胡桃割人形

大事な大事な私の人形。

大きく大きくお口を開けて。

小さな小さな胡桃を咥えて。

そぉれ、いちにいの。

さん。

* * *

 小さな町の、秋の夕暮れ。傾きゆく真っ赤な太陽が、少女の影を大きく映しだす。恐ろしいくらいに長く伸びたそれは、まるで闇色の怪物だった。

 しかし怪物に後を追われながらも、少女は上機嫌に街路を行く。彼女の頭はただ、今晩の食事のことでいっぱいだった。

 昨日はパンにシチューだったから、今日は久々にお魚でも食べたいわ。

 なんて、そんなことを考えながら歩く見慣れた道。しかしそこにふと、ひとつの違和感が存在している。

 食事のことで埋め尽くされた頭にも、それはしっかりと認識された。……やや遅くはあったが。

「なにかしら……、ここは」

 連れ立つ者もいないのに、思わず声に出してしまう。それほどにその存在は不可思議なものであったのだ。

 ここは本当に小さな町で、住む者は皆、知人親戚。知らない道などありはしないし、知らない場所もない。しかしそれは、少女がこの町の中で初めて目にするものだった。

『アイーシャの人形館』

 小さな木彫りの薄汚れた看板には、擦れた字でそう書かれている。

 その名前に心当たりなど、ない。見るからに怪しく胡散臭い場所だったが、少女がそれに好奇心を抱くことは必然だった。

 少女は年の頃十二、三。少しずつ思春期へと向かっていく微妙な時期だが、それでもまだ子供のように、人形や甘いお菓子から興味を失わない。

 すべて知り尽くしたはずの場所の、全く知らない場所。それに対して脳は危険信号を発するのだが、少女は好奇心に打ち勝てず、重い扉を押し開いた。

 ――少しだけなら、寄り道したって大丈夫よね。

 日が完全に落ちるまで、まだ暫し時はある。

 そう自分に言いきかせて、さらに大きくなった闇色の怪物を扉で断ち切った。

 中は、思ったより綺麗に整頓されていて、壁際に並ぶ棚には、少女が期待していた物が居心地良さそうに鎮座していた。

 少女の住む国の、伝統的な手法で作られた人形をはじめ、見たこともない髪の色のものや、ブリキで出来たもの、さらには本物の子供そっくりに作られたものなど様々な人形が、訪れた客人に視線を向けている。

 想像以上の光景に、思わず溜息をついた。

 憧れの人形がこんなにもたくさんあるなんて。

 好奇心はさらにかきたてられ、人形のほうへ歩み寄る。

 これだけ揃えば、どことなく不気味さを感じさせるが、今の少女はそんなことも気にならない。

 ただただ、それらをもっとよく見たくて、部屋の奥へと進んだ。人形以外の、もうひとつの視線に気づくことなく。

「いらっしゃいませ。ようこそ、人形館へ」

 並べられた中でも一際大きな人形が、少女に向かって言った。――いや、それは人形ではなく、人だった。

 確かに、誰もいなかったのに……。

 少女は、心にかかったもやのような、ほんのわずかな恐怖を、少し考えてから払拭した。

 それまでなかったものが突然現れるなんて、有り得るはずがない。そう、きっと単に自分が彼女の存在に気づけなかっただけなのだ。

 必死に自分に言いきかせる。

「あ、あの、勝手にお邪魔しちゃって……ごめんなさい」

 館の主へ向かって、会釈。

 とはいえ、看板が掛かった店に入っただけだから、客である少女が謝る必要など何もないのだが、店主に気づかなかったことも相まって、ついつい深く頭が下がってしまう。

 そんな少女の様子に、女は笑った――ようだった。頭を下げた少女のからは、その表情を窺い知ることはできない。だから女が、冷たく生気のない、人形のような微笑を浮べていたことなど、知る由もないのだ。

「いいのよ、ここは人形館ですもの。わたしは店主のアイーシャ。どうぞ、頭をお上げになって」

 促されるまま顔をあげる。

 そして真っ先に少女の目に飛び込んできたのは、葬送の黒衣。次いで長い黒髪。人と判っていつつも、実の所は精巧なツクリモノではないのかと疑ってしまう。

「あなた、本当に人形が好きなのね。随分と熱心に見ているものだから、なかなか声をかけられなくって」

 薔薇色の唇が柔らかに言葉を紡ぎ、微笑を浮べた。

 それに、少女は安堵する。

 こんなふうにやさしく笑うことの出来る人が、人形であるはずがない――そう考えたのだ。

「ここにある人形が、あまりにも素晴らしくて……。だってこんな高価なもの、なかなか目にすることが出来ないのだもの」

 一般的に人形は子供のおもちゃとして扱われるが、それはブリキや布で造られたもののみで、『玩具』でしかない。鑑賞用として職人が魂を込めて造る人形は大抵、素材を玻璃やセルロイドに限定しており、服は上等な絹で仕立てられている。もちろん一般人には手に入れることが出来ないほど高価だ。さらには造られる数も少ない故、人形一体を目にすることすら珍しい。

 そのようなものが、部屋いっぱいに。

 少女でなくとも、この貧しい村に住む誰しもが、この光景を見れば興奮を抑えきれないことだろう。

「ふふ、そんなに気に入ったの?」

「もちろんです!」

 アイーシャの問いに、少女は間髪いれずに答えた。

「そう、じゃあ……」

 くるりと踵を返し、アイーシャは人形部屋の奥を示した。その先には、黒い扉が見える。まるで人形で隠してあるような、奇妙な位置だった。

 しかし少女は、そのことに何の疑問も抱かない。その先に、もっと素敵な空間が用意されていると期待したからだ。

「こちらの部屋にいらっしゃい。とっておきを見せてあげる」

 期待していた通りの言葉に、少女は喜びを隠しきれない。満面の笑みで、部屋の奥へと向かった。

 その扉は長く使われていなかったようで、店主がノブを押すと、今にも壊れそうな悲鳴をあげる。開け放たれた扉の奥には、薄暗く湿った空間が広がっているようだった。

 まず店主が扉をくぐり、次いで少女が中へと踏み入れる。

 扉は普通のものより若干小さいようで、そこを通り抜けるには少し膝を曲げなければいけなかった。

 中はやはり、暗い。壁にかけられた幾つかの蝋燭の明かりだけが頼りだ。

 その薄ぼんやりとした視界の中に、黒い影が一つ。部屋の中央を陣取っているそれは、少女よりも大きい。しかし微動だにしないので、生き物ではないのだと少女は悟った。

「あの……、とっておきってこれのことですか?」

 先ほどのものよりも素晴らしい人形があると思い込んでいた少女には、女のいう『とっておき』はとてもつまらないものだった。

 部屋の中央に置かれたその人形は、ただ大きいだけの胡桃割人形。おかしな兵隊の格好をして、胡桃を割るには大きすぎる口を開いて少女を威圧している。

「そう、これはとても素晴らしい人形なのよ。さあもっと近づいて、よおくご覧になって」

 期待していただけに少女の落胆は大きく、とてもこんな玩具を見る気なんておきなかった。

 けれど、この店主の手前そういうわけにもいかず、しぶしぶといった様子で少女はそれに近づいた。

 木ではなく鉄製のそれは、確かに珍しいものかもしれない。よく見れば、細かな装飾も綺麗に施されていて、腰に下げている銃剣はどうやら本物のようだ。

 最初は全く興味を抱いていなかった少女も、これには驚いた。

 人が持つには多すぎるその銃剣は、明らかに特別製であることがわかる。

「どうかしら、この人形」

 女に訊かれ、

「とても……面白いですね、これ」

という答えが、口をついて出る。これは少女の本音だった。

 最初は少し薄気味の悪い人形だと思ってはいたが、見れば見るほど精巧な細工が目に付き、少女はすっかりこの人形のとりこになっていた。

 ねっとりとしたいやらしい笑みを、店主が浮かべたのにも気づかずに。

「そう。じゃあ、よかったら上にのぼってみてはどうかしら? 面白い仕掛けがあるのよ」

 言葉とは裏腹な、呪文のように強い口調。

 少女は操られるように、人形のそばに据え付けられた梯子に手をかける。

 ふらふら、ふら。

 一段、一段、ゆっくりと、のぼって。

 人形の口元までたどり着いた少女は、おもむろにその中を覗きこんだ。

 ぽっかりと開いたそこは、冷たくて意外と狭い。頭一つ、何とか入る程度の大きさ。

 錆臭いのは、この人形が鉄製故のことだろうか。

 突如、ガチリと人形が音をたてた。

 その音に、一瞬にして少女は正気にかえり、本能的に察知した次の展開に、全身の毛が逆立つ。

 このままではいけないと、身を引こうとした瞬間、人形から突出してきた幾つもの細い鉄棒によって、それは妨げられた。

 背中を冷たい汗が伝う。

 喉は緊張で渇き、悲鳴をあげることすらままならない。

「あ、アイ……シャ……さ……」

 乾いて張り付いた喉から搾り出した声で、女を呼んだ。

 喉の粘膜が傷ついたのか、口の中に血の味が広がる。

 少女の必死の足掻きに、アイーシャは笑う。

 今までに見せた上品なものではなく、張り裂けんばかりの声で。

 それはまさに、狂笑。

「うふふ、馬鹿な娘。こんな罠に簡単に引っかかってくれるだなんて、まさに滑稽の極みね」

 笑いながらそう吐き捨て、少女の身体を唯一支えている梯子を蹴り倒した。

 声にならないうめきが、少女の喉から漏れる。

 盛大な音をたてて床に叩きつけられる梯子。

 少女は宙吊りになり、何とか逃げ出そうと足を激しく動かした。

 女はその苦悶の表情を観察するかのように、少女の正面に立っている。口元は相変わらず、みにくく歪んでいる。

「面白い仕掛け、みせてあげる」

 そう言うと、人形の背中についた長い鉄の棒をゆっくりと――引いた。

* * *

 きれいな真紅に染まった床。

 今日のショーは、これでおしまい。

 観客は今日も、わたしひとり。

 次のショーは、さあ、いつかしら。

 うふふ、うふふ。

 大事な大事な私の人形。

 大きく大きくお口を開けて。

 小さな小さな胡桃を咥えて。

 そぉれ、いちにいの……。

(了)

       
« »

サイトトップ > 小説 > サスペンス/ホラー/SF > 単発/読切 > 胡桃割人形