君に届かぬ我が調べ
天は無慈悲で、そして残酷だ。
そもそも天とは何であるのか。神か、はたまた世界の創造主であろうか。どちらにしてもそれはとても曖昧で不確かな存在である。
私は許せなかった。
そんな不確定な存在に、一組の夫婦が引き離されているという事実を。
織姫と彦星。彼女らは互いを激しく求め、愛し合っているというのに、天は二人の間を天の川をもって引き裂いた。一度は結婚を許したにもかかわらず、だ。
何たる悲劇であろうか。これほどの不幸があっていいものなのか。
まだ幼かった私は怒りに震えるあまり、天の川伝説の描かれた絵本をビリビリに破ってしまった。
そして誓ったのだ。自らの手で織姫を救うと。
私はただその一心で、これまでひたすらに準備を重ねてきたのだ。
***
梅雨の季節には珍しい、さらりとした肌触りの風が頬を撫でた。草木の揺れる音が耳に心地良い。
天頂に輝く満月の光ですべてが照らし出される神々しい夜だ。
広い草原の丁度中心に、私は立っている。雄雄しく鎮座する巨大な〈それ〉を見上げ、胸中は高揚感と達成感で満たされていた。
〈それ〉は月光を浴びて美しいフォルムをまざまざと私に見せつけてくる。流線型という言葉で表すと誤解を生むであろうその形状は、古くからこの国に伝わる精霊馬を模したものだ。
精霊馬といえば聞こえはいいが、つまるところ〈それ〉は巨大な茄子である。つやつやと輝く丸みを帯びたボディに四本の金属製の足が刺さっている。一見ただの茄子ではあるが、しかし実のところ〈それ〉は最新型の宇宙船なのだ。開発・設計・製造すべてにおいて私が指揮をとり、先日ついに完成した。
見てくれは巨大な精霊馬だが、そんな外見からは想像できないほどに性能は高い。私が長年開発してきた超引力性宇宙空間ワープ機能を搭載しており、これまで誰も辿り着くことが出来なかった星々への着陸が可能となった。しかしながら、この機能には問題もある。燃料が許す限り宇宙空間を移動できるが、地球からはあまりにも離れすぎてしまうため往復航行は難しいのだ。それ故、この宇宙船は探査ロボットを搭載し無人航行を行う予定になっている。――計画の上では。
私はハナから、無人航行などするつもりはない。私にとっては、宇宙への片道切符が手に入ればそれで十分だったのだ。
この宇宙船に乗って、私は織姫を救いに行く。
幼い日の想いを叶える時が、ようやく来たのだ。
拳を握り締める。伸びた爪が掌を刺す痛みで、高ぶる興奮を何とか抑えた。
強い風が私の背を押す。早く行けと急かされているようで、思わず苦笑する。
ああ、行くさ。私は行く。織姫を救うために。
風に押されるままに大地を蹴る。
宇宙船に架けた梯子を一段飛ばしで駆け上り、茄子のヘタ型のハッチを勢いよく跳ね上げた。
真っ暗な内部へと、頭から滑り込む。
わずかに射し込む月明かりを頼りに、壁面に据えられたコンソールにリズミカルに指を走らせる。ピアニストのように軽やかな十指の舞踏。しかし耳に届くのはシューベルトの〈セレナーデ〉ではなく、夜の街で働く女のように素っ気のない電子音だ。ピコピコと玩具のような音と共に狭い船内に明かりが灯り、ハッチが閉まった。
腹ばいになった姿勢のままで多少苦しくはあるが、もともと有人航行用の造りではないため仕方がない。
外部モニタ表示をオンにする。目の前の小さなスクリーンに、先ほどまで私が立っていた草原が映った。そしてその右下に、白色LEDのデジタル数字で示された時刻が浮かんだ。
《2135/07/06/23:47JP》
明日は、きっと私にとって忘れることの出来ない日になるであろう。
人差し指でエンジン点火スイッチに触れる。慈しむようにスイッチの縁を撫で、ゆっくりとだが力強くその中心を押した。
ゴゴゴゴと地を震わせる轟音が響き始める。
船内に備え付けられた探査ロボット固定用のベルトを、しっかりと身体に巻きつけた。設計上、この宇宙船は茄子のヘタ部分を上にして飛ぶ。つまり中に入っている私は逆さまの体勢で離陸しなければならないのだ。だから身体の固定はしっかりと行っておかなくてはいけない。
エンジンの燃える音に混じってウィンウィンとモーター音が聞こえる。精霊馬の四本の足を収納しているのだ。足はもちろんマッチ棒などで出来ているわけではない。超弾性合金で作られたそれらは、どのような星の地表にもうまく着陸できるように設計されている。
スクリーンに大きく数字が映し出される。
《30》
《29》
《28》
発射までのカウントダウンが始まった。
宇宙船を固定していた台座が向きを変え始める。腹ばいだった私の姿勢が、次第に逆立ち状態になっていく。
胸が早鐘を打っている。
《15》
《14》
さらば我が祖国、そして母なる地球よ。
二度と戻れないと分かっていても、私は行かねばならぬのだ。……彼女のために。
《9》
カウントダウンの数字の下に映る外部モニタの映像に、小さな人影が見えた。私と共にこの宇宙船を開発していた技術者たちだ。
ああ、彼らには申し訳ないことをしてしまった。宇宙開拓のためと銘打って始めた開発計画だったが、実際は私の目的を達するために行っていたのだから。
《5》
けれど彼らは一生理解することはないだろう。
私の人生をかけた、崇高なこの計画を。
《3》
《2》
「さようなら、みんな」
《0》
故郷との決別の言葉は、激しいエンジンの噴出音に飲まれて消えた。
私が目を覚ました時には、既に地球は見えなくなっていた。
頭が痛む。
恐らく、身体にかかった大きな重力で気を失ってしまったのであろう。
巨大な精霊馬は、ゆらゆらと漂うように、だが確かなスピードをもって飛んでいた。
スクリーンに映し出されているのは目が眩むほどの暗黒。その中で金や銀、青や赤、そして白に光る無数の星が、世界を彩るように煌いている。
時刻を確認すると、既に日付をまたいでいた。
七月七日、今日は七夕だ。
七夕の日の夜、織姫はカササギの架けた橋で天の川を渡る。
けれどそれでは駄目だ。
カササギは天の意志であり、そのカササギが架けた橋を渡ることは、天の意志に屈するということに他ならないからだ。
だから織姫に、橋を渡らせない。私が自ら、彼女を彦星の元に直接送り届ける。
スクリーンに映し出された星がぶれたように歪む。超引力ワープが始まったのだ。三度のワープの末、この宇宙船は織姫のいるベガへと到着する手筈だ。航行プログラムは、設計の段階で組み込んである。もちろんこれも他の開発者には秘密だった。
そう、私は長い年月をかけてこの計画を進めてきたが、これまで誰にもその本意を漏らしたことはないのだ。
宇宙開発に携わるために勉強を始めた時も、とても織姫のために宇宙へ行きたいからなんて親には話せなかった。きっと話しても理解を得られることはないだろうと、幼い私は考えたのだ。
話したが最後、頭がおかしくなってしまったと嘆かれ、窓もない真っ白に塗りたくられた小部屋に閉じ込められるに決まっている。そんなことになってしまっては、私は目的を成すことが出来なくなってしまう。だから両親には最後まで真意を語ることはなかった。
成人し、研究に打ち込むうちに親族はおろか両親とも疎遠になり、二年前に父が、そして数ヶ月前に母が亡くなったことを知らせるハガキだけが、遠い親戚から届いた。しかしそのハガキすら、よくは読んでいない。ほとんど帰らない家のどこかに、無造作に放置されているはずだ。
こんな私だからもちろん、結婚もしていないし恋人もいたことがない。愛しい者に自らの遺伝子を引き継ぐ子を産んでもらい、帰るべき家を守って欲しいと思ったことなど一度もなかった。私の頭の中は、常に織姫のことでいっぱいだった。彼女を早く残酷な運命から解き放ちたい。その想いばかりが私の心を支配し、支えていたのだ。
同僚からは、五十も近い身でありながら独身を貫く姿勢をからかわれたり、同性愛者じゃないのかと陰口を叩かれることもあった。しかし私は、そんな低俗な思考の持ち主に関わりあうような無駄な時間は持ち合わせていなかった。なにせ、この命が尽きぬうちに、織姫を救い出すための技術を確立させなければならなかったからだ。
反論など一切しない。ただ黙々とひとりで研究を続けた。そして今、ようやく計画の実行にこぎつけたのだ。
過去を振り返るうちに、私の口からはくすくすと笑いが漏れていた。
可笑しくてしかたがなかったのだ。
私に白い目を向けていた彼らが、知らず知らずのうちに、その私の計画に加担することになっていたのだから。
これが笑わずにいられるだろうか。
そう思うと段々と笑いが大きくなっていく。
無音の宇宙空間で、たったひとりの哄笑が渦巻いている。
ひぃひぃと引きつるほど笑い、ようやく波は収まった。
そして今度は大きな欠伸がでる。まるで子供だ。
《2135/07/07/03:02JP》
時刻を見やれば、なるほど深夜なのだから眠くなって当然だった。
ベガへの到着予定時刻まではまだ数時間もある。
体力温存のためにも、私は少し眠ることにした。
目を閉じれば、眠りの国はすぐそこに門扉を構えていた。
温かな腕に抱かれるようなまどろみの中で、そういえば先ほどまで気を失っていたことを思い出す。
――気絶は、眠ったうちにはいらないのさ。
ドォンという衝撃で、私は目覚めた。口元に伝っていたよだれを、誰に見られるわけでもないのに慌てて袖で拭う。
スクリーンに映し出されていたのは、赤茶けた乾いた大地だ。
眠っている間に、ベガに到着したようだった。
うっかり寝過ごしてしまうとは、とんだ失態だ。
宇宙航行で一番大事なのは、着陸時だというのに、それを見逃してしまうだなんて。
寝癖のついた頭を、ぼりぼりと掻く。そして両手で顔を挟み込むように叩いた。
うじうじと考えている場合ではない。とにかく無事ベガに辿り着けたのだから良しとしなければ。
ここからが大変だ。何せこの広大な大地の中から、織姫を探し出さないといけないのだから。
船内にある収納ハッチを開き、私は一本のスプレーを取り出した。〈簡易宇宙服〉とラベルの付いたそれを、息を止めて全身に噴射する。濃縮空気を特殊な保護膜で覆い、それを身体に纏うことで、かつて人類が利用していた大掛かりな宇宙服を身に付けずとも宇宙空間に出ることが可能なのだ。
内部保護障壁を作動させる。船内の中ほどに壁が出来、それと外部口ハッチの間の狭い空間で私は身体を縮めている。
茄子のヘタを内部から開け放ち、ぱかりという間抜けな音と共に私はベガの大地の上に降り立った。
眼前に広がるのは凹凸の少ない荒野だ。
歩を進めるたびに、砂煙が舞い上がる。
簡易宇宙服で緩和はされるが、それでも少し気温が高すぎるようだった。じわりじわりと、額に汗が滲んでいる。
「織姫! 織姫、君を助けに来た!」
声を上げながら私は荒れた大地を彷徨った。
時折背後を振り返る。
茄子の馬が寂しそうにぽつんと佇んでいた。実物より随分小さく見えている。気付かぬうちにそれほど遠くまで歩いてきたのだ。
宇宙船が視界に入らなくなると、自らのいる場所を見失ってしまうことになる。
そうならないように、私は慎重に歩き続けた。
寝過ごしたため慌てすぎて、あろうことか時計を船内に忘れてきてしまった。七夕が終わるまでに織姫を探し出し、さらには彦星の元へ送らなければならないため、時間に余裕がないというのに。
「君を救いたいんだ! 出てきてくれ織姫! 私と共に彦星の元へ行こう!」
足を止めて、声の限り叫ぶ。
探していても、埒があかない。ベガはあまりにも広すぎた。そして私の考えも甘すぎた。ここまで辿り着ければ何とかなると思っていた。
けれど胸に秘めたこの想いだけは本物なのだ。もしこの地で私の命が尽きることになろうとも、私の想いだけは彼女に伝えたかった。
だから、私は叫んだ。
「お願いだ、織姫! 一緒に行こう、アルタイルへ!」
頭の芯が痺れるような感覚。恐らく酸欠だ。無理もない。簡易宇宙服に含まれる空気量にも限度がある。
大地が陽炎のように揺らめいた。
ああ、こんなところで私は終わるのか?
長年積み重ねてきた努力も空しく、志半ばで果ててしまうのか?
赤茶けた大地。歪む視界。その中に煌く銀。
――銀色の輝き。
遠のきかけた意識が覚醒する。
ふらつく足で、その銀色の何かに近寄っていく。
それはまるで水銀のようだった。銀色の水溜りが、ぽつんとそこにあった。
「これは……?」
恐る恐る指で触れる。チリリと弱い電流が流れたような刺激がある。
(私を呼ぶのはあなた?)
ハープのように清らかな声が私の脳内に直接響いた。
〈月光ソナタ〉の第一・第二楽章をすっ飛ばして、第三楽章を聞かされたような衝撃だ。かの有名なベートーベンが、私の心臓をピアノ代わりに演奏しているかの如く鼓動が早まる。
織姫が私に答えてくれたのだ。すぐに現状を理解した。
つまりこの水銀のような粘液は、織姫なのだ。
「ずっと、ずっとこの日を待ち焦がれていたよ、織姫。私は君を迎えに来たんだ」
(迎え……。あなたは今年のカササギなのかしら)
「いいや、私は違う。天の使いではない。私はただ君を救いたいだけだ」
(救う? 何から? あなたは一体何から私を救うというの?)
「残酷な運命の輪から」
答えはない。織姫はその銀色の身体を時折うねらせるだけだった。
無言を了承と勝手に受け取り、私は彼女の体を両手で掬った。織姫の答えを待っている時間はない。こうしている間にも、七夕は終わっていくのだ。
「助ける。絶対に君を助けるから」
そう言って、私は大地を蹴った。息が苦しい。宇宙服の残留空気が残りわずかになっているのだ。力を振り絞って駆ける。
(好きにするといいわ)
宇宙船まであとわずかのところで、織姫が囁くような声で言った。
「ありがとう」
その言葉を発すると同時に、私は織姫と共に巨大茄子へ頭から飛び込んだ。
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