僕とおっぱい

 愛が地球を救うなんてテレビではよく言ってるけど、僕はそんなのは、嘘っぱちだと思う。そもそも愛だけで地球が救えたら、争いなんて起こるはずもないじゃないか。

「――僕は思うんだ。こんな荒んだ世の中で僕を救ってくれるのは愛なんかじゃなくて、おっぱいなんだって!」

 両手のひらに、ふよん、と柔らかな感触。鉤爪のように曲げた十指が、僅かにそこへ埋まる。そこ、というのは、僕の目の前にいる、垂れ目がちで小さな唇がチャームポイントな半裸の女性の胸部に存在する、ふたつの巨大山脈――つまり、おっぱいだ。

 僕の両方の手のひらの中心には、山脈の頂が、掠めるように触れている。おっぱい自身の柔らかさと、先端の突起がもつほんの少しの固さが、僕の腕をぞわぞわと痺れを伴って伝わっていき、ふたつの感触は僕の胸の真ん中あたりでぐるぐると混ざり、そのまま背筋を震わせながら脳へと到達する。そうなると僕の下半身が反応するのは早く、僕はスーツの上下をきっちり着込んだまま、正しく折り目のついたスラックスの下で、はしたないほどに欲望を昂ぶらせていくのである。

「あなたって本当におっぱいが好きなのね……」

 彼女は、肩のあたりでふわふわ揺れるゆるくウェーブした毛先を、手入れの行き届いた細い指先で弄びながら、呆れたように言った。

 僕らが今いるのは、いわゆるファッションヘルスと言われる風俗店の一室であり、僕と彼女は(彼女の源氏名をみるくちゃんという)勿論恋人なんて甘い関係でもなく、単なる客と風俗嬢にすぎない。

 みるくちゃんを指名するのは、これが丁度十回目だ。彼女に出会う前は、指名なしでこの風俗店を訪れていたのだが、担当となった女性たちがことごとく僕の求めたタイプとはかけ離れていたため、彼女らを指名する気にもなれなかった。そろそろ別の店に変えようかと思っていたところに、女神の如く現れたのがこのみるくちゃんなのだ。

 彼女は僕の歪んだ欲望を満たしてくれる、素晴らしい女性だった。それ以来、僕は立て続けに、彼女に指名を入れている。指名をすれば、それなりの金をとられてしまうが、僕の本来の目的のためには、そんなことは捨ておけるほど些細な問題だった。

「ああ、僕はおっぱいが好きだ。大好きだ!」

 僕はおっぱいを揉みしだく手を止めて、彼女の顔を下から見上げると、力強く断言する。僕の言葉に、みるくちゃんは大きく溜息をついた。そして「ま、いいけど」と退屈そうに呟いて、僕に冷たい一瞥をくれると、再び指先に巻きつけた毛先をぼんやりと眺め始めた。それを確認して、僕もまたおっぱいへと視線を戻す。そして何食わぬ顔で手の動きを再開させつつも、

(……イイ!)

 僕は心の中で、小さくガッツポーズをした。

 風俗嬢は、客を悦ばせるのが仕事だから、大抵、嘘でも感じているふりをするものだ。僕がこれまで出会った風俗嬢は、みんなそうだった。僕が「感じてるふりはしなくていい」と頼んだって「ふりなんてしていないわ。本当に気持ちいいのよ」などと言って、うふんあはんと喘ぐのである。僕が、おっぱいを揉む行為以外に興味を示さず、時間いっぱいおっぱいを揉んだとしても、彼女らの演技は最後まで続く。なんとも律義なものである。これがプロ根性というものだろうか。

 しかしみるくちゃんは違った。最初はマニュアル通りに色々なサービスを施すために笑顔を振りまいていたが、先ほど述べた通りの言葉を僕が口にすると、彼女は一変して「あっそう。じゃあ遠慮なく」と言い放ち、以来僕の前ではこの調子なのである。一見しておっとりとした可愛らしい外見にも関わらず、この冷たい態度。そしていくら自分のおっぱいを揉まれようと反応しない、無関心さ。――これなのだ。僕が求めてやまなかったものは、これなのである。

 相手の反応を気にせずに、純粋におっぱいの感触だけを楽しむことができるなんて、ここはまるで天国ではないか。

 そもそも、おっぱいを触って、悪い気持ちになる奴なんているはずがない。何しろ、おっぱいである。どんな悪人だって、生まれたてのころは間違いなく母ちゃんのおっぱいを求めて育ったのだ。つまりおっぱいはこの世で唯一の、絶対的な存在なのである。どれだけ口で「おっぱいなんてどうでもいい」とか「ふともも派」とか言っていたとしても、結局、目の前におっぱいが現れたら、人は触らずにはいられないのである。それは永遠に続く人の、いや哺乳動物としての性なのだ。その衝動に、人間は誰一人として逆らえやしない。体はいつだって正直なのである。

 そうして、おっぱいに触れている間、人はその温もりと柔らかさに安らぎを覚え、幼子のように純粋な気持ちにたちかえる。そのとき、おっぱいに触れたすべての人は、生命の原点に舞い戻ったかの如き冷静な思考を手に入れることができるのだ。やけに冴えた頭の中で、人は様々なことを思考するだろう。

 英雄、色を好むとはよくいったもので、結局のところ、英雄はおっぱいを揉みまくっていたから、他の人間よりも冷静な判断ができ、そして自身の名を歴史に轟かせることができたわけである。

 歴史の影に、おっぱいあり。

 おっぱいイズジャスティス。

 やはりおっぱいは、世界を救うのである。

 さて、話を戻そう。僕がこうしておっぱいに触れ、そうして冷静になった頭で考えていることは、ひとつだけだった。

 それは、おっぱいのことである。

 しかし僕は、おっぱいを触りまくることで、英雄のように歴史に名を残したいわけではない。

 そもそも、僕は仕事の営業成績も並以下で、友達も少ないし、色を好むどころか異性が寄り付いてこず、三十を過ぎてもいまだ童貞だし、おっぱいだってこうやってお金を払って揉んでいる。そんな僕にできることといったら、とりあえず大好きなおっぱいを揉むべく風俗に通う金を稼ぐために、仕事をクビにならないよう必死で働くぐらいしかないのだ。そこまでして、なぜおっぱいを揉みたいのかと訊かれると、それはもう「おっぱいを愛しているから」としか答えようがない。

 僕は純粋に、おっぱいに触れ、その感触を楽しむためだけに、今を生きているのだ。

 だから、おっぱいを触っただけであんあん言われては困るのである。高い金を払っておっぱいを揉みに来ているというのに、そんなことでは興が削がれるというものだ。本当は感じてもいないのに「アッチも触って」だの、こちらが求めてもいないのに「口でしてあげる」だの、そういうことは、僕はごめんだった。おっぱいを揉みたい。僕を突き動かしているのは、ただその一心なのである。だから、僕は風俗嬢に、あくまで無関心を求めている。

 そういった考えから、単純におっぱいを楽しむためと思って、僕はそういった要求をしたのだが、最近はみるくちゃんの冷たい態度が、どうにも癖になってしまっているようだった。

 考えてもみてほしい。女の子が自身のおっぱいを揉まれているというのに、さも興味なさそうな気怠い表情で、爪の手入れをしたり、髪の毛を弄ったりするのである。しかし、そんなときでもおっぱいは優しく僕を包み込む(実際に包み込んでいるのは僕の手なのだが)。表面上は拒絶されつつも、僕を受け入れるおっぱいは、時折僕の拙い刺激に反応して、その先端をさらに固くすることすらあるのだ。――僕が夢中になってしまったのは、ひとえにこのギャップゆえである。僅かなおっぱいの変化を意識した途端、僕の股間は現在のように、どうしようもないほどに熱を持つのであった。

 じりりりり。部屋に置かれていた時計が鳴る。どうやら、時間がきてしまったらしい。仕事で外回りをしている際の九十分はやたらめったら長く感じるものだが、こうしておっぱいを揉んでいれば、それもあっという間に過ぎてしまう。

「時間よ」

 みるくちゃんは、そっけなく言って、おっぱいを揉んでいた僕の手を振り払うと、座っていたベッドから腰をあげた。

 僕は名残惜しげに指先をわしゃわしゃとしながらも、渋々と立ち上がる。そして、こちらも見向きせずに服を身につけ始めた彼女に向かって、深々とお辞儀をした。

「ありがとう、今日も楽しかったよ」

 男は引き際が肝心である。決して延長はしない。まだ揉み足りないなんて、駄々もこねない。あくまで紳士的に振る舞うのだ。おっぱいを揉むだけという奇特な客の僕は、いつも店側に煙たがられないように細心の注意を払わねばならない。

 僕は彼女に背を向けて、そのまま部屋を出た。そして後ろ手にドアを閉める、その瞬間。

「じゃ、またね」

 みるくちゃんは、必ずこう言うのだ。楽しげに弾んだ声で。

 普段の無関心との落差に、張りつめたままの下腹部が敏感に反応し、窮屈な場所に押し込められたままのそれは、もはや痛みを伴うほどだった。

 僕は帰り際に受付で、みるくちゃんの次の出勤日を確認してから、若干前屈みの姿勢で店を出た。

(ああ、みるくちゃん。また来るよ、明後日)

 そう心の中で呟き、今しがた出たばかりの店を振り返る。チカチカと光る原色のネオンライトが目に眩しい。狭い路地のあちこちには、似たような店構えの風俗店がひしめきあっている。

 この激しく明滅する世界の中に、僕はおっぱいの幻を見た。手のひらや、指の先には、温かさと柔らかさ、そして花の蕾のような僅かな固さが、いまだ残っている。

(この感触を忘れないうちに、家に帰ろう)

 熱を帯びた股間を庇いながら、今日も僕は急ぎ足で、家路につくのであった。

(了)

       
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