忙しい人だから」母はそう言っていつも笑っていた。

 二人の間に愛があったのかは分からない。惰性の関係だったかもしれないし、父が――或いは母が――強制した関係かもしれない。しかしどちらにしろ、東雲自身には推察することが出来ない関係であった。

 これが世間的にいう『夫婦』というのであれば、なんと淡白なものであることか。

 母が嫌いなのではない、父が憎いわけでもない。けれどこの関係に果たして意味があるのか。

 ましてや、母は地上の人間だ。

 知らぬ土地で、糸のほつれのような急ごしらえの人間関係だけを頼りに生きた短い人生。

 果たしてそこに幸せはあったのか。

 思考すればするほど、母が不幸な人生を辿ってしまったように思える。

 蒼穹に白い波が立つ。それは群れを成して飛ぶ羽根魚だ。見送る者がほとんどいない母のための葬列のようだった。

 それを見計らったかのように、父が庭に姿を現した。腕には母の亡骸を抱いている。両手を胸の前で組まされ、ぼろぼろだった髪も綺麗に梳かしつけてあった。唇には薄らと紅が塗られている。痩せこけてはいるが、とても死んだ人間には見えない。

「父さん……」

「ルリエの魂は療環庵へと送られた。案内役のカシカとは旧知の仲だ。ルリエもきっと不自由することはないだろう」

「身体は……母さんの身体は?」

 東雲の問いに父は一瞬押し黙った。ちらと母の顔を見やり、ゴツゴツとした岩のような手でそっとその頬を撫でる。

「《海》に還す」

 東雲と目を合わさないまま、父は言った。

「《海》へ? 地上の? そんなことが可能なのか?」

「出来る出来ないの話じゃない。還さねばならんのだ」

 言いながら父は東雲に、ついと何かを差し出した。反射的にそれを受け取る。東雲の掌に落ちてきたのは、磨き上げられた一粒の石と、中にじゃらりとした感触のある布袋だった。

「これは」

「留め石という。ルリエの本棚に、その石について詳しく記した本があるはずだ。祐司、石が映しだす景色の意味を考えろ」

「映す? 景色? 意味って……父さん、もしそれが分かったとしたら、どうなるっていうんだよ」

 東雲の頭の中は疑問符で溢れていた。父の言葉はすべてが唐突で、東雲には理解できないことばかりだった。かつてこれほどまで父と言葉を交わしたことはなかった。心のどこかで、これが最後の対面になるのではないかという思いが湧いた。

「どうすべきかは自分で選べ」

 刹那、突風が吹いた。

 思わず目を閉じる。

 姿勢を低くしていないと、空の彼方へ飛ばされてしまいそうだ。

「祐司、すべてお前自身が決めることだ」

 頭上から、風切り音に負けぬ力強い声が降り注いだ。

 腕で顔に当たる風を避けながら、薄目を開けて空を見る。巨大な黒い鳥の姿がそこにはあった。雄雄しく翼を羽ばたかせ、空高く舞う。太陽を目指すように垂直に飛び上がった巨大鳥は、すぐに見えなくなってしまった。

 凄まじい風が吹いたにも関わらず、庭の朝顔は葉の一枚も揺らすことなく立ち並んでいた。

 東雲はただ呆然と、悲しみにも似た深い青に染まる空を眺めることしか出来なかった。

 

 

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