朱色の再誕

 窓ガラスの向こうに広がる青い空を行く鳥たちは、どこまでも自由だ。なにかに縛られるわけでもなく、行く手を阻むものもない。

 窓から柔らかな光が差し込む。窓際に置かれた和彦の机上は、そこだけが春であるかのように暖かい。

 頬杖をついたまま、ぼんやりと窓の外を眺める。興味もない英文を読み上げる教師の声から意識を逸らすように。なにを見るわけでもない。否、見ようとすらしない。彼の心を動かすものは、この世界には既に存在していなかった。

 変わらない日常。上っ面だけの友人たち。押し付けがましい両親。非日常の塊であるテレビ放送ですら、飽き飽きしていた。くだらない人生だと思いながらも、そんな自身を悲劇の主人公に仕立て上げて命を絶つことすら、面倒事でしかない。

 そんな和彦が唯一不同だと感じたのが空だった。時間の経過でゆっくりとだが確実に変化していく空の色。雲は二度と同じ形を成さず、ゆっくりと流れる時もあれば濁流のような速さと色で流れていくときもある。空を眺めていれば、つまらない授業の時間でも、どうにかやりすごすことができた。――成績のほどはいうまでもないが、しかしそれすらも興味の対象外だ。

 ふと、山の端から巨大な雲がせり上がってくる。季節は冬だというのに、まるでそれは入道雲だ。

(不思議なこともあるもんだな)

 突如現れた季節はずれの入道雲に、わずかながらに感動を覚える。その雲は見る間に大きくなり、山際から離れ、風船のように空に浮いた。昔見たアニメ映画に出てきた雲にそっくりだ。そういえばその雲は、なんと呼ばれていただろう。なんとなく気になって、すっかり細くなった記憶の糸を辿る。考え込むことなど久々だった。うんうんと頭を抱え、そして唐突に思い出す。

「竜の巣だ」

 思わず口に出した瞬間だった。

 弾けるような眩い光が、突如として和彦を襲った。

 思わずきつく目を閉じる。

 目を閉じる瞬間、光の根を見た。

(雲の中……から?)

 そして世界は光につつまれた。

 

 身体を壁に打ち付けられたような衝撃。

「うわあっ」

 思わず声が漏れる。

 座っていた椅子から落ちたのだと思った。けれど横倒しになった身体に、床についた手に感じる感触は、今までいたはずの教室ではありえないものだった。ひやりと冷たいそれは、まるで石畳だ。

 痛みを堪えながら、ゆっくりと目蓋を開ける。しばらくの間閉じていた目は、なかなか焦点を合わせることができない。揺らめく視界。白む世界の中に、鮮やかな赤が色を差した。その赤は徐々に本来の形を明らかにする。赤だと感じたそれは目を凝らせば朱色であり、外形だけは和彦も見知ったものだった。

 ――鳥居だ。あまりに巨大な。

「は、はは……なんだよこれ……」

 ゆっくりと身体を起こす和彦の口から空笑いが漏れる。教室にいたはずの自分がなぜこんな場所に転がっているのか。思考を巡らせど、もちろん明確な答えなど導き出せるわけもない。ただ笑うしかなかった。

 それでも立ち上がり、しっかりと両足で地を踏んだ。履いていたはずの上履きがなくなっていることに気付く。靴下のまま地面を歩くのは気が進まず、乱暴に脱ぎ学生服のポケットに無造作に突っ込んだ。足の裏に感じる石畳の冷たさが、もやのかかったような意識を次第に明瞭にさせていく。

 頭上には巨大な鳥居。正面には大きな通りであろうか、左右両端に木造の平屋がずらりと並んでいる。まるで時代劇の世界に迷い込んだようだった。石畳は鳥居の周辺にのみ敷き詰められているようで、通りの地面からはほのかに乾いた土の匂いがする。

(夢じゃないのか)

 石畳から少し歩を進めれば、ざらりとした砂を踏む。それは幼い頃に校庭を裸足で歩いた時の感触と似ていた。

 周囲を見渡す。街の姿をしてはいるが、そこに人の気配はない。

「誰かいませんか」

 町家の並びに向かって声をかける。それほど張り上げたわけでもない声が、こだまとなって辺りに響き、消えた。そして訪れる静寂。風もなく、また揺れる草木もここにはない。

 現状を把握するためにもまず、ここがどこであるのかを知る必要がある。けれどそれを知っているであろうこの街の住人は呼びかけに答えることはなかった。しかしそれは果たして、この場所で暮らす者がいないということになるだろうか。廃墟であるなら街の印象は多少なりとも荒み、痛んだ建物があってもいいはずだ。けれどこの街にはそれがない。手入れのされた家屋や道具。まるでつい先ほどまで人がそこにいたような雰囲気すらある。

 しかしこの想像が事実だったとしても、今情報を得る手段がないことには変わりがないのだ。

 とにかく、人を探さなくては。民家を一軒一軒訪ねれば、きっと何かしら手がかりが発見できることだろう。

 

 にゅん。

 かすかに不思議な音がした。

 にゅんにゅんにゅん。

 それはプラスチック製の下敷きをしならせた際に出る音に少し似ていた。

 音は次第に大きくなる。

「な、なんだ?」

 無音の街に突然広がる音に、和彦は狼狽する。出所を探ろうと慌てて周囲にぐるりと視線を巡らせた。

「にゅーん!」

 一際大きな音と共に、それは現れた。白い布をかぶったような、丸みを帯びた猫ほどの大きさの生き物だった。町家と町家のわずかな隙間から、通りを横断するようにそれは移動している。動きながら、にゅんにゅんと鳴いていた。先ほどから聞こえていたのは、この生き物の鳴き声だったのだ。

 それは通りを半分ほど渡った辺りでくるりと背後を振り返り、その小さな身体を揺すってにゅにゅんにゅにゅーん!と高い音程の鳴き声をあげた。するとどうしたことか、それに導かれるように一匹、さらに一匹、続々と同じ姿形の生き物が飛び出してくるではないか。呆然と立ち尽くす和彦を尻目に、あっという間に通りを横断する一条の白い列が完成した。

 白い生き物のマーチは、なかなかに途切れる気配を見せない。行列の周りには土煙すら上がっている。いくら小さな生き物とはいえ、この勢いの上を跳び越すのは勇気のいる所業だ。丁度通りの入口辺りに行列ができたものだから、街にはとても入ることができない。

 しかしこの何とも間の抜けた外見の生物を眺めていたら、なんとなく、特段急がずともいいのではないかという気すら起こる。もう少しだけこの不可思議な生物を観察していたいと、和彦は思い始めていた。非日常の光景に胸が高鳴る。じわじわと、その白い列に対して距離を詰める。和彦の中で失われかけていたものが再び頭をもたげ始めたのだ。

 生き物との距離がわずか数十センチまでに縮まったところで、腰を落とす。目と鼻の先で、それはうごめいていた。確かに生きている。おもちゃ等ではないようだ。毛はない。タコウインナーの形によく似ていた。

「にゅん」

 とん、と足に軽い衝撃。足元に視線を落とすと、他の個体より一回り小さなものが地面に倒れている。列からはじかれてしまったのかもしれない。小さな手足をばたつかせながらも、それは起き上がることができないでいた。

「なにやってんだよ、まったく」

 犬猫のように両手で抱え上げ、地面の上に立たせてやる。すると小さな生物は、嬉しそうにぴょんぴょんと数度跳ねた。身体を覆う布のようなものがひらひらとめくれた。めくれはしたが、その中は見えなかった。

「うーん、これは布なのか?」

 和彦は思わずその布切れのようなものを摘んだ。

「にゅうーん!」

 とたんにそれは悲痛な叫びを浴びた。嫌がるように頭を振っている。面白くなって、摘んだ布を引っ張ってみる。手触りはつるつるとサテン布のようではあるが、光沢はない。身体にくっついているのか、剥がれたりはしないようだ。

 布をかぶったような白い生き物を、これもまた幼い頃にアニメで見た覚えがあった。

「おばきゅうみたいだなあ、お前」

 はははと笑って、それを小突く。にゅぅんと鳴いたその声は、今にも泣き出しそうな苛められっ子のものだ。

「こら、そこの君」

 背後から突如として声が落ちてきた。それは確かに落ちてきたのだ。人の声だった。謎の生き物の鳴き声とは間違えようのない、低く落ち着いた曇りのない男の声。

「ネムネムが嫌がっているよ」

 和彦は慌てて手を離した。ネムネムは――きっとこの生き物の名前なのだろう――短く鳴くと足早に隊列に戻っていく。そしてすぐに他のネムネムに紛れて判らなくなった。

 腰を上げ、すぐさま振り向く。周囲に視線を巡らせるが、人の姿はない。

「とうっ」

 頭上から声が降る。目線を上げた先、鳥居の上に何かがいた。声から数拍遅れて、それは跳んだ。そして驚く間もない速さで、目の前に着地する。

 音もなく降ってきたのは、長身の男だった。目が眩むような朱色の長髪を、ゆるく一本に結っている。身に纏っているのは烏のように黒い着物だ。着流しというのだろうか、胸元が広く開き、なんともだらしない風体の男である。

「やあ、どうもこんにちは。君、ひとり? 天空街は初めて? もしかして緊張してるのかな? さあ肩の力を抜いて、ゆっくり深呼吸してー……。あ、そういえばさっき君が摘んでたのはネムネムっていうんだけど、もういじめないようにね」

 男はおもむろに右手を差し出しながら捲くし立てるように言った。口元にはヘラヘラと締りのない笑みを浮かべている。

「はあ、ええと、すいません」

 勢いに押され、握手に応じる。

「いいよ。素直だね君は。やっぱり声をかけてよかったよ、うん。君みたいな若い男の子がさらわれてくるのは久々だなあ」

 男は握った手を上下に振ってから、離した。

「あの、よく分からないんですけど。それにここ、どこなんです? 日本? 中国? いや、それ以前にもしかしてこれって夢?」

 風体はさておき、男は和彦が探そうとしていたこの街の住人のようだ。そして和彦が目を覚ましてから初めて出会った人間でもある。堰を切ったように和彦の口からは疑問が次々に飛び出した。

「お、何も知らないってことは、君は釣りじいにさらわれてきたんだね。いいねいいね、新鮮だよその反応」

 男は嬉しそうにわっはっはと笑った。笑ったかと思えば、急に表情が締まる。切れ長の目が真っ直ぐに和彦を見つめた。先ほどまでとはまるで別人のようだ。

「僕は門番。名はない、ただの門番だ。天空門を通過するものを見守るのが、僕の役目」

 そう言った男は口元を緩ませる。小さな花が綻ぶような上品な微笑だ。そして続ける。

「ここは空に浮かぶ街。全てが夢のようで現実であり、幻のようで実体がある。ここでは君を縛るものは何もない。君は自由だ。――ようこそ、天空街へ」

 曖昧な言葉だと和彦は思う。説明がなされているようで具体的ではなく、雲を掴むような話だ。けれどなぜかその言葉は和彦の中に自然に入り込む。「ああ、そうなのか」と不思議に合点がいった。

 門番は言い終わると、途端に表情を変えた。初めに見たあの腑抜けた顔だ。

「こういう説明だと格好いいでしょ。ま、君みたいにさらわれてきた人を時々相手することもあるぐらいでね。大抵は、誰か通っても門の上から見ているだけなんだ。僕って結構内気だからさ」

 内気な人間がこうもペラペラ喋るものだろうか。そう思いはするが、あえて触れずにおく。それよりも門番の言葉に気になる部分があった。

「さっきから気になってたんですけど」

「ああ、もっとこう、親しげに話してくれていいよ。僕はただの門番だからね」

 促され、躊躇するも、学校でもないのに堅苦しい話し方をする必要もないかと思い直し、それに従うことにする。

「あー、気になってたんだけどさ、『さらわれた』ってどういうこと?」

「んんー……、そういう質問に答えるのは知恵ウサギの仕事なんだけどね。今いないみたいだし、うん、僕が説明してもいいかな」

 あとで怒られなければいいけど、と門番は付け加える。知恵ウサギがどういうものか和彦はまだ知らないが、門番との力関係だけはなんとなく想像できた。

 そして門番はゆっくりと語り始める。

 

 ――天空街の住人は二種類いる。外からやって来たか、元々この場所に住んでいるか。外部からここを訪れる者はさらに二種類。釣りじいにさらわれたか、そうでないかだ。

 釣りじいは外苑にいる。門から離れられない僕は見たことないけれど。釣りじいは、下から人をよく釣り上げるんだ。もちろん釣り竿で。下というのは君がいたところだね。君のように、目を覚ますと天空街にいたという場合は、釣りじいに釣り上げられたということ。

 あまりにも唐突だから、事態もなにもわからないだろう? そういう人たちを街の中へ案内するのが、知恵ウサギさ。僕はあまり好かれてないみたいで、できればあまり会いたくはないなあ。

 運よく釣りじいのそばに落ちれば釣りじいから知恵ウサギを紹介してもらって、それでおしまい。はれて天空街の仲間入りだ。けれど釣り上げる時に勢いがつきすぎて門の近くや街の中まで飛ばされることもある。君もそうだね。そうなると、ううん、どうするんだろう。僕はここから動けないから、知恵ウサギが来るまでここで待つしかないのかな。僕は門番だから、本当に何も知らないんだ。

 ああ、話が逸れた。釣りじいに釣られたことを、ここでは『さらわれた』というんだね。大概はみんなそうやってここにやってくる。けれど、そうでない者もいる。天空街に入りたいという自らの意志を持って、能動的にここを訪れるんだ。手段は、僕にはちょっとわからない。僕は門番だから。

 

「ここに入る手立てはいくつもある。ただ」

 そこで言葉を区切り、門番は大きく息を吸った。

「ここから出ることは決して出来ない」

「え……」

 門番の言葉に、和彦の口から思わず声が漏れた。

 今すぐにでも帰りたいと思っていたわけではない。ただ、原因や現在地がはっきりすれば、遅からずこの状況から脱することが出来るであろうと心のどこかで考えていた。

「どうして」とは訊けなかった。理由などないのだと、和彦は直感していた。ここでは物象の全てが曖昧ではあるが、そのどれもは確かに『ある』のだと。そう、この曖昧な考えすらも。

 理解こそすれ、感情はすぐにはついてはゆけないものだ。和彦とて例外ではない。言葉が意味を成さずに頭の中でぐるぐると回遊し、ぼんやりと定まらぬ視線で門番を捉える。

 夕焼けに染まったような長い髪が揺れた。和彦の指先に、男の指先が触れた。ほんの一瞬のことだ。

 そして瞬きをする間に、景色が変わる。門番の背後には鳥居ではなく、突き抜けるような青空。雲はほとんどない。二人は大鳥居の上に立っていた。足裏に触れるその表面は温かい。まるで生きているような温度だった。

「なぜ」と尋ねれば「僕は門番だから」と男は言うだろうか。目前の男は少し困ったように微笑んでいる。頬がほのかに赤く染まっているように見えるのは、和彦の気のせいかもしれない。

 視線をゆっくりと街へと移した。それは不可思議な光景だった。街は大きな円形だ。街の中心に近付くにつれ、建造物がより近代的な造りであることがわかる。江戸時代のような平屋からレンガ造りの洋風建築へ。そしてコンクリートの低いビル群へと変わり、都心のような高層ビルの集合体が円の中心にそびえたっている。

 風が吹き抜ける。足元の大通りには人の流れができていた。街のあちこちに、明かりが灯っている。和彦は感じた。ああ、これが天空街なのか。

「既にこの街には君という存在がある」

 横に立つ門番が静かに言った。

 和彦はただじっと、街を眺めていた。

 元の生活に未練などさほど感じていなかったのかもしれない。日々生きることを強制されているかのようだった。

 そう、空ばかり眺める毎日は終わったのだ。束縛するものはなく、他律的に与えられる生を甘んじて受けることもない。まるで雲のような解脱。かつての世界に生きる和彦は完全に死に、そして新たなる世界に受け入れられ再び誕生した。

 街の上、和彦たちの遥か頭上をゆくものがある。キラキラと輝くそれらはまるで宝石のようだ。空を彩る宝石の一粒一粒は、鳥のような姿をしている。あれは羽根魚だと門番が囁いた。

 そのうちにひらりひらりと、和彦の目の前に一本の羽根が落ちてきた。それを指先で摘む。澄んだ朝焼け色の羽根だ。空気のように軽く、けれどもふわふわと柔らかな感触は、幻めいたこの世界を確かに感じさせる。羽根を見て門番は、おおと感嘆の声をあげた。

「それは羽根魚の羽根だ。ほとんどは白色をしている。色や模様のある羽根は珍しいのさ。きっと商人に高く買ってもらえる。しばらくここでの生活に困ることもないだろう」

 門番でもそれくらいは知っているさ。

 そういって男は声を上げて笑った。和彦もつられて笑う。手の内にある羽根が、くすくすと揺れた気がした。くすぐったくなって、羽根に目を落とした。その鮮やかな色彩は、和彦もよく知るものに似ている。

 羽根を門番の眼前に差し出した。

 そして和彦は言う。

「あんたの髪と、同じ色だ」

 それを聞いて、門番は虚を突かれたような表情になる。けれどすぐに口元にだらしない笑みを浮かべた。

「なあに、僕もその羽根の持ち主も、この巨大な天空門を真似ただけさなのさ」

 街の端から、夕暮れに染まり始める。

 群れをなす羽根魚たちが、天空を彩る星々のように輝いていた。

(了)

       
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