エンゼル=コードの誘惑

 まばゆい銀色で覆われた半球状の神世界ドォムは、地上から眺め、想像していたよりも、遥かに美しい場所であった。

 見る者に圧倒的美を感じさせる要因の最もたるは、この場所に直線が存在しないことだろう。通路も、壁も、そして神の使者とされる天使エンゼルたちの体も、すべてが艶かしい曲線で構成されている。

 中でもひと際妖艶な曲線を描き出しているエンゼルたちは、一糸纏わぬ姿で純白の翼を広げ、滅多とない来客を珍しがっているのか――はたまたからかうためなのか――ドォムのあちらこちらから、ちらちらと私の様子を窺っている。

 エンゼルは、地上でいえば女と同じ外見をしているため、男である私は、異性の(本来のエンゼルに性別などという概念はないのだが)あられもない姿を、とても直視することなどできず、しかたなしに視線を足元へと落とすしかなかった。

「どうですか、ドォムの中は」

 私を先導していた案内役のエンゼルが、そう尋ねてきた。

「あ、はい、同じ世界のものとは思えないほど、美しいと……」

 私がそこまで答えると、エンゼルは足を止めた。首を捻り、肩越しにこちらを一瞥してから、ゆっくりと私と向き合う。その折、長い金色の髪が揺れ、純白の羽根をかすめた。それが背景の銀色と重なり、私はあまりのまぶしさに、目眩を覚えた。

「それは、ドォムが、でしょうか」

「えっ?」

 一文字一文字はっきりと区切るように言葉を紡ぎ出す唇の動きは、どこか大仰で、ぎこちない印象を覚える。表情も、笑顔とは言い難い、まるで貼りつけられたような無機質なものだった。だが、それらが逆に、私を惹きつける一端となっていた。

「それとも、私たちが、でしょうか」

 刹那、呼吸が詰まった。 

 エンゼルは、視線によって人間を殺めることができるのではないか――そんな仮説が、私の頭を過った。

 僅かに目を細めた。エンゼルがとった行動は、たったそれきりだ。にもかかわらず、細めたその目で見つめられた途端、私の心臓は今にも破裂しそうなほどの膨張と収縮を繰り返しだしたのである。それはまるで、私の心臓の動きが、エンゼルによって管理されているのではないかと錯覚しそうになるほどであった。

「……あ、あなたが、です」

 激しい動悸を体内に感じながらも、気付けば私はそう呟いていた。唇が戦慄いていた。これが本当に自分の意志であったかどうか、私には判断できなかった。判断するだけの意志すら、エンゼルによって奪われてしまっていたのかもしれない。否、心臓と同じように、私の意思――つまりは神経系に至るまで――管理されていたのだとしたら……? あれこれと考えを巡らせるほどに、私はその目から視線をそらすことができなくなっていった。

「そうでしょう」

 天使は短く答えた。その声には、初めて感情が滲んでいた。

 恍惚、愉悦、優越、侮蔑――それらが混ざり合うと、きっとこんな声色になるのだろうと思われた。

「そうでしょうとも」

 天使は繰り返した。その声が幾重にも重なっている。

 いつの間にか、私の周囲をぐるりと天使たちが囲んでいた。

 惜しげもなくさらされた裸体を前に、私は唾を飲み込んだ。

 今日この場所を訪れた本来の理由など、すでに私の中から消え去っていて、私はただただ純粋な欲望にのみとりつかれてしまっていた。

「私たちが欲しいのでしょう」

 案内役のエンゼルが、赤い舌で唇を舐めた。まるで人間の娼婦のようだった。扇情的なその仕草に、私はたまらず頷く。

 輪のようになって私を囲い込んだエンゼルたちは、みなこちらに笑いかけている。三日月型に歪められた濡れた唇に、淫猥な色を覗かせて。

 正面に立っていたエンゼルは私に向け、ゆっくりと腕を伸ばしてきた。透明感のあるその白さは、考古学博物館で見た磁器を思わせた。触れたらすぐに壊れてしまいそうな、その白く細い指が、無抵抗な私の口元にそっと触れる。見た目通りの無機質な冷たさが、薄い表皮越しに感じられた。そして、薄く開いた唇の狭間を這うようにして、私の中へと侵入してくる。歯列を割り、歯茎をなぞり、舌の付け根を擽られる。舌の形を確認するように、口腔で指が蠕いたと思うと、舌の中心をなじるように指の腹でこね回された。指先に触れられた影響なのか、口腔内全体がじんと痺れている。僅かに感じられた鈍い鉄の味が、喉の奥にだらだらと流れ込んでいった。

 腰が、背中が、感じたことのない快楽に打ち震えていた。それに伴う熱の滞留を、下半身に感じた。しかし、反応を示す男の象徴たる部分よりも、甘美な侵略を受けている口腔内にこそ、私の意識は向いてしまっていた。こうなると、私はもはや男という性を超越した存在になってしまったのだと言わざるを得なかった。エンゼルも、そんな私の考えを汲み取ったように頷いた。

「欲しいならば、どうぞ、差し上げましょう」

「差し上げましょう」

「どうぞ」

「美しさを」

「永遠の美しさを」

 エンゼルは、口々に違う言葉を放つ。きぃん、と甲高い針のような細いその音が、私の両耳を貫いて、脳に突き刺さった。そして音は円環状に繋がり、私の耳を、脳を、絶え間なく刺激した。それは、音の一閃による脳への愛撫だった。私の視界には、もう金色のエンゼルはいなかった。ただ、ぎらぎらと光る銀色だけがあった。

 口の端から、何かが垂れた。いつの間にか頬が濡れていた。下半身は生温かく湿っている。だが、もはやそんなことは、私にとって何の関係もないことだった。

「うつくしさを、えいえんのうつくしさを」

 私は舌を弄ばれながらも、そう口にした。声になっていたかどうかはわからない。それでも、エンゼルたちには伝わったようだった。

 ふと、両頬を押えられる感覚があった。自然と口が開く。そこから、指が抜き去られる。私の舌は、名残惜しげにそれを追い、唇の壁を越えた。

「っつ」

 私の口から差し出されるように外気に晒された舌に、鋭い痛みがあった。銀色の視界が、痛みのあまり白黒と明滅を繰り返す。すると、私の目の前に、再び案内役のエンゼルが現れた。エンゼルは、穏やかな微笑を浮かべていた。淫猥さなどかけらもないその笑みは、古代神話の中で語られた〈聖母〉を彷彿とさせる、慈愛に満ちあふれた表情であった。

 胸の内に、不思議な暖かさが広がっていく。

 エンゼルは、私と同じように舌を差し出した。そして大きく口を開いた。赤い舌の中心には、小さな銀色の板のようなものが埋まっていた。極めて直線的なその異物の奥から覗いているのは、また、銀色。ぎらぎらといやらしくぬめる銀の喉から、螺旋状に絡まりあった無数の細いコードが這い出してくるのを、私は見た。見た、気がした。恐らく、見たのだろう。だが、本当に私は、それを見たのか?

 ――いや、私が私として最後に見たものは、金色の長い髪と純白の翼を持つエンゼルの、美しき微笑だったのだ。

+ + + + +

 人間の住む地上とは接することのない空中に浮かぶ、半球状の空間。神世界ドォムと呼ばれるその場所は、爆発的に増えた人間を効率的に管理するために、古代人類が造りだした〈神〉、そして〈神〉と地上を繋ぐ〈エンゼル〉が〈収納〉されている遺跡である。

 ――人間を管理する〈神〉とは、精密な電子頭脳のことであり、それと地上を繋ぐ〈エンゼル〉は、無数のコードであった――

 このくだりは、研究者が記したどの文献でも、必ず過去形で語られる事項である。

 ドォムはもはや過去の遺物なのだ。ドォムが作られた後に起こった数々の戦争や気候変動による飢餓などにより、この世界の人口は激減した。そのため、電子頭脳を使ってまで人類の管理をする必要がなくなったのだ。

 地上とドォムを繋ぐエンゼルはしばらくの間放置されたようだが、それでも三百年以上前には切断され、ドォム内部に収められたとの記録が残っている。繋がりが絶たれたドォムを管理する技術を受け継ぐ者も、もはや残っていない。残された書物や電子遺跡中から発掘されたデータにより、考古学者が技術の再興を試みたが、結局全容を解明するには至らず、その一部を窺い知る程度に留まっている。それらのことから、何百年も管理を怠られた神やエンゼルは、もう稼働していないというのが、これまでの考古学の定説であった。

 しかし、ここ数年、稼働していないはずのエンゼルから送信されたとみられる画像データが、相次いで地上で発見されたのである。

 それを受け、半年前に、考古学者を中心とする調査チームが急遽編成された。その中に、私も選ばれ、そして彼もまたチームの一員として招集されていた。

 彼はどの組織にも所属せずに研究を続ける、いわば考古学マニアだ。マニアとはいえ、彼のことを知らぬ者は、考古学者の中にはいない。彼は、ドォムに関する研究を独自で続けており、今回の画像データがエンゼルから発信されたものであると突き止めた張本人であるからだ。

 さらに、考古学者の間で彼の名を轟かせている理由はもうひとつあった。それは彼が、今日では珍しくなった東洋系人類の純粋な血統であるということだ。三十歳を越えているというのに、どこか幼さを残す顔の、その黄味がかった肌の上に重なる黒い短髪と黒い瞳の美しさは、一度目にすれば誰ひとりとして忘れることができないだろう。そんな彼の容姿は、陰では『亡国の美貌』とまで囁かれるほどであった。

「あのドォム、きみはどう思いますか?」

 ドォムへの調査を一週間後に控えたその日、彼は私を呼び止め、唐突にそう尋ねてきた。

 元々彼と面識があったわけではない。私以外の誰かに話しかけているのかと思い、ぐるりと周囲を見回したが、やはりその場には私と彼しかいなかった。そんな私の様子が可笑しかったのか、彼はくすくすと小さく笑って「そう、きみですよ」と目を細めた。その黒瞳の奥に、妖しく燐く光が見えた気がして、私はどぎまぎとしてしまい、軽く視線を逸した。

「それで、どう思います?」

 彼は再び私に尋ねた。彼はもう笑ってなどいなかった。

 一瞬で態度を切り替えられ、何だかからかわれたような気持ちになる。

「どう……って。まあ、当然だが興味深くはありますね。古代人はどうやってあれを空に浮かべたのか。エンゼルが何故今さらになって暴走したのか……考え始めたらきりがない」

 私が答えると、彼は肩をすくめた。首を左右に振る。短くも柔らかそうな黒髪が、微かに揺れた。そして深く溜息をついて言う。

「きみも他の方と同じなのですね」

 その言葉に、私は腹立たしさを覚えた。ひとのことをからかうように笑ったかと思えば、ぶつけられた質問に答えた私に向かって溜息をつく。

 ――所詮、考古学マニアだ。礼儀のひとつもなっていない――

 失礼極まりないその行動に、そう思わずにはいられなかった。だが、彼がこれから大切な調査を行うチームの一員であることには変わりはないのだ。だからこの場で言い争って和を乱すことは、避けなければいけなかった。

「あれを美しいとは思いませんか? あの銀色の曲線は、もはや地上の技術では造りだすことができないのです。ドォムは、古代神話と、それに基づいて生きた古代人類の美意識の結晶ともいうべき遺跡なのです。

 それに、単なるコードに〈エンゼル〉と名付けた古代人のセンスの良さといったら。それに、天と地を結ぶ天使――そう言葉にすると、何ともロマンチックだとは思いませんか」

 彼は私を一心に見つめながら熱っぽく語った。しかしその黒瞳は、私を見ているようで、どこか別の場所を見ているようだった。……例えば、想像の中の銀色のドォムを。

 彼の瞳の中で揺らめく黒の奥に、再び妖しい光が宿っていたのを、私は見逃さなかった。

 学者には変わり者が多い。彼もまた、その例外ではなかった。そう片付けてしまえば、それまでのことだ。しかし私は、彼の場合は、どこか常軌を逸しているように思えてならなかった。

「今回のことは〈エンゼル〉の暴走だと言われていますが、私は違うと思います。もしかすると、エンゼルに何らかの変化が訪れているのではないでしょうか。エンゼルは地上との……我々との接触を求めているのでは? 何しろ、エンゼルは地上とドォムを繋ぐのが役割です。古の人類により、そういうふうに命令されているです。物理的な繋がりを断ち切っただけでは、恐らく不完全だったのでしょう。エンゼルは今でも、地上――人類と繋がりたがっているのではないでしょうか」

 もはやそれは、独り言だった。「そうだ、きっとそうだ」と彼は呟きながら、私に背を向け立ち去っていった。その時に見た彼の黒い後ろ髪が、いやに私の頭に残っていた。

 その晩、彼は失踪した。私は、失踪直前の彼の異常行動について、誰にも話さなかった。きっと彼は、ひとりでドォムに向かったのだろうと思ったからだ。どのみち私たちも同じ場所へ向かうのだから、もし彼がそこにいるのだとしたら(たったひとりで、どのような手段を使ってドォムに入るつもりなのかは分からなかったが)すぐに合流することができるだろう。

 そして一週間経ち、彼の行方は相変わらず不明のまま、予定通り調査へ向かう日になった。ドォムへは、その外壁面にある入口まで、熱気球で接近しなくてはいけない。大人数は乗ることができないため、チームをまず三つに分けた。私はその第一陣のメンバーだった。

 熱気球に乗り込み、ゆっくりと上昇。そのうちにドォムがすぐそばまで近付いた。銀色の壁にぽっかりと空いた丸い穴状の入口から、まず私がドォムへと入った。入口に立ち止まったままでは他のメンバーがこちらへと移ることができないので、ドォムの中心回廊まではひとりで向かわなければならない。

 入口から続く通路は狭い。円柱の筒を横倒しに通したようなその場所を、慎重に歩いていく。銀色の金属板の床を踏むたびに、カァン、と甲高い音がした。背後を振り返る。丸い光が随分と小さくなっていた。ドォムへの乗り移りに苦労しているのか、私の後ろを歩いてくる者はまだない。

 目的地はひとつなのだ。待つ必要もないだろうと、私は先を急いだ。

 そのうちに、通路は唐突に終わった。それは本当に唐突で、まばゆい光が一瞬で私を包んだ。思わず腕で閉じた目を覆う。網膜を灼かれたかとも思えるほど激しい光の明滅。頭がぐらりと揺れる。胃が縮みあがり、今にも嘔吐しそうだった。前傾に体を折り、それに堪える。すると私の肩に、何かが触れた。

「ようこそ」

 それは聞き慣れぬ声だった。女の声のようだったが、酷く機械的な声で、まるで抑揚がない。いや、真に驚くべきはそこではない。〈神〉と〈エンゼル〉が〈収納〉されているだけの場所に、私たち以外に言葉を発する者がいる――明らかに異常なこの状態に、私は思わず体を固くして後ずさった。肩の感触は、私を追ってくることはなかった。

 相手との距離を取ってから、ようやく私は目を覆っていた腕を下ろした。

「ようこそ」

 同じ言葉を繰り返すその姿をはっきりと視認し、私は息を飲んだ。

 立っていたのは、全裸の女だった。幼い顔立ち、そして黄味がかった肌に映える長い黒髪、黒い瞳。私もよく知る東洋系人類の特徴を持っていたが、しかし彼女が人間ではないとすぐに気付く。彼女の背中からは、鳥のような大きな白い翼が生えていたからだ。それが作り物ではないことは、目の前でゆっくりと広げられていく羽根の様子からも明らかだった。

 その背後には、銀色の空間が広がっている。曲線のみで構成されたそれは、まさに穹窿ドォムだ。そしてそのあちらこちらに、白い翼を持つ女たちが立ち、飛び、或いは戯れていた。

「〈エンゼル天使〉……」

 私は無意識に呟いた。白い翼、女、美。それらの情報を統合し、私の頭の中から引き出された言葉だった。考古学者なら誰でも知る、古代神話に描かれている神の使者である。ドォムと地上を繋ぐコードの名も、ここから取られたものだ。

「そう、私たちは〈エンゼル〉。ようこそ、神世界へ」

 黒髪のエンゼルは、張りついた面のような、無機質な表情で両手を広げ、私を迎えるような仕草をしてみせた。柔らかそうな乳房が、緩く括れた腰が、覆うもののない下腹が、惜しげもなく私の目の前に晒される。思わず唾を飲む。しかしすぐに、その浅ましい本能を消し去るように頭を振った。

 ――〈エンゼル〉とは、ただのコードだ。女の姿をしているはずがない。ここへ来た目的を、本来行うべき責務を思い出せ――

 自分自身に、必死で言い聞かせる。しかし私の意思を上書きするように、何か得体の知れないものが『彼女たちこそが〈エンゼル〉なのだ』と、意識に直接訴えかけてくるのだった。

「きみは……きみたちは、〈エンゼル〉だ」

 私の口から、そんな言葉がこぼれ落ちた。エンゼルは、私の言葉を肯定するように、静かに頷いた。

 途端、周囲に存在するものすべてが、極自然な形で、私の中に受け入れられた。

『銀色の曲線で形作られたこの場所は〈ドォム〉だ。翼を持つ美しい〈エンゼル〉が、地上に住む我々とこことを繋いでいる』

「それでは、案内しましょう。奥で神がお待ちです」

 そう口にしたエンゼルの、その黒い瞳の奥に、妖しい光の燐きを、私は見た。エンゼルは、こちらに背を向けて歩きだした。私はまるで操られてでもいるかのように、その背中を追う。

 彼女の黒い後ろ髪に、どことなく見覚えがあるような気がした。だが、頭に湧いたそんな考えも、舌先で舐めとられるように消えていった。

 そうして私の中に残ったのは、銀色の壁、黄味がかった肌、黒い長髪、それぞれが描く曲線美に対する、身を焦がすような憧憬だけだった。

(了)

       
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