アシナガ

 重苦しい鉛色の空が、低く唸る。

 湿り気を孕んだ空気は既に飽和状態。雨が降り出すのも時間の問題だろう。

 窓の外をちらと見やりながら、そんなことをぼんやりと考える。

 天候のせいか気分はぐずぐずと燻り、午後の仕事を仕上げる気力はとうに失せていた。

「コハナさん、コハナさん」

 私同様やる気を失くしているのか、向かいの席に座る後輩が話しかけてくる。

「ねえコハナさん。聞こえてます?」

 ――声が大きい。

 周囲の視線が痛いほど突き刺さるが、当の本人は全く気付いていない。

 威勢の良さは認めるが、場を弁えないのがこいつの悪い癖なのだ。

「聞こえてるから。少し静かにしろ、ハキリ」

 私が答えると、彼はパーティションの上からひょっこりと頭を出した。

 恐らく、こうすれば小声でも会話が出来ると判断したのだろう。

 だがそうするには、彼には少しばかり身長が足りないようだった。

 会話どころか顔すら見えない。

 背中にささる視線が痛い。

 振り返らなくても分かる。真後ろの席のヒラタが、至極迷惑そうな目でこちらを見ているのだ。

 いつもハキリが騒ぐたびに、何故か私が注意される。

 私の評判は悪くなる一方なのに、ハキリだけは可愛がられている。横暴もいいところだ。

 しかしながら、ハキリに甘いのは私もまた然り。

 パーティションを何とか覗き込もうと、ぴょんぴょん飛び跳ねていた後輩を連れ、私はそっとデスクを離れた。

「で、何の話だって?」

 休憩室まで逃れてきた私たちは、長椅子に腰掛け、缶ジュースを啜っている。ハキリの分は私の奢りだ。

 尋ねる私をよそに、ハキリは夢中でジュースを飲んでいる。私の声など届いていないといった様子だ。

 まさか、ジュースが飲みたかっただけなのではあるまい。

 彼は手にした缶を一気に傾けると、あっという間に中身を空にした。

「そう! 話があるんでした!」

 ハキリはこちらに向き直り、ずいと身を乗り出した。

「いや、近いから。顔近いから」

 その両肩を掴んで、どうどうといさめながら押し戻す。

 ハキリは勢いだけはそのままに、鼻息も荒く話し始める。

「コハナさんの隣の席、今日、空いてるでしょう」

 私のデスクは島端の入口寄りだ。隣に席はひとつしかなく、確かに今日は空席だった。

 単に客先に出ているのだと思ったが……。

「失踪したって、ミツさん」

 ミツは私の同期だ。そして隣のデスクの主でもある。

「失踪って……。そんな馬鹿な」

 ミツとは昨日も会社で会った。

 しかも退勤後に二人で呑みにまで出かけたのだ。

「家にも連絡したけど、繋がらないらしいんです」

「たった一日会社に来なかっただけで、大袈裟だろう」

 平静を保ったようにそう口にするが、心臓は早鐘を打っていた。

 缶を握ったままの手は小さく震え、緊張に喉が渇く。

 失踪――。

 本当にたった一晩で、彼は姿を消したというのだろうか?

 人一倍責任感の強い彼が連絡もなしに欠勤するというのは信じがたいが、別段有り得ないことではない。

 何らかの事情が生じて、連絡を取れない状況に置かれているのかもしれない。

 ではその状況とは……。

 そこまで考えて、背筋に冷たいものが走る。

 その考えを払拭するように、私は慌てて頭を振る。

 そして手にしていた缶ジュースを、ぐいと飲み干した。

「これはあくまでも、噂なんですけど」

 私のただならぬ動揺を察したのか、先ほどとは違う神妙な面持ちでハキリは続ける。

「アシナガの仕業かもしれないって」

「アシナガだって?」

 酷い目眩がした。

 ハキリが口に出したその名は、現在世間を騒がせている連続誘拐犯の通称だった。

 身代金を請求するわけでもなく、ましてや犯行予告があるわけでもない。

 ある日突然、人一人が姿を消す。

 周囲はそれをただの家出か夜逃げだと、初めは気にも止めない。

 しかし数日経つと、誰からともなくこんな噂がたち始める。

『これは誘拐だ』

『犯人はアシナガだ』

 こうしていくつもの失踪事件が、誘拐犯アシナガによる犯行だと囁かれた。

 もちろん根拠など存在しない。

 警察では、それらは単なる蒸発にすぎないと、捜査すらしないのである。

 当然のことだ。容疑者の姿すら目撃されていないのだから。

 それでもどういった訳か、姿無き誘拐犯によるとされる犯行は、次々と発生した。

 人が消え、噂が立つ。

 また人が消え、同じように噂が立つ。

 延々とそれが繰り返され、口承によってのみ、真偽も定かでないアシナガの存在が世間に浸透していった。

 ――これは私の憶測ではなく、偶然観ていたテレビ番組で特集されていた内容だ。

 噂でのみその存在を語られるアシナガは、今や都市伝説のひとつとして世間に知られるようになっていた。

「いもしない誘拐犯に、さらわれたって言うのか」

 私はそれを、本当に単なる噂程度にしか認識していなかった

 ましてや、身近な者がその毒牙にかかるなどと。

「やだなあ、コハナさん。噂ですよ、噂」

「……根拠のない噂を、容易く触れ回るもんじゃない」

 少しばかり、声色が怒気を帯びてしまったかもしれない。

 だがこればかりは仕方がない。

 事件であれ、自発的なものであれ、友人が一人行方知れずなのは確かなのだ。

 ハキリの様子を伺うが、特に私の態度を気にした様子もなかった。

 私は手にしていた空き缶を、部屋の隅にあるゴミ箱へと投げ入れた。

 そしてその手でスーツの内ポケットを探る。指先に硬いものが触れた。仕事用の携帯電話だ。

「ミツさんに電話するんですか」

 ハキリが尋ねる。

 私はそれを無視し、携帯電話を操作する。

 メモリーからミツの電話番号を探し、すぐに通話ボタンを押した。

 受話口からは、すぐに呼び出し音が聞こえ始める。

「コハナさん」

 一回、二回……呼び出し音は続く。

「コハナさん」

「なんだ」

 十五回、十六回……。

 電話が繋がる様子は無い。

 続く呼び出し音を聞きながら、返事をする。

「根拠があるとしたら、どうです?」

 三十回目のコールで、電話は留守番電話に切り替わった。

 通話終了ボタンを押し、すぐにミツの自宅電話を鳴らす。

 ハキリの問いに、私は答えなかった。

 受話口からは再び呼び出し音が聞こえ始める。

「アシナガは」

 私の返事を待たずに、ハキリは語り始めた。

「……アシナガはね、食べちゃうんですよ」

 耳元で鳴り続けている呼び出し音が、急に遠くなった気がした。

 それでも続く規則的なその音に、私は強く願った。

 誰でもいいから早く電話を取ってくれ、と。

 携帯電話を握る手には、じんわりと汗が滲んでいる。

 ハキリの言葉を、これ以上聞いてはいけない。

 本能がそう告げていたが、身体は石のように動かなかった。

「さらって、そして、食べちゃうんです」

 ねっとりとした熱い息が、首筋にかかった。

 一瞬にして、全身に鳥肌が立つのが分かった。

 私の顔のすぐ横に、ハキリの顔がある。吐息がかかるほど、近くに。

「アシナガは存在するんですよ、コハナさん」

 私は、既に気付いていた。

 人懐こく明朗快活で少し抜けたところのある後輩の、隠されざる素顔に。

「ハキリ、お前」

 口に出せたのは、それだけだった。

 ハキリの顔が、眼前に迫っていた。

 その表情はいつもと変わらない笑顔のはずなのに、どこか冷たい。

 硬く握っていた携帯電話がするりと手の中から抜け、そのまま床に落ちて軽い音を立てた。

 ――それを最後に、私の世界は無音と化した。

(了)

       
»

サイトトップ > 小説 > サスペンス/ホラー/SF > 単発/読切 > アシナガ