地獄にて

 巨大な釜は、大地から噴出した業火によって底を炙られ、その中では溢れんばかりに湯が煮えたっている。そしてその湯には、あろうことか、無数の人間が浸かっていた。

 ある者は泣き喚き、またある者は釜から出ようとその縁に手をかける――しかし見張りの振るった金棒によって、また釜へと叩き落とされてしまう――私は釜のそばに設置された監視台の上で、顔を覆った両手の指のすき間からその様子を眺めている。

 彼らは皆、罪人だ。生前犯した罪を、この地獄で償っている最中なのである。

 私はといえば、立っている場所から分かる通り、罪人ではない。先日この地獄に赴任したばかりの、新米の監視員である。人間のいうところの、鬼という存在だ。頭に角だって生えている。

 今日はこの『叫喚地獄』に配属されて、初めての監視業務だ。とはいっても、ほとんど見学という形になる。隣にいる先輩監視員の仕事を見て、業務内容をきっちりと覚えなくてはいけない。聞いた限りでは、仕事の内容よりも、二交代制で年中無休の勤務体制の方がなかなかに体に堪えるそうだが。

「新入りィ! しっかり見てんのかァ!?

「は、はひぃ!」

 近距離から飛ばされた怒号に、体が震え上がる。自分よりも遥かに体の大きい先輩監視員が、その目の中に小さく炎を揺らしながら――この仕事に慣れると、鬼ならば誰でも自然と出てくるものらしい――私をきつく睨んでいた。

 正直、この業務についていけるか、私は不安で仕方がなかった。鬼にしては私は元来気の弱い質で、こんな地獄なんてそもそも見るのだって苦痛だ。それなのに、こんな場所で監視なんて、決まった時にはその場で卒倒してしまったほどだ。何せ、地獄監視なんて、希望配属先の第三希望にすら挙げていなかった。ちなみに第一希望は、裁きの間の人員整理員。最近は死者が多く、裁きを受けるのにも数年待ちの列が出来ていて、かなりの人手を要しているらしいので、確実にそこへ配属されるものだとすっかり思い込んでいただけに、落胆は大きい。

 さらに、隣で鼻息荒く金棒を振るうこの先輩監視員がまた、私の不安を増大させる一因となっていた。彼は、監視員の中でも『鬼コーチ』と呼ばれるほど厳しい鬼なのだ。少しでも逆らったり不真面目な面を見せれば、すぐさま金棒で打ち叩かれ、たちまちに罪人と同じ釜で煮られることになるという。鬼は少しぐらい釜に落ちたところで死にはしないが、それでもかなり熱いだろう。出来れば落とされたくはない。よりによって、私がそんな鬼コーチとペアを組まされてしまうなんて。私は自分の不運を呪った。

「いいか、ただ見てるだけじゃあ話にならん! ここから出ようとする不届き者を……こうだ!」

「いぎゃああああああ!」

「ひいいぃ」

 先輩の金棒が、釜をよじ昇ってきていた男の腕を潰し、絶叫が上がる。私はその光景に、思わず悲鳴を漏らしていた。すかさず先輩のキツい視線が飛んでくる。その手に握った金棒が真っ赤に染まっていた。全力で殴られたら、鬼でもきっと、痛いなんてもんじゃない。

「な、なんでもない、デス」

 震える声で言って、極度の緊張で硬くなった体で、私は敬礼をしてみせた。よし、と先輩が頷く。

 こうして業務は、粛々と進んでいった。

 慣れとは、偉大なものである。

 業務について数日もすれば、あれほど恐ろしいと思っていた釜も、すっかり平気になっていた。やはり、私だって腐っても鬼ということだろうか。今では小さな金棒を与えられ、昇ってくる罪人をつついて釜に落としたり――少し目を背けてしまうけれど――、落としきれずに釜から逃げ出してしまった者を弓矢で射ってみたりと、我ながらなかなかの仕事ぶりである。目からは、少しだけ火も出るようになっていた。恐怖でしかなかった先輩の存在も、今では心なしか頼りに思えるほどだ。

 釜の中の罪人をじっくり観察する余裕だって出てきた。

 あの年をとった男は、どういう罪を犯したんだろう。随分悪そうな顔をしているから、おおかた殺生でも働いたに違いない……などと勝手な想像をしたりして、私はそれなりに業務を楽しんでいた。

 そんなある日、私はふと気付いた。

 釜でぐらぐらと煮られている罪人の中に、大層美しい女がいるのである。黒く長い髪を垂らして、きつく目を閉じ、唇を噛み締め、湯の熱さに耐えていた。苦悶を堪えるその表情が、何ともいえぬ色香を醸し出していて、それが私の目に止まったのだ。

 あの女も、罪人なのだろうか。釜の中にいるということは、そういうことなのだろうが。

 あのように美しい女が犯す罪とは、一体何なのだろうか。

 私は、金棒を振る手を止めないまま、考える。

 まず考えられたのが、邪淫という罪である。夫婦である者以外との淫らな行いや、或いは夫婦であっても異常な性行為を行った者に下される罪だ。

 女は生前その妖艶さをもって、多くの男を誘惑したに違いない。今、湯に沈んでいる豊かなふくらみを、一体何人の男が弄んだだろう。

 淫猥な妄想が頭に広がる。けれどそれはあくまでも私の妄想でしかないのであって、事実とは異なるかもしれない。

「ぎゃあ」

「ぐうう」

「ひぎいい」

「あのう」

 三連続で罪人を叩き落としてから、私は隣で釜を見下ろしていた先輩に声をかけた。

「なんだ、新入り!」

 野太い声が、釜の中にうわんと響く。

「あの女の、罪状は何なのでしょうか」

 私は思わず尋ねていた。

「……」

 先輩は、口を噤んだ。それは、答えを知らないからではない。猛々しく生えた角の周辺が、ぴくぴくと震えている。もともと吊り上がっていた目が、歪んでいく。明らかに、憤怒の形相である。

 しまった、と思った時には、既に遅かった。

 大金棒を持ったその腕が、高高と挙げられ、そして一瞬の内に振り降ろされる。

 視界が白と黒で激しく明滅する。

 強すぎる衝撃に、声を上げることも出来なかった。

 体中を痛みが、そして凄まじい熱が包み込む。釜の中に落とされたのだ。

「ああああ熱っ! 熱ぅ!」

「愚か者が! 就業規則を覚えておらんのか!」

 狼狽える私の頭上から降り注ぐ怒号は、多くの罪人の呻きに邪魔されて聞こえにくい。

「へ、へえ!? 就業規則ぅ!? あちっ! あちちち!」

 私は何とか罪人の上に昇って、湯から逃げ出した。

「今から俺が言う就業規則を百回唱和するまで上がってくるな! いいな!」

「は、はぁいい!」

 肩で息をしながら、何とか声を張る。

「就業規則! 『監視業務にあたる者は罪人に僅かでも興味を持ってはいけない』! さあ言え!」 

「しゅ、しゅうぎょうきそーく!」

「声が小さい!」

「しゅうぎょうきそく!!

 鬼コーチに監視されながら、罪人と熱湯による熱気の中で、私は必死に就業規則を繰り返し叫んだ。

 そうしてようやく百回の唱和が終わり、釜から上がることが許可された。ほっと胸をなでおろしたろことで、私は再びその存在に気付いた。

 目の前に、先ほどの女がいる。

 私は思わず、頭上を確認した。幸い、別の監視員が来ているようで、先輩はそちらに気をとられていた。

 私は罪人を踏台にしたまま、体を屈め、女にそっと耳打ちをした。

「あなたの罪は何なのです?」

 私が尋ねると、女は目をゆっくりと開ける。そしてとろりと焦点の定まっていない目で、私を見た。そして徐に、湯の中から何かを取り出し、それに口を付ける。瓶のようなものから何らかの液体が女の口へと流れ込んでいく。瓶から口を離すと、女はにったりといやらしく笑い、

「何だと思うぅ?」

 その言葉とともに、口から吐き出された濃密な酒の匂いが、私の鼻を捉えた。ああ、この女の罪状は恐らく、邪淫というよりむしろ――。

『監視業務にあたる者は罪人に僅かでも興味を持ってはいけない』

 本当にその通りだと、今私は身をもって感じた。

「こぉらあああああ! お前はまだ反省しておらんのか!」

 私の愚行を発見した鬼コーチの怒鳴り声が再び飛んでくる。

「就業規則唱和千回だ! 千回!」

「……ハイ」

「声が小さいと言っておるだろうが!」

「はいい!」

 答えながら、思う。

 やっぱり、私にこの仕事は向いていないのかもしれない。

(了)

お題:女の罪/必須小道具:鬼コーチ

       
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