ハキリ

 古い友人が失踪したのは、もう三年も前のことだ。事件性のない家出としてまともに捜査もされず、彼はそのまま消失した。

 彼がいなくなったことで、世界の何が変わるわけでもない。それは至極当然の流れだ。世界とは流れる川のようなもので、流れに身を任せることでしかその中で生きられない。立ち止まる存在があれば、たちどころにして急流に身を削がれ、やがて潰える。

 失踪からたったひと月で、彼は元からいなかったものとして扱われ、存在すら語られることがなくなった。そうなって初めて彼――ハキリは死んだのだと、俺は理解した。寂しさや悲しさは、不思議と感じなかった。ただ、心の中に穴が開いたような、確かな喪失感だけが残った。

***

 それから二年。勤め先の定期人事異動で、同じ部署に新人が配属された。

 その新人の名は『ハキリ』。死んだ友人の名と同じだ。簡単に紹介された経歴までも、友人の失踪当時の経歴と相違なかった。

 俺の知っているハキリであるはずがなかった。彼は死んだのだ。それに、記憶の中のハキリとは顔も声もまったく違う。大人しく柔らかい印象だった友人に対し、目の前にいる男は冷たく鋭い刃物のようだ。

 この男が友人の名を騙る何者かであるのは、間違いない。だが、それならば何か目的があるはずだ。

 ぱらぱらと疎らな拍手に包まれた歓迎ムードの室内で、俺は一人思考を巡らせる。

 ハキリの席は俺の斜め向かい、教育係はハキリの向かいで俺の隣に座るコハナが担当することになった。

 胸の中で渦巻く熱が、内側から身体を焦がしていく。それは悲哀であり、憤怒。

 三年前に表出しなかった感情は、胸の中でぐずぐずと燻っていたのだと今更実感する。

 友人は死んだのではなく、殺されたのだ。

 ――友人の名を騙るこの男に。

***

 生温かい夜風が、肌を撫ぜる。ゆるりと舐られるような感触に、全身が粟立った。見上げた空に星はなく、どんよりと重苦しい雲で一面覆われている。この調子では、明日は雨になるだろう。

 ――嫌な夜だ。

 小さく舌打ちし、まだ火を付けたばかりの煙草を地面に落とす。そしてそのまま靴底で踏みつけた。

「おい、公共の場を汚すんじゃない」

 隣にいた同僚に、渋い顔でたしなめられる。

 外の空気を吸いたいと言って居酒屋から公園へと場所を移したものだから、てっきり酔いつぶれていたものだとばかり思っていたが、小言を言う元気は残っているようだ。

 俺に嫌悪の眼差しを向ける同僚――コハナは、鞄から携帯灰皿を取り出してこちらに寄越した。彼自身は非喫煙者であるから、携帯灰皿など勿論必要ない。ただ煙草の吸殻が道端に捨てられているのが嫌なのだという。流石に誰が吸ったのかも知れない吸殻を拾い上げて所定の場所に捨てるような真似は彼もしないが、今の俺のように目の前で吸殻を捨てる奴には決まって憎憎しげな視線と共にこの携帯灰皿を差し出してくる。決して親切心からの行動ではなく、本人はこうすることが当然だと思っているようだった。

 良くも悪くも、モラルの塊のような奴だ。少し融通がきかないところが玉に瑕だが。

 俺は、靴の下で潰れた吸殻を拾い、差し出された携帯灰皿の中に落とした。

「それで、酔いは覚めたのか。コハナ」

「元々、それほど酔ってない」

「……嘘つけ」

 先程まで顔を真っ赤にして、ぐったりとベンチに腰かけていた奴の吐くセリフか、それが。

 居酒屋で呑んでいるときに感じたが、コハナは今日、上機嫌なようだ。グラスを空けるペースが速かったし、口数も少し多かった。

 何より、俺の注文した焼酎を見て「呑んでみたい」と言ったのには驚いた。悪酔するからと、俺が勧めても一口たりとも口にしようとしなかったというのに。

「な、いいことでもあったのか?」

 コハナは普段、他人にあまり自分のことを話さない。本人が話したくないことを無理矢理聞き出す趣味は俺にはないので、プライベートなことについてはこちらからも深く尋ねたりはしなかった。

 それでも、知りたくないといえば嘘になる。今なら、酒の力を借りて多少なりとも何か聞き出せるかもしれない。わずかな期待を抱いて、俺は思い切ってコハナに尋ねた。

「いいこと、っていうと」

「お前が上機嫌な理由、かな」

 俺が言うと、コハナの顔に再び朱が差した。

 上機嫌で少し羽目を外したことに気付かれ、羞恥を感じているのだろうか。

「別に……。ただ少し、嬉しかったから、さ」

「嬉しい? やっぱりなんかあったんじゃん」

 珍しく照れた様子を見せるコハナを、肘で小突く。

 同僚といえど彼は俺より四つも年上なので、本来ならばこういった態度はまずいだろう。これでも、彼と同じ業務について暫くは敬語を使い、恭しく接していたが、当の本人がそれを嫌がったのだ。

 一体どういう経験を積んできたのかは知るところではないが、コハナはやたら仕事の出来る男だ。 それに加えてあの清廉さである。周囲の者は彼を尊敬の目で見ることはしても、個人的に親しくなろうとは思わなかったのかもしれない。

 彼には社内で友人と呼べる友人もおらず、いつも孤立していた。そんな彼とここまで距離を詰めることが出来たのは、なんてことはない。俺が彼を昼食に誘ったのがきっかけだった。一人で外で昼食をとるために席を立とうとした彼に「一緒に食べませんか」と声をかけたのだ。

 あの時のコハナの表情は今でも覚えている。嬉しそうでいてそれでいて照れ臭そうな、歳不相応といっては失礼だが、子供が見せるような表情だった。驚きを隠せなかったのだろう、口ごもりながら挙動不審になっていた彼には、いけないとは思いつつもつい笑ってしまった。――これについては後で本人にしっかり怒られたが。

 彼の意外な一面を垣間見れたことで親近感を感じた俺は、それから毎日食事に誘い続けた。彼に限っては根本的な性質が変わることはまずないだろうが、それでも徐々に打ち解けていき、結果、今現在のような友人関係にある。

 そういえば、今の彼の表情は、この時に見せてくれたものと少し似ているかもしれない。

「ハキリが」

 ――その名を聞いて、過去を懐かしんでいた俺の胸中は一気に冷めた。

 コハナは、俺がハキリに疑心を抱いていることを知らない。教える必要もないと思っている。俺には憎むべき存在であれ、コハナにとっては可愛い後輩なのだ。コハナが初めて教育係を担当したというのだから、その思い入れも一入だろう。

 彼の前ではハキリに対する猜疑を露にしないよう注意を払い、それと同時に、なるべくハキリの話題に触れないようにもしていた。それがまさか、このような場面で名前を出されるとは思ってもみなかったが。

「ハキリが、その、私のことを褒めてくれたんだ」

 消えそうなほど小さな声で、コハナは言った。

 俯き、時折ちらちらとこちらの様子を伺うように視線を向けてくる。

 きっと彼は『嬉しい』、『恥ずかしい』といった心の動きに慣れていないのだろう。初めて食事に誘った時も然りだが、慣れない感情に対処の仕方を考えあぐねているに違いない。

 そうして戸惑う彼は、年齢よりも随分と幼く見えるのだ。数年彼と接して、最近ようやくそれが分かってきた。

 ――それにしても、後輩であるハキリがコハナを褒めるなんて何かおかしいんじゃないか。

 どのように言って持ち上げられたかはこちらの知るところではないが、どこか違和感を感じた。

 指導係であるコハナが、ハキリを褒めるというのなら話は分かる。俺やコハナほどの年齢や立場になると、大抵年下からの賛辞は素直に受入れ難いものだ。相手の真意を疑ってしまうし、どうしても諂いとして捉えてしまう。

 社会に出たばかりの何も知らない若者ならば、そんな事情などお構いなしに平気で媚びを売るのかもしれないが、端から見た限りハキリにその判断が出来ないとも思えない。

 俺の個人感情抜きにしてみれば、ハキリの仕事ぶりは優秀なものだった。

 こちらが問えばそれに対する回答は常に理想的、教えたことはすぐに応用でき、周囲への気配りや職場での空気の読み方もうまい。

 適応力がずば抜けている、という言葉だけでは説明出来ないほど、会社という組織に慣れている。

 そんなハキリが、コハナの気分を害するかもしれない見え透いた賛辞を言ったというのか。

「そう。それで、ちょっと浮かれちゃったんだ?」

「……ちっとも浮かれてない」

「じゃあ何で俺の焼酎呑んだんだよ」

 今はハキリのことは考えないでおいたほうがいいかもしれない。ドス黒く渦巻く疑念をこれ以上膨らませれば、流石に隠し通せる自信はない。少し強ばっていたであろう表情を、コハナに見られずにすんで良かった。

 コハナは先程よりも更に俯いて、視線すらこちらに向けなくなっていた。

 彼は彼で、真っ赤になった顔を俺に見られたくないと思っているのだろう。

 俺は無理矢理笑顔を作り、コハナをつついてからかった。

 そう、結局居酒屋ではコハナの押しに負けて、俺が店でキープしていたボトルの焼酎を少しわけてやったのだ。最初は少しだけのはずだったのだが、あんまりにコハナが「美味しい」というものだから、俺も面白くなってどんどん注いでしまい、半分以上残っていたはずのボトルはいつの間にか空になってしまった。

 呑みつけないものを多量に呑んだコハナは、居酒屋を出る頃にはすっかり千鳥足。『アルコールは一日三杯まで』と常々言っていた当人がここまで呑んだのだから、これで何もないと思うほうがどうかしてる。

「あれは……本当に呑んでみたかっただけで……」

「一日三杯はどこいったのかなあ? コハナさん?」

「え、ああ……、すまん、……浮かれてた」

 自身の主張を、自ら破ってしまったことを思いだし、コハナは目に見えて消沈した。

 初めから呑まなければいいのにと思いつつ、これ以上追い詰めるのも悪い気がしたので言わないでおく。

 そもそも俺も止めてやればよかった。普段言わないようなことを口にした時点で、彼の様子がおかしいのは分かりきっていたのに。

 ――そういえば、コハナの様子がいつもと違ったのは何故だった?

 コハナは”ハキリに褒められて”機嫌が良かった。それはハキリが”コハナの気分を害する可能性があるにも関らず”賛辞の言葉を述べたからだ。しかし実際は、コハナがそれで気分を害することは有り得ない。社内で孤立していたコハナにとって他者から褒められることは、好感を持たれているということに符合する。彼にとってそこに他人を疑う余地はないのだ。

 偶然なのかもしれない。けれどただの偶然にしては出来すぎている。

 どうすればコハナにへつらうことが出来るか、ハキリには最初から分かっていたのではないのか。

 コハナが賛辞を素直に受け入れる質だと、元より知っていたとしたら?

 しかし、コハナとハキリの間に以前から面識があったとは考えにくい。

 ならばハキリが何らかの理由から、コハナについて調べていたとしてみればどうか。それならば、辻褄も合う。

 そうだとすれば、彼が社会人としてやけに優秀だということにも疑問が湧く。

 ハキリの能力を考えれば、新人研修後すぐに配属されたばかりという短すぎる経歴は不自然に思えた。この会社に所属する以前、どこか別の会社で数年働いていたと言われたほうがまだ納得がいく。

 もしこの仮定が事実であれば、つまりはハキリの年齢やその経歴は偽りのものということだ。そうなれば、偽っているのはそれだけではないだろう。

 名前だ。『ハキリ』……今は亡き友人の名。

 一体あいつは、何を企んでいる?友人の名を、存在を奪い、コハナを懐柔して、どうしようというのか。

 その目的ばかりは、どうにも見えてこない。

 だがこの壮大な仮定は、少なからず事実であろう。俺はそう確信していた。

 ふと周囲を見渡せば、俺たちのいる公園からはほとんど人影が消えていた。

 ちらと右腕にはめた腕時計に目を落とす。この会社に入る前に新調したものだ。高価なものではないが、毎日使っていればそれなりに愛着もある。英字で記された文字盤の上で、針は午前〇時丁度を示していた。

 それほど話し込んでいたというわけでもないのに、居酒屋を出てから既に一時間が経っている。一人悶々としている時間があまりに長すぎたのかもしれない。この時間では、コハナの自宅方面への終電には間に合わないだろう。

「コハナ、気分は?」

「ああ、大丈夫そうだ。そろそろ帰るか」

「それなんだが……コハナ、ちょっと時計見て」

 やはり彼も時間は気にしていなかったようで、促されるままに自らの腕時計に目をやり「あっ」と声をあげた。公園から駅までは、どんなに頑張っても十五分はかかる。別の路線であればまだ終電が残っているかもしれないが、それに乗れたところでコハナの自宅とは別方向だ。

 電車は素直に諦めて、タクシーでも拾ったほうが賢明だろう。

 ――コハナが酔いつぶれていたのだから、俺が時間を気にしておくべきだったな。

 思案に暮れ、その程度の配慮も出来なかった自分を今更ながらに恥じる。

 コハナには本当に申し訳ないことをしてしまったと思う。

「間に合わない……だろうな。終電」

 俺の家はコハナの自宅とはこの公園からだと正反対の場所にある。終電もまだあるし、何より徒歩でも三、四十分そこらで辿り着ける距離だ。家に泊めてやれればいいのだが、あいにく布団は一組しか置いていないし、何よりも狭い。

 男二人で身を縮めて寝苦しい夜を過ごすより、多少金がかかっても自宅に帰ったほうが彼の為だ。

「タクシー、捕まえよう」

 そう提案すると、コハナは頷いた。 

 この時間帯であれば、終電を逃した連中を狙って空車タクシーが巡回しているはずだ。腰をおろしていたベンチから離れ、公園の入口で立っていれば、案の定五分もせずに俺たちの前にタクシーが停車した。

「ミツ、お前は?」

 タクシーの後部座席に乗り込みながら、コハナが尋ねてくる。

 自ら「大丈夫」というだけあって、なるほど顔色は随分良くなっている。口振りもしっかりとしているし、これならば一人でタクシーに乗せても問題なさそうだ。

「俺はいい。涼みながら歩いて帰る」

 言いながら俺は財布から紙幣を何枚か抜き取る。そしてそれを折り畳み、コハナのスーツの胸ポケットに適当に突っ込んだ。

「おい、ミツ」

「終電逃したの、俺のせいだし」

「お前のせいだなんて思ってない」

 コハナは押し込まれた紙幣を取り出そうと必死になるが、俺が腕を押さえつけているせいでそれは叶わない。

 しばらくそれに抵抗しながら唸ってはいたが、タクシーの運転手が咳払いをひとつすると、観念したように腕を落とした。

「こういうのが嫌ならさ、今度飯でも奢ってよ。それでいいだろ?」

 渋々といった様子で頷き、コハナは「分かった」と小さく呟いた。

「じゃあ、明日。ミツ、気を付けて帰れよ」

「分かってるって。じゃあな」

 俺たちが別れの挨拶を告げると、待ちわびたかのようにタクシーのドアが閉まる。

 呼び止めておきながら長話をするなんて、運転手にまで悪いことをしてしまった。去っていくタクシーの後ろ姿を見送りながら、俺は心の中で謝罪した。

 気付けば風が止み、湿りを帯びた空気が身体を包み込んでいる。暑さを意識すれば途端に全身から汗が吹き出した。何か冷たいものでも飲んでから、帰路についたほうがいいだろう。

 くるりと踵を返すと、俺は公園へと戻った。確か先程腰かけていたベンチの先に、自動販売機があったはずだ。

 そのまま足早に、自動販売機の方向へ向かう。

 公園の木々に隠れるようにして、淡い光を放つ何かが見える。あれが自動販売機だろう。その手前にはベンチがある。ベンチだけがある……はずだった。

 ――おかしい、だろう。何であいつが、ここにいるんだ。

 そこには男が一人、座っていた。俺たちが十数分前まで座っていたベンチだ。公園にはよくある木製のもので、男が背もたれにもたれかかると、ベンチは耳につく嫌な音をたててきしんだ。

 よく見知った、そして俺が忌み嫌う男。

1頁 2頁

       
« »

サイトトップ > 小説 > サスペンス/ホラー/SF > 単発/読切 > ハキリ