君に届かぬ我が調べ

 花畑でワルツでも踊っているような気分だ。

 私の腕の中に、今、織姫がいる。

 あれから宇宙船に乗り込んだ私は、すぐにベガを飛び立った。両手にのせていた織姫は、こぼれてしまわないようにボトルに詰めた。本当なら探査機が採取した石や粒子を入れておくためのものだ。ボトルの中で揺れる織姫に「狭くてすまない」と謝ると、彼女はふふふと不敵に笑うだけだった。

 その微かな笑い声に、思春期の少年のようにどぎまぎとしてしまう。目のやり場に困った私は、ついボトルから視線を逸してしまい、また彼女に笑われるはめになった。

 照れくさい中に僅かな嬉しさが混ざり、視線を合わせないまま私ははにかんだ。

 想像の中の織姫は、天女のような高貴さと上品さを合わせ持つ美女だった。しかし実際私の目の前にいるのは、妖しい銀色の輝きを放つ、艶やかでミステリアスな大人の女。理想と現実、その激しい落差が堪らなく私をそそるのだ。こんな妖艶な女を娶ることができた彦星に、私は初めて羨望の念を抱いていた。

 織姫と共に過ごす船内での時間は、瞬く間に過ぎていく。

 そのほとんどの時間は、私が一方的に話すだけであった。それでも時折織姫が気紛れで相槌を打ってくれ、そうなると俄然私の興奮も高まり、私のワンマントークショウにさらなる熱が入った。

 ああ、天にも昇る心地とはこういうことなのか。

 手を触れることの出来ない銀色のそれを、ボトルの上から人差し指でなぞった。

 丁度その時、私の体が上下に揺れた。スクリーンには黄土の大地が映し出されている。どうやら着地したようだ。

(着いたのね)

 彼女はそう言った。心なしかその声は喜色を帯びている気がした。

 ついに、到着してしまった。アルタイルに。

 無意識に大きな溜息がこぼれた。幼き頃からの望みが今叶おうとしているというのに、霧がかかったように心が晴れないのだ。

 しかし織姫に約束してしまった。彦星の元に届けると。今更気が乗らないなどと言ってぐずるほど、私は子供ではない。

 また私は簡易宇宙服を身に纏った。そして織姫を腕の中に抱える。

(浮かない顔ね。これがあなたの望みなのでしょう?)

 私の思考を見透かしたように、織姫の声がした。耳元で囁かれたように、甘く蕩けるメロディだった。

「……ああ、そうさ」

 意を決して、私はアルタイルの地に足を下ろした。

 それはすぐに見つかった。

 我々を待ち構えるかのように、宇宙船の目の前に、金色の水溜りがあった。それが彦星であることは明白だ。ぞろりとアメーバのように、彦星はこちらに私に近付いてきた。

(君か、君なのか)

 野牛のように低くざらついた嫌な声だ。これが彦星の声だというのか。

(そうよ。私よ。あなたは、あなたなのね)

 それに答える清浄なる声色の織姫。

 本当に、この二人は夫婦なのか。絵本での彦星は、それはそれは美男子に描かれていたものだが、実際はどうだ。ギラギラといやらしい金色の輝きは、まるでその心の内に秘めた下品な下心そのものではないか。織姫に相応しいとは、私はまったく思えない。

 彼女が今後永遠にこの男と一緒に過ごす――それでいいのか? それが私の望みだったのか? 私が心の底から願っていたのは何だ? それは単に彼女が愛する者のそばで永遠に過ごすことか? いや違う。私の一番の願いは、彼女が幸せになることだ。夫婦共に過ごせることが、彼女の幸せだと私は思っていた。だがそれは違ったのだ。この男と一緒にいたって、織姫は永遠に幸せになんてなれやしない。そうだ、この男のもとに彼女を戻してはいけない。

「駄目だ! 行かせない!」

 私は手にしていたボトルを、ギュッと強く胸に抱いた。

(早く出して頂戴。あなたの望みは、これで叶うのでしょう)

 ボトルの中で織姫が激しく身体を揺する。

「私の望みは、君の幸せだ。織姫、行ってはいけない。その男じゃあ、君を幸せになんか出来ないんだ」

(彼女を放せ! 放せ! 放せ!)

 織姫を渡してはいけない。決してこの男に渡してはいけない。

 頭の中でその言葉を呪詛のように繰り返す。

 汚らしい金色の粘液は跳んだ。弧を描き、私めがけて落ちてくる。

「織姫、君を離したくない!」

 とっさに私はボトルの蓋を開けた。そしてそのままそれに口をつける。

(やめろおおおおお!)

 私の行動の意図に気付いたのか、彦星は声の限り叫んだ。脳内で不快な音が響く。

 それを振り払うように、私は喉の奥へとボトルの中身を一気に流し込んだ。

(無駄な足掻きね)

 織姫の呟きがぽつりと耳に届いたが、それは彼女のすべてが私の体内に取り込まれた後だった。

 じわりと腹の中が熱くなる。

 これが織姫の温度なのだ。

 そう考えただけで、下半身に熱が集まった。

 彦星は私の背にまとわりつき、声にならぬ雄叫びを上げている。

 織姫はこのまま血となり肉となり、私と共に永遠に生き続けるだろう。彦星では織姫と不釣合いだ。何年も、何十年も彼女のことをずっと想い続けてきた私こそが、伴侶として相応しい存在なのだ。

 体内に愛しい織姫の存在を感じ、恍惚とする。口の端からは、だらしなくよだれがこぼれた。

(返せ、彼女を返せ)

 ずるりと不愉快な感触をもって私の体を彦星が這う。それは金色の巨大なナメクジのように見えた。彼は私の背から腹へ移り、ゆっくりと胸へ、そして首元へ到達する。金色の粘液が触れた部分は、電気を通したようにびりびりと痺れていた。

(愛しい君よ。今そちらに)

 それは一瞬のことで、止める余地はなかった。否、彦星との接触で麻痺した身体は動かすことができなかったのだ。

 私の身体に絡み付いていた金色のそれは、まるで吸引されるように私の口の中に滑り込んだ。

 腹の中に新たな熱が宿る。それは彦星だ。

「ぎやぁあああああ!」

 異物を受け入れた私の身体には、全身にプツプツと赤い発疹が現れている。

 慌てて服をめくり、腹を掻きむしり、殴った。痛みよりも、とにかくあの汚らわしい雄牛を体内から吐き出したかった。指を口の中に入れ、無理やり嘔吐しても出てくるのは胃液だけだ。

 そのうちに、外から見ても分かるほどに腹の中を暴れるものがあった。腹を内側から押し上げ、それらはぐるぐると回っているようだった。

 ひとしきり暴れた後、私の腹は妊婦のように膨れ上がった。爆発のような衝撃を内に感じる。そして腹はすぐに元の大きさに戻った。

 背中に冷たいものが伝う。

 これは性交だ。

 気付くと同時に嘔吐していた。しかしやはり吐き出されるのは酸いものだけだ。

 そして怒りが込み上げた。

 あいつは奪った。私から織姫を奪った。幼い頃絵本で見たときから、織姫は私の伴侶になるべき運命だったのに。それを邪魔した。あの汚らわしい男が。許さない。殺す、殺してやる。

 私は宇宙船に駆け込み、鋏を取り出した。ケーブルの切断に使われるもので、文具鋏の倍の大きさがある。それを手に、また私はアルタイルの大地を踏んだ。

「織姫、今助けるから」

 私は自らの腹に向かって、微笑みかけた。

 そして一気に鋏を突き立てた。何度も何度も腹めがけて振り下ろす。

「死ね! 彦星死ね!」

 呪いをかけるようにそう声を上げながら、私はひたすら自分の腹を裂いた。何故か血は出ず、傷口からはさらさらと砂のようのものがこぼれ落ちた。

 その砂は煌いていた。銀色に、そして金色に。

 風もないのに、砂が舞い上がる。真っ暗な宇宙空間に吸い寄せられるように。

 私はただそれを呆然と見ていた。

 やがてその砂は、暗い空に巨大な川を形成した。天の川だ。天の川は外見はただの光の帯であるが、その実はひとつの銀河だ。つまり私が見ているこの光景は、新たなる銀河の誕生――織姫と彦星による星産みなのだ。

 星産みが終わった後、私の腹から眩く輝く金と銀の発光体が真っ直ぐ上に飛んだ。織姫と彦星だ。彼らは私の遥か頭上でじゃれあっている。

 私の頬に涙が伝う。

 そのうちに銀色の光は弾かれるように飛び、宇宙の闇に消えていった。金の光はそれを見送ってから、急降下した。重い音と共に土煙があがる。地表に小さなクレーターができ、中心には彦星の姿があった。勝ち誇ったような表情を浮かべているのが、私には分かった。

 天に彼らが引き裂かれた――そもそも、それが間違っていたのだ。織姫と彦星は、天に選ばれた星産みの夫婦だった。彼らは年に一度情愛を交わし、銀河を、宇宙を産んでいたのだ。

 そんな二人の間に、私が割って入れるはずもない。

 私の目は、壊れたように涙を流し続けている。

 砂が出きった腹からは、かわりに血が溢れていた。

 身体が傾き、黄土の大地に私は倒れた。

 空には産まれたばかりの銀河が輝いている。

 私の口からは乾いた笑いが漏れた。

 私が間違っていたのか? 織姫を救いたいなんて、子供の頃抱いた他愛もない夢のせいで、一生を棒に振ってしまったのだろうか?

 視界が徐々に白む。頭の中からピアノの旋律が溢れだした。リストの〈愛の夢・第三番〉だ。

 ――愛しうる限り愛せ。

 第三番の副題をふと思い出す。

 ああ、そうか。私が本当に望んでいたのは、織姫を悲劇の縁から救うことでも、彦星との仲を引き裂くことでもない。

 幼い頃から想い焦がれた女性に、この秘めたる想いを伝えることこそが、私の真の望みだったのだ。穏やかな愛の調べが、ようやく私にそれを気付かせてくれた。

 想いを伝えても、彼女が私を受け入れてくれることはないだろう。

 けれど、それでいい。私では彼女を幸せにすることなどできないと、知ってしまったから。

 ここまでなんと長い年月を要してしまったのか。愚かな私をどうか嘲り笑ってくれ、織姫。

「織姫……君のことが、ずっと好きだった」

 夜明けの瞬間のように真っ白に染まる世界の中で、私の最期の呟きは、露のように落ちて消えた。

(了)

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