星空の彼方の母なる星よ

 西暦2315年、人類は地球を捨てた。

 月面に幾多のコロニーを築き、そこへと移住したのだ。

 それから更に300年経った今では、その理由を知る者は誰もいない。

 歴史書によれば、放射能汚染説が有力とされているが、その他にも急激な気候の変化による世界的大飢饉が原因だとか、宇宙人の襲来で地球外に追いやられたなんて荒唐無稽な説もある。

 調査するにしても、資料という資料が地球に置き去りにされたままなのだから、それも出来ない。

 我々はただ想像することしか出来なかった。

 荒涼とした月面から、星空の向こうに輝く青い惑星を眺めながら。

* * *

『第102コロニー・3人失踪、また帰巣病か?』

 夕刊新聞の見出しにはそうあった。

 記事は潰れそうなほど小さな文字で、1人の学者と2人の整備士が突如姿を消した旨を、ウンザリするほど長い文章で伝えていた。

 帰巣病失踪者は、今年に入ってもう何人になるだろうか。数えているのは新聞記者や医者ぐらいのものだろう。

 一般民は『またか』程度の認識で、『自分には関係のない世界の話だ』と日常会話の話題にすらなりえない。

 ――帰巣病。

 一般的には地球の歴史を研究する学者や、コロニー外での作業にあたる者が罹患するとされている。初期症状としては、地球に対する強度の憧憬・妄想だ。

 しかし大概は、誰でも持ちうる些細な興味から始まることが多い。

 なぜ地球はああも青く、美しいのだろう。

 地球とは、どういう場所なのだろう。

 それが徐々に、人類が本来在るべき地球に帰らなければという強迫観念に発展し、実行に至る。こうして新聞に載っていたような失踪者となる。恐らくは何らかの手段を用いて月面を飛び出し、勿論地球に辿りつくことも出来ず、無念にも宇宙空間のどこかで息絶え漂っていることだろう。また実行に至れなかった患者は、誇大妄想にとりつかれ、精神に異常をきたした後死亡していく。

 つまり帰巣病とは罹れば最後、死亡率100パーセントの恐ろしい病ということだ。

 私は、夕刊新聞の記事が表示されたままの液晶端末をそのままテーブルに置いた。

 作業員IDパスを首から下げ、移動用小型ジェットボックスのバンドに腕を通して背負う。

 扉の前に立つと、ドアがゆっくりと開く。薄暗い。コロニーの中は夜だった。人工の太陽は消え、コロニー全体を覆う内壁には星空と地球を映写している。

 コロニー内部の地面は舗装されていて、本来の月面のような荒々しい岩肌は見えない。

 舗道を歩く。私の居住地からコロニーの端までは、幸いなことに近い。頭上に映る偽物の地球を眺めながら歩いていけば、すぐに目的の場所へと到着した。

 コロニーの内壁に、大きな金属製のドアがはめ込まれている。ドアの横には小さなカードスリット。赤いランプが点灯している。私は首から下げたIDパスを、そこへ滑り込ませた。ピピッと軽い電子音と共に、ドアが軋む。見た目とは裏腹にすばやく左にスライドした。ドアの先へと足を踏み入れれば、それはすぐに元のように閉まっていった。

 ここからは旧式の丸ノブドアが続く。

 ノブに手をかけ、捻る。がちゃりとした手応え。ドアが開く。中に入り、そして後ろ手にドアを閉める。目の前にはまた、新たなドアがある。

 何度かそれを繰り返すと、広いドーム状の空間が現れる。コロニー外作業者の倉庫だ。作業用の宇宙服や細かい道具が収められた棚が、所狭しと並んでいる。

 私は背負っていたジェットボックスを下ろし、身に着けていた衣服を脱ぎ捨て、素肌の上から宇宙服を着込んだ。分厚い生地がペタペタと肌にまとわりつく。頭部まで覆う宇宙服の上から、酸素ボンベを背負い、チューブを接続する。服の内部が酸素で満たされ、私はそれを深く吸い、そして吐いた。

 コロニーで吸っているのと同じ、人工の酸素だ。

 地球には人工的に生成せずとも、十分な酸素で満ち満ちているとどこかで聞いた。

 ――それは、人工のものとどう違うのだろう。

 地球には塩辛い水を多量に湛えた海というものがあり、さらに自然に生えた木が集まって出来た森があり、それらから酸素は当たり前のように発生しているらしい。その新鮮な酸素の中で、人間だけでなく多種多様な生物が生きていたという。

 こうも聞いた。海は青く、森は緑色をしているのだと。

 私は酸素ボンベの上からジェットボックスを背負いなおし、倉庫を出た。ドアを更にふたつくぐれば、人工の酸素も人工の重力もない月面へと出る。

 ドン、と背後でドアが閉まる音がした気がした。いや、音はしなかったかもしれない。ただその衝撃を感じたのかもしれない。

 身体が軽い。地面を踏み出せば、ふんわりと足が浮いてゆっくりと落ちた。

 所々が窪んだ、荒れた土地が眼前に広がる。そしてその向こうには闇。吸い込まれそうな漆黒。それを際立たせるかのように輝く小さな無数の星々。そして星空の中心には、母なる青い星が鎮座している。鮮やかな、目が眩むほどの青さだ。そして緑。弾けるような命の力を、そこからは感じた。視界に飛び込んできた鮮烈なコントラストに懐かしさすら覚えるのは、地球こそが、私の在るべき場所だからであろう。万感の思いに胸が震え、溜息がこぼれた。

 あの眩しい青が、海だろう。

 そしてあの鮮やかな緑が、森だろう。

「地球よ、ああ、待っていておくれ」

 私は思わず、そう口に出していた。

 日々の職務の最中、地球を目にすることはよくあった。

 けれど今からそこへ行くのだと思うと、普段とは違い、愉悦と達成感に満ち溢れていた。

 後ろ手にジェットボックスのパネルに触れる。仕事で毎日使うものだから、慣れたものだ。

 ジェットボックスは本来、月面での移動補助に使用される。噴射力も弱く設定されているものがほとんどだ。

 私が背負っているものは、噴射力を強めるように改造を施してある特別製――勿論私が手を加えた。

 パネルを操作する。ジェットボックスに電源が入り、エンジンが動き始めた。

 コロニーを背に、私は歩き始めた。振り返ることはしなかった。それは必要なかった。後悔や恐れなどない。これから始まるのは、母なる地球への回帰なのだ。

 一歩、大きく踏み出した。月面を強く蹴る。身体が大きく浮いた。すかさずジェットボックスの噴射スイッチを入れる。出力最大。まきおこった土煙が私を包み込んだ。ぎゅっと目をつむる。

 再び目を開けると、私は既に宇宙空間に放り出され、ふわふわと頼りなく漂っていた。

 身体を捻って背後を振り返れば、星空の中に白くでこぼこと歪な形をした球体が浮かんでいた。

 それは外から見る、初めての月だった。今まで立っていた場所があの月の上だと思うと、何とも不思議な気分だ。そして同時に嬉しくもなる。

 星空の中に月が見えるこの光景は、私が紛れもなく地球に近づいているということになるからだ。かつて地球で暮らしていた人類と、同じ景色を私は見ている。

 星空の彼方に遠ざかっていく月。

 母親の腕に包み込まれたような心地の良い浮遊感に、ゆっくりと目を閉じる。

 次に目を覚ますときは、きっと、私が地球の大地を踏みしめる時だ。

 ぼんやりとした頭の片隅でそう確信しながら、私は穏やかな眠りについた。

(了)

       
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